14. おたまじゃくし
駅前の交差点で信号待ちをしながら、澄人は魚の目坂を振り返る。製材所の前は、ようやく出てきた工員が撤去作業を始めたようだが、すでに車の渋滞ができている。
「さっき厄災には大小あるって言ってましたけど、それってラサツの個体差なんですか」
「その通り」
「それじゃあ、事故とか疫病とか大きな厄災には力の強いラサツが関わっているってことですよね。力の大きさは体の大きさと比例しているんですか」
「体の大きさもそうだが——成長度合いという方が正確だな。ラサツは魂を喰らうほどに成長する。脚が生え、腕が生え」
深影に続いて横断歩道を渡る澄人は、正面から走ってきた大型のトラックを認めると立ちくらみを感じて足を止めた。トラックの無機質な四角い顔が容赦なくこちらに迫ってきて、視界の暗転と衝撃と、悲鳴と、果てしなく生暖かい——トラックは澄人の前髪を巻き上げて横手を通り過ぎる。
二月の事故以来、ふいにその時の一瞬を思い出すことがある。湧き上がるコンマ数秒の生々しい感覚を振り切るように、横断歩道を渡りきった深影を追いかけた。
迷いなく歩いていく深影が足を止めたのは、駅の裏手の涙橋商店街のラーメン店の軒先だった。何度も洗ったせいで毛羽だった白い木綿に朱赤の毛筆体で一発軒と書いてある。
「ここ……僕の家ですけど」
「勿論知っている」
引き戸の隣の換気扇から、ラーメン店らしい煮干しと醤油の香りに混じって得体の知れない甘酸っぱい発酵臭が暖かい蒸気と共に流れ出てくる。
「酒粕?」
つんと尖った鼻梁をわずかにひくつかせて深影が呟く。引き戸に手をかけた深影の手を澄人が押さえた。
「まさか食べていくつもりじゃないですよね!?」
「何か問題でも? 少し話をさせてくれ」
「問題大ありです! 僕は家でラーメンを食べたくないし、第一こんなところでゆっくり話なんてできないですよ!」
「立ち食いじゃないのだろう」
深影が無理矢理戸を引くと、一瞬開いた扉の隙間から明海の「うおっい、そのままあ!」という太い声が聞こえた。競馬中継を聞いているらしい。自分の父親ながら情けない。こんなのが自分の父親だなんてわざわざ披露するの絶対にごめんだ。
澄人が無理矢理戸を閉じると、深影がむっと口を曲げる。
「わたしは空腹だ。なぜなら先ほどお前を相手に無駄な力を使ったからだ。入るぞ」
「だ、め、で、す!」
深影の腕にさらに力が入るのを必死で押さえる。普通の女子はこんなに力があるものなのだろうか。澄人は両手で押さえたいのを堪えた。深影が片手で扉を開けようとしている以上、男の自分が両手を使う訳にはいかない。
「ちょっとヤダ、扉が開かないんだけど」
擦り硝子の向こうで客らしい人影が戸を揺すり、澄人は仕方なく手を離した。
カラカラと軽快な音を立てて扉が開き、月の台高校の女生徒が二人、店から出てくる。
「あー空気がウマイ」
「ねえ、環さん戻るまでここで待ってようよ」
「もう限界だって。制服にこの匂い移ったらどうすんの。酔っ払いのゲロみたいな匂いなんだけど」
「あんたが冒険するからでしょ。普通のラーメン頼めってみんな言うじゃん」
家帰ったらパブリーズだよ、などと言いながら女生徒が遠ざかっていのを澄人は見送る。
「僕のこと調べたのならもうご存じだと思いますけどうちのラーメンは本当にまず……あ」
深影はさっさと店に入ってカウンターの中央に腰を下ろしていた。あっちゃー、と言いながら明海がコップに水を入れている。客は先ほどの二人で捌けたらしい。店内が明海と深影だけなのを確認して、澄人はしぶしぶ店に足を踏み入れる。カウンターの隅のラジオから競馬放送が流れていた。
「あーだめだこりゃ。いきみすぎだっつーのなあ」
ラジオに話しかけた後、はいらっしゃい、と手に持っていたコップを深影の前に置く。
「今日のおすすすめは酒粕ラーメン。酒粕はコレステロール低下、便秘に効果あり。ま、高校生にゃコレステロールなんて関係ねえか? アルコールはきっちり飛ばしてあるから二十歳未満もオッケーよ……っておう澄人。帰ったんならただいまくらいでけえ声で言えって。客かと思ったぜ」
入り口に立っていた澄人はしぶしぶと深影から一つ空けた席に腰を下ろす。
「僕はチャーハン。深影さんも変なの頼まない方がいいですよ。メニューにはありませんけど、頼めばレバニラとか定食もできます。まともに食べたいのならご飯ものにした方がいいです」
