11. 罠

 放課後、校舎から出た澄人は快晴の日差しに目を細めた。五月の空は見事に透き通る青空だった。誰もいないコンクリートの階段を走り降り、既に時刻は15時を過ぎている。とっくの昔に深影の姿はなかった。

 深影は校門を出て右に進んでいった。澄人の帰宅路と同じ方向だ。そのまま進むと魚の目坂に突き当たる。澄人はダメ元で深影の足取りを追うことにした。とはいえ、どこに向かったかは皆目見当がつかない。深影を見かけた留美のマンションも弦道の寺も魚の目坂から近いということだけを頼りに、魚の目坂の住宅街を見回ることにした。

 自宅とは逆方向になるが、魚の目坂を上り方向に歩いてみる。真っ直ぐ進むと坂の頂上で魚の目坂はみたらし坂という名前に切り替わり、緩やかに蛇行する長い下りになる。下った先は、大きなビルが点在する海に面したオフィス街だ。オフィス街にはコンビニとチェーン型のカフェが二つほどあるだけで、学生には縁のない場所だ。

 午後の日差しを受けながら、魚の目坂の桜並木から風に散らされた桜の葉が舞い落ちてくる。

 魚の目坂の頂上付近で澄人は住宅地側に道へ折れた。この一帯は月の台の一番の高台だ。シャッターの降りた駄菓子屋を通りすぎる。目を引くエメラルドグリーンのペンキで塗られた店の外壁はそう古くはないが、二年ほど前に店主の老婆が足を怪我したのをきっかけに休業になったと聞いた。シャッターには砂埃がこびりつき、長いこと開けられた形跡がないのを見ると、すでに店を閉めてしまったのかもしれない。

 小学校の頃はよく礼二郎と武虎の三人で、自転車でこの店に遊びに来ていた。数十円の買い物をして、それを近くのみさき公園で食べるのがお約束だった。

 そういえば一度、武虎が父からもらった小遣いで大量に店の菓子を買い漁り、食べきれずに残した菓子を公園内にばらまいたことがある。低学年の子供たちがそれを広い集めている姿を、通りがかりの弦道に見つかり、さんざん説教された。さらに家に帰ると明海に話しが伝わっていて、店に入った瞬間明海に頭を殴られた。悪いのは武虎なので、未だに釈然としない思い出だ。

 

 そんなことを考えていると、ちょうどみさき公園の前にたどり着いた。公園に顔を向けた澄人はギクリと足を止めた。公園に設置されたバネのついた幼児向け遊具に八坂深影がこちらを背にして腰掛けていた。

 みさき公園は、都心の住宅地にしては広さのある公園だ。しかし敷地の三分の一は半分枯れたいびつな芝生のスペース、もう三分の一は砂利とベンチの置いてあるスペース。奥はまばらな木立の林になっている。そして申し訳程度の遊具として、バネのついた青い木馬と赤い車の乗り物があるだけの殺風景だ。その赤い車に八坂深影が浅く腰かけている。

 よく晴れた日にも関わらず公園に子供の姿は見あたらない。正面の林が強い風になぶられて、ざ、とむなしく音を響かせていた。

 林がうっすらと暗いのは、林の先が岬神社の森に繋がっているからだ。

 岬神社は公園よりさらに高台にあり、公園の林の先は神社に向かう崖のような急勾配になっている。そのため土地の境目は安全柵として高いフェンスで仕切られている。

 深影は神社の方を見上げているようだ。不意に立ち上がって林に向かって歩き出す。

 澄人は慌てて公園に入ろうとして、入り口の自転車侵入防止のポールに足を取られた。よろけて目線を外したその一瞬、顔を上げると深影はいなくなっていた。

 距離はほんの十数メートル程度だったのに、林に入ったはずの深影が見当たらない。澄人は小走りで林に足を踏み入れた。

 木立はかなり間隔が空いていて広くもない。それなのに誰の姿もない。深影はまるで煙のように消えてしまった。

 数歩進んで足下の小枝を踏み折ったとき、澄人は唐突自分の置かれた状況の危険さに気づいた。

 八坂深影が自分をおびき寄せるためにここに入ったのだとしたら——

 夢中になって餌を食べていて、ふいに肉食獣の射程距離にいることに気づいた小動物の気分だった。背負ったバックパックの肩紐をぐっと握る。

 強い視線を全身受けているような、肌がひきつるような感覚が突然湧き上がる。弦道の家の前で感じたものと同じだ。一つ大きく違うのは、自分がその空気の中心にいる、ということだ。大きな枝が風に揺すられて、ざ、ざ、と潔い音を立てている。その音は先ほどと変わらないが、空気はまるで別世界のような緊張感に包まれていた。

