9. 鎌の少女

 瓦葺きの門前に、筆文字で泉寿寺と右読みで書かれた大きな天然木の一枚板が掲げられている。掠れたような色褪せが、寺の長い歴史を感じさせる。


 ——たかが紙切れに五千円。


 寺の門を見上げながら、澄人は黒いナイロンの財布を握る。

 ここで弦道に五千円支払うと、月末まで昼食は購買のパン一つだ。参考書も当面買えなくなる。

 護符は勝手に弦道が澄人のポケットにねじ込んだのだから、黙って貰っても良いのだろうが、値付けされた後でそれでは後味が悪い。このまま身につけておくなら金を払うのが筋だろう。

 はあ、と溜息を吐く。

 自分でも正気とは思えない。でも、確かに今朝、サッカーボールが顔面に激突したのは護符を落とした直後だった。これで怪しげな生き物の攻撃が防げるのなら、間違った出資ではないはずだ。それで澄人の不運が回復すれば、クラスメイトの噂もいずれ落ち着くだろう。今はなにより勉強に集中できる環境づくりをしなくてはならない。

 澄人は意を決して短い石段を登り、泉寿寺の門を潜った。

 瞬間、鼓膜を刺すような金属質の高音に襲われて顔をしかめた。

 寺は広い石畳に本堂、その右脇の楠、左手に広がる墓場——水場が新しくなっていた以外は礼二郎と武虎と遊び場にしていた小学生の頃の光景と変わっていない。でも—— 


 ——なんだ、この感覚。


 首筋の皮膚が、奥から粟立つように不快にざわつく。見知った場所なのに、なんだか気味が悪い。

 ぽつり、と大粒の冷たい雫が澄人のうなじを打つ。

 頭上にはいつの間にか暗雲が立ち込めていた。突風に煽られ、楠が繁った葉を鳴らす。


 ——気象病だ。


 澄人は一人合点する。

 急激な気圧の変化は体調変化を招く。耳鳴りはその代表的な症状の一つだ。

 弦道の自宅は、本堂の脇の敷地を抜けた先にある木造の平屋だ。弦道の息子が住職だった頃、何度か家に上げてもらって、その奥さん——といってもすでに老女だったが——からお菓子をごちそうになったことがある。久しぶりに訪れた弦道の家の垣根の先には澄人の肩近くまでありそうな濃いピンクと白のサツキが咲き乱れていた。

 耳鳴りは一向に治らず、強まった悪寒はまるで皮膚の上に微電流を流されているようだったが、低気圧が理由だとわかればなんのことはない。澄人は垣根の脇に添えつけられたインターホンに指を伸ばした。

 どさり、と庭の右手から米袋を取り落としたような音がしたのはその時だ。

 弦道は庭だろうか。敷地に踏み入った澄人は目にした光景に立ちすくんだ。

 泉寿寺と比べるとかなり手狭な和風の庭の隅に、月の台高校の制服を着た女生徒がこちらを背にして佇んでいる。その背には羽根がない。強風に黒髪が柔らかく舞い上がり、伏目にした睫毛と乳白の陶器のような頬が覗いた。今朝の女生徒だ。


「全く、環は何のつもりだ……」


 呟いた女生徒の右手には半円形に湾曲した鎌、そして左手には羽根が一本握られている。そしてその足元に、背中を丸めた弦道が倒れていた。弦道の痩せた背中にもまた羽根がなかった。

 今朝には力強く揺れていた紫の羽根は今、女生徒の手の中だ。淡い紫色がみるみると褪せていく。

 澄人は今すぐ走ってこの場から逃げ出したいという両脚の衝動と戦いながら、静かに庭の左手の白いサツキの植え込みに身を隠した。走り出せばあの女生徒に見つかってしまうからだ。本能が見つかってはいけないと訴えている。

 激しくなる心臓の鼓動にかぶさって、規則正しい足音が近づいてくる。


 ——なんで弦道さんの羽根を


 足音が庭を出て、玉砂利を踏む音に変わる。音が充分に遠ざかったのを聞いて、澄人は垣根の影から立ち上がった。耳鳴りはいつの間にか治っている。

 倒れた弦道の周りには、小さなおたまじゃくしが泳ぐように集まってきていた。その数匹が弦道の背中に乗り上げる。


「弦道さん!」


 澄人が駆け寄って手で払おうとしたが、おたまじゃくしはわずかに逃げるそぶりを見せたただけで、掌はそれらを通り抜けた。触れてはいないのにぞわりと背中に悪寒が走る。


「弦道さん! 大丈夫ですか!?」


 澄人はポケットから取り出した護符で弦道の背中を払った。蜘蛛の子を散らすようにおたまじゃくしが逃げていく。やはり効果があるらしい。

 うう、と嗄れた声で弦道が眉根を寄せ、弛んだ瞼を薄く開けた。


「おお、澄人か。すまんな、掃除しようと思って庭に出たんだが転んじまったみたいだわ」


 あいたた、と言いながらも膝を抑えて弦道が立ち上がる。そのミイラのような細い足首を、漆黒の手が掴んでいた。


「で、何の用だ。青い顔して」


「こ、これを買取に来たんです」


 視線を足元に釘付けにしたまま、澄人は勢いよく弦道にお札を押し付ける。


「なんだ。律儀なやっちゃな」


 答える弦道の足首を掴む手がゆっくりと開かれた。


「でも……お返しするので持っていてください。絶対離さないで——」


 ひっ、と澄人が喉を鳴らした。一度開かれた手が突然伸び上がり、今度は弦道の作務衣の胸ぐらを掴んだからだ。黒い糊のような質感の腕が地面から伸びている。

 はらり、と護符が弦道の手から離れる。それは静かに雨粒がまだらに染めた地面に落ちた。続いて鈍い音を立てて弦道が背中から倒れる。


「弦道さん!」


 人形のように倒れた弦道の胸に覆い被さるように、手足の生えたオタマジャクシが乗っていた。

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