「なに、このねえちゃんはお前の友達なのか? 珍しいなあ、おい。あ、ねえちゃんチャーハンは正規メニューじゃねえから初めてならやっぱ俺のオリジナル麺がおすすめな。サービスするから……あ、ちょっと待て」
明海はぴたりと動きを止めてラジオに耳を傾ける。新しいレースが始まるらしい。
明海はごつい体に似合わず手先が器用なので調理技術は悪くない。チャーハンや定食類は普通の味で、明海の友人などの店の常連客はよほど寒い日でもなければ麺類は食べない。ただ、これらの品はメニューに載せておらず、常連にしか提供されない。明海はあくまでも壊滅的なセンスを全開にした麺の提供にこだわっているのだ。
「このキツネラーメンと言うのは油揚げが入っているのか」
「キツネラーメン?」
深影の手元のメニューを見ると確かにキツネラーメンと書いてあった。澄人が知らないうちにメニューが大量に増えている。卓上型のメニュー表には細かい文字びっしりとラーメンのバリエーションが書き連ねてあり、キツネラーメンの上にはタヌキラーメンなるものもある。
「……入ってるんじゃないですか。キツネって書いてあるし」
「ではそれをもらおう。親父、キツネラーメン大盛りだ」
「おう、キツネ一丁!」
あらぬ方向に視線を漂わせたまま明海が応じ、湯気の沸き立つ寸胴に麺を放り込む。よし、よし、など呟きながら調理をする姿を見ると、どうやら競馬に夢中でこちらにかまっている暇などないらしい。なにがそこまでおもしろいのか、澄人にはさっぱりわからない。やたらと熱狂して結果に一喜一憂する姿は本能まるだしの動物のようだ。
程なく深影に提供されたキツネラーメンは大きなどんぶりの上にネギラーメンのごとく細切りにされた油揚げが同じ長さの九条ネギと混ぜられてこんもりと盛られていた。周囲を取り巻く小さな白い正立方体は豆腐だろうか。まさに味噌汁そのものの匂いがした。
深影は割り箸を手にすると、特に驚きも嫌悪も浮かべないまま箸をつける。彫りが浅い細面に、伏し目にするとつり上がって見えるほどの切れ長の目をしているが、あまり和風な印象を受けないのは、細くて高い鼻と口角の絞まった形の整った唇のせいだろうか。ラーメンが似合わないことこの上ないが、うまそうともまずそうとも判別できない表情で黙々と麺を口に運んでいるところをみると、食べられない味ではないのかもしれない。澄人もチャーハンを口にすることにした。
「今日は環はいないのか」
「ああ、たまきんは今買い出し中。そろそろ帰ってくるんじゃねえかな」
レースが終わり、明海が肩を落としてラジオのボリュームを下げる。
「深影さんも環さんのファンなんですか」
「バカを言うな」
深影はレンゲで味噌汁のようなスープをこくりと飲み込んだ。澄人が半分も食べきっていないというのに、深影はどんぶりの中身をほとんど完食していた。
「うちの学校の女子の間では環さんは有名ですよ。この店に来る女子はみんな環さん目当てですから」
「今年に入ってからここでバイトをしているそうだな」
「おうよ、てめえらの春休みからだっけか? そろそろ三ヶ月だな。俺は弟子なんていらねえって思ってたけどよ、この倅がラーメンは食う専門になっちまってちっとも作る方に興味を持たねえし、このあたりで外からでも次世代育てる準備しなきゃならねえと思ってさ」
「誰が食べる専門だよ。図々しい」
「へ、口ばっか成長しやがって。そのうちあれだぜ? 五つ星取ってから店継がせてくださいつっても遅えぞ?」
澄人は無視してチャーハンを口に詰め込む。環が留守のおかげで客が来ないので、このままだと明海の話が止まらなくなる恐れがある。やはり早く食べ終えて別の場所に移動するのが得策だ。
そんなことを考えていると、からから、と扉の音がして外の涼しい風が店に流れ込む。「おう。お帰りい!」と明海が戸口に声をかける。振り返ると両肩にエコバッグを下げた環だった。その後ろには早速女生徒のグループが控えている。環の後をつけてきたのだろうか。
「戻りました。大将、卵がタイムセールで……」
どさり、とエコバックが環の肩から抜け落ちた。小さな泣きぼくろのある、少し垂れ目の瞳が見開かれている。
「みっ」
環が飛び立つ蝉のような声を発する。運悪く卵のパックが袋から飛び出していて、容器の中で全滅していた。漏れ出た卵液が床に広がっている。しかしそれでも環の視線は澄人を飛び越え深影に固定されている。みっ、と再び環が鳴いた。
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