 引き返さないと——

 ひゅ、と冷たい風が顔に吹き付けて喉元に凍るような痛みが走る。硬質の、尖った物質が皮膚を突き破るぎりぎりの圧力で喉に押しつけられていた。


「遅かったじゃないか」


 低く滑らかな声がうなじにかかる。

 間違っても振り返ることはできないが、背中に張り付くほどの距離に八坂深影が立って、例の鎌の刃先を澄人に突き立てているのが容易に想像できた。

 硬直した体制のまま、ぎくしゃくと目を落とすと右後ろから顎の下にかけて、水に濡れたように光る鎌の刃の曲線が見えた。サイズ的にシックルというやつだ英語では鎌はサイズに合わせて二つの呼び名がある。大きい麦などを刈るのがサイズで柄の長さはかなり長くて穀物を掻き抱くように刈ることができる対して日本の草刈り鎌と同じ大きさのものはシックルという名称で呼ばれ三日月型の派に柄をつけたようになっている欧米圏の穀物は日本のそれとは違って——

 澄人の思考が緊張のあまり暴走する。


「こそこそ嗅ぎまわって、一体どういうつもりだ、立花澄人」


「なんで僕の名前」


 機械のような正確さで鎌に一ミリ圧力がかかった。


「質問に答えろ」


「い、嫌です」


 澄人は喉を動かさないような小声で、しかしきっぱりと答えた。

 八坂深影は怒りにまかせて首を掻ききったりしない。きっと冷静に聞くべきことを聞いた後、ばっさり斬り捨てるタイプだ。だから向こうのペースに乗るべきじゃない——たぶん。耳鳴りがするほど動悸がしている状況で冷静な判断などできるわけがなかった。

 ふ、と笑う気配があった。


「では、私が答えてやろう。立花澄人、十五才。予定寿命は九十二才。九月十六日生まれ、AB型。月の台高校一年二組。成績は優秀で、高校入試の成績はトップ。中学校時代の成績も学年トップ。運動は苦手で体育の成績は平均以下。性格はおとなしく、礼儀正しい。保守傾向の大人には受けはよかった。反面、無駄に現実主義で夢がない、まじめすぎてつまらないというのが同学年の生徒の印象だった。四歳の時に母親を亡くして父親と二人暮らしだった——私の調べたのはこんなところだが他に付け足すことはあるか」


「よ、予定寿命ってなんなんですか——それに、なんで僕を過去形で語るんですか」


 大声を出して問いただしたいところだが、喉の鎌があるので囁くような声しか出せない。


「とぼけるのは止めろ。先週の火曜、太田留実のマンションの前でお前にはすでに羽根がなかった。あれからすでに七日が経過しているな。人間が羽根のないままこれほど長い期間無事とは考え難い。そうなると答えは一つだ」


 深影が澄人の背中に身体を寄せる。無機質な口調に反した柔らかい身体の感触が澄人の腕に伝わる。


「お前は一体いつ立花澄人を殺した。正直、羅刹ラサツごときがここまで見事な擬態をするとは驚きだ。しかし、私の寝首を掻こうなど千年早いぞ」


「な、何か勘違いしてませんか。確かに僕はよく事故に遭いますけど、死んだり殺されたりした覚えはありません。あなたの後を追けていたのは、あなたに羽根がなかったからで、それにあなたは弦道さんの羽根を——」


「あくまでもしらを切るというなら、ここで消えてもらう!」


 言うが早いか、深影は澄人のバックパックを掴んで乱暴に後ろへ引き倒す。バランスを崩してよろけた澄人の視界の端に鎌を降りおろす深影が映った。


 ——間違えた


 深影は澄人が思うほど気長ではなかったらしい。

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