12. お前を駆除する
肩を後ろに強く引かれ、澄人は後ろ倒しに倒れた。眼鏡が外れて湿った木の葉の上に転がる。
小説などで殺人鬼に切りつけられるシーンで、熱いと表現する物があったと思う。致死の怪我は熱いと感じるのかと思っていたが、そんなことはない。何の痛みも感じなかった。無意識に手の指を一本ずつ折っていく。
——なんともない
首に触れてもぬるりと血糊がすべることはなく、汗ばんだ首の皮膚に傷はない。その代わりに肩がじんじんと痛む。
「ふざけたまねを」
深影の鎌に貫通寸前の古語辞典がぶら下がっている。もう一方の手には肩紐のバックルが外れたバックパックが握られている。バックパックは提灯お化けのように布地が真っ二つに切り裂かれていた。背負っていたバックパックの肩紐が、深影が引っ張った拍子に外れて、運よく澄人の盾になったらしい。
深影がバックパックを投げ捨てる。中身の教科書とノートが散らばった。強風でそれらが勝手にパラパラとめくれていく様を澄人は呆然と見つめる。
一体何をしたら一振りの鎌でこんな状況になるのだろうか。異常なまでに斬れ味が良い事は間違いない。まともに受けていたら澄人の首は飛んでいたかもしれない。
「運が良いな」
笑顔なくそう言って、深影は手近な木の幹に辞書を叩きつけた。湾曲した刃からあっさり辞書を抜き落とす。慣れた動作に澄人は尻餅のまま後ずさった。
ズボンのポケットが、かさり、と乾いた音を立てた。取り出すと弦道の札だった。弦道が救急車で運ばれていった後、地面に落ちていたそれを拾ってポケットにしまっていたのをすっかり忘れていた。胡桃のような弦道の笑顔を思い出す。
深影に胸ぐらを捕まれた拍子に、指から離れた札は強風に煽られて踊るように飛ばされていった。
澄人は深影を見据える。
「どうしてあんなことしたんですか」
「何の話だ」
「弦道さんは来孫に会うのを楽しみにしていました。なのにあなたのせいで——弦道さんが死んだのはあなたが羽根を刈ったからですよね。あなたがあんなことをしなければ弦道さんは来孫に会えたのに」
深影は背後からの突風に長い髪を巻き上げられて、無表情に目を細めた。
「それが私の仕事だからだ。あの坊主の寿命はとっくに切れていた。定められた時間通りに落ちない羽根は切り落とす」
「満月の呪いもあなたの仕業なんですか」
バシ、と生木がはぜる音が盛大に響いた。頭上で太い木の枝が強風に耐えかねて折れた——のを認識したと同時に黄ばんだ葉を茂らせた枝が、他の枝に引っかかりながらこちらに向かって落下してくる。
仰いだ深影が澄人から俊敏に飛びすさる。そのときには既に木肌がはっきり見えるほど目の前——この縦線がはいったようなごつごつした樹皮はクヌギだ——に近づいていて、深影に膝立ちさせられていた澄人は避けきる前に木の枝と葉の群に押し倒された。背泳ぎするようもがいて半身が葉群からに抜け出たところで、右の足首が枝の分かれ目に引っかかってしまった。
「私の仕事はもう一つある。お前のような寿命を乱すラサツを排除することだ」
ぬめるような艶のある黒いローファーが傍らに立つ。全身が逆立つような殺気で、鎌を降り上げている深影が見なくても見える。
脚を引き抜こうとやっきになって身体を丸めた瞬間、今度は正面から吹き付ける突風と共に何かが頭上を掠め、まな板に思い切り包丁を叩きつけたような音がした。音を振り返ると、赤い看板が木の幹に突き刺さっていた。白い太文字で、たばこ、と書いてある。その裏から黒い水滴のようにオタマジャクシが滴り落ちた。それは澄人の方を見つめた後、吹き溜まりの木の葉の隙間に溶けていった。
「なんだよもう。こんな時に」
緊張感の限界だった。一気に脱力が押し寄せて、その場に突っ伏したい気分になった。弦道の札が飛ばされたとたんにこれだ。弦道を救うことはできなかったがそれなりに効果があったらしい。
「どういうことだ。どうしてラサツがお前を襲う」
オタマジャクシの消えた場所を見つめながら深影が呟く。無表情を貫いていた顔にわずかな驚きが浮かんでいた。
「あのオタマジャクシ、ラサツっていうんですか……っていうかあなたにも見えるんですね」
深影が驚きに怪訝を混ぜて澄人を見る。
「お前、本当に立花澄人なのか」
「さっきからそう言ってるじゃないですか」
すっかり緊張の糸が切れた澄人は投げやりに答える。
深影は木の根本に放られていた鞄から古びて褪せた皮の表紙の分厚い本を取り出した。留実のマンションで見かけたときに抱えていたものだ。厚みのある側面を長い指でさっと撫で、中程でおもむろに開くとぱらりと次のページをめくる。
「見ろ! 立花澄人、設定は九十二歳。羽根が抜けたという報告は届いていない」
深影が突きつけてきたのは、細かな文字と数字が連なった名前の目録だった。深影が指差す場所には赤い丸印が付けてあり、黒い文字で立花澄人 0170921010と記載されていた。
「な、なんですかこれ」
「この死亡目録は羽根が抜けると自動的に更新されて取り消し線が入る仕組みになっている。私がお前を見かけてから1週間経過したが、未だに情報が更新されていない。これは一体どういうことだ」
「そんなこと僕に言われても」
眼前の目録に、もう一つ赤い丸印が記載されている箇所があった。太田留美 0170580619と記載されている。留美の行にも取り消し線は入っていない。深影が書物を手元に戻す。
「一体いつから羽根がない」
「いつからって言われても、僕はもともと羽根なんて見えなかったんだからわからないですよ」
「ということは、生まれつきではないのだな。羽根は通常の人間には見えないが、まれにそれを失った場合に見えるようになることがある。羽根が見えるようになったのはいつだ」
本を繰りながら質問する様はカルテを手にした医者のようだ。澄人は病状を説明するような気分で「三ヶ月くらい前です」と答えた。カルテ——本を眺めていた深影の動きが止まる。細い喉元がわずかに動いた。
「三ヶ月?」
「はい。今年の二月です」
深影は勢いよく本を閉じる。
「馬鹿な! そんな長い期間、羽根のないまま生きているなんて話は聞いたことがないぞ。いや、それならそうとなぜ早く言わないんだ!」
「さっき死んだり殺されたりした覚えはないって言ったじゃないですか! 全然話を聞かないですね!」
「駆除するつもりで喋りすぎてしまったではないか」
深影がまるでこちらが悪いとでも言うような溜息をつき、鞄に本と鎌を仕舞込む。中身はそれしか入っていないらしい。
「寿命の残った人間を私が殺すわけにはいかないからな……全く、あいつはどういう管理をしているんだ」
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