3. 弦道の護符

 澄人はうろんな瞳で材木が通りがかりに倒れてくる様子を想像し、ふん、と鼻で笑うと身を翻して左手の路地に入った——瞬間、冷水の塊が澄人の顔面にぶち当たった。


 「っひい!」


 背筋を引きつらせて水を払うと、泉寿寺の前に鼠色の着物を着た老人がひしゃくを持って立っていた。足元には「泉寿寺」と油性マジックで書いてある墓参り用の桶が置いてある。


「弦道さん! 気をつけてくださいよ!」


「なんだ澄人、いきなり出てきおって。朝からうるさいのう」


 迷惑そうに顔を顰めたのは泉寿寺の住職の弦道、別名妖怪坊主である。小さな寺が密集したこの界隈の中ではわりと大きな敷地のある古い寺で、近くで育った男児は必ずここを遊び場にする。月の台は割合古い町並みも残っているが、さすがに東京の真ん中では子供が遊べる空き地などはほぼ皆無である。澄人もご他聞に漏れず小学校低学年までこの寺の敷地を遊び場にしていた。その当時の住職は弦道でなくその息子で、弦道の兄弟のようにみえる老人だった。その息子が七十半ばで亡くなり、弦道が再び住職についたのが澄人が小学校五年のときだ。つまり弦道はゆうに百歳を超えていることになる。実際、枯れ枝のような体に載った顔は細長い胡桃の殻のような様相なのだが、その目は未だに虚ろさのかけらも見えず、声にだぶつきがあるが喋りに澱みはない。


「まったく、制服まで濡れ」


 ぼやいた澄人の言葉を遮ったのは、ガン! と短く響く音を立てて寺の隣の改装中のマンションから路上に落ちてきたかなづちだ。澄人が立ち止まっていなければちょうど歩いていた辺りである。「何やってんだ!」頭上で大工の怒声が飛ぶ。


「なんだあ、危ない」


 弦道が落ち窪んで垂れた目をしょぼつかせた。澄人は落ちてきたかなづちに釘づけになっていた。かなづちの頭が一部いびつに膨れていた。ぬめりのある艶をもったその部分がずるりと動くと、それは子供の握りこぶしほどのおたまじゃくしだった——正確にはそれによく似た何かだが、気味の悪いことにアスファルトを泳ぐように滑って移動し、マンションの向いのコンクリート塀の陰に溶けるように消えた。


 ——ダメだ、避けられない。


 あああ、と声を漏らして頭を抱える澄人を、マンションから慌てて出てきた作業着姿の男が不審そうな視線を寄こし、かなづちを拾い上げて引き返していく。


「なにやっとんだ、澄人。変なもん吸ったり打ったりしとらんだろうな」


 ゆっくりながらもしっかりした足取りで歩いてきた弦道は、振り返った澄人の顔をじろじろと眺め、


「五千円」


「は?」


「だから五千円じゃて。最近壱発軒の景気も上々だと聞いとるぞ。小遣いもらっとるだろ」


「何ですかいきなり。高校生にたかる気ですか」


 泉寿寺は先祖代々の檀家を数多く抱えているはずだ。まさか金に困るということもないだろう。

 訝しむ澄人に、弦道が「ほれ」と懐から三つ折りにした和紙を差し出す。開いてみると朱色の墨汁で大小の図形のような文字が書いてあった。中学の修学旅行で行った京都の寺の掛け軸でこんな模様を見たことがある。


「わしの作ったありがたあい護符。今回は特別学割、きっかり五千円にしちゃるから収めとけ」


「いりません。今月いくつか参考書が必要なので、五千円も出費できません」


 そもそも澄人の月の小遣いが五千円だ。昼食代もここから賄わなくてはいけない。参考書も欲しいものが古本で出回っている可能性が低い。つまり無駄な出費は一切できないのだから、こんな紙切れに五千円を払うなんてとんでもない。

 澄人は元の通りに紙を折りたたみ弦道に差し出した。


「お返しします」


「ばっかもん!」


 弦道が柄杓を澄人の頭に振り下ろす。イッっと悲鳴を上げて頭を押さえる澄人に


「五千円で命が助かるんならやっすいもんだろが。お前は死相が出とる。黙って持ってけ」


 痛みに顔を顰めながら澄人が顔を上げると、弦道の顔は真剣だった。澄人は何となく焦って背筋を伸ばす。


「僕そういうの信じません。こういうのプラシーボ効果っていうんですよね。否定するつもりはないですけど、信じない人には効果はないんです。だいたい僕は運はいい方ですし、ほら、この通り健康そのもので怪我ひとつしてませんから」


「お前のはな、強運じゃなくて悪運だ。鬼を呼んでそれを避けたってなんの特にもならんだろうに。無駄に運を使ってるとそのうち酷い目にあうぞ」


「とにかく、これはお返しします」

 澄人は再び護符を差し出したが弦道は受け取ろうとせずに、呆れ顔で息をついた。


「まったく、かわいくないやっちゃの。うちの来孫とは大違いだな」


「ライソン…ひ孫の子供のことですよね」


 澄人はいぶかしげに応じる。いったいこの老人はいくつなのだ。


「おお、そういう知識だけはしっかり持っとるな。そうそう、今年三歳になってな、来週遊びにくるんだと。かわいいぞう。まだ電話で話しただけだけどな、テンメンジャンのおもちゃが欲しいつってな」


「甜麺醤ならうちに本物があります。よろしければお分けします」


「違う違う、いま子供に人気のおもちゃだて。買っといてやる約束してな」


 弦道は破顔して手を振る。息子が死んで、弦道は寺に一人暮らしだ。子供達もすべて亡くなって、檀家が時折世話に来るらしいが、孫夫婦が遊びに来るのは珍しいのだろう。皺皺の顔を更に潰して弦道が笑うたび、背中の紫色を纏った羽根まで嬉しげに揺れた。珍しい色だ。

 通常、老人の羽根は付け根の部分が柔らかくフワフワ震えているものだが、弦道の背中の羽根は針のように真っ直ぐ背中に生えている。


「ほんと、長生きしそうですね」


 澄人が呟くと、タイヤをアスファルトの砂利で軋ませながら灰色の小型バスが車体をねじ込むように路地に入ってきた。道路端に張り付くように避けた二人の鼻先を高速で通り過ぎる窓ガラスには黒いシートが貼られている。

 この手の小型バスはオフィス街側で時折見かけることがある。雑誌やテレビの撮影が行われているときに背後の路肩に停まっている、所謂ロケバスというやつだ。


「なんだ、物騒な」


 弦道が走り去る車を見送る隙に、澄人は護符を弦道のその懐に差し込んだ。気づいた弦道が口を開くより早く、


「子供に人気があるのは甜麺醤じゃなくてテンレンジャーです。戦神戦隊テンレンジャー。僕のうちのバイトの人がその主人公に似てると評判なんです」


 最近の戦隊ものヒーローは主婦狙いの美形俳優を使うらしい。壱発軒に最近入ったバイトの環はテンレンジャーの主人公に似ていると、女子高生だけでなく子連れの主婦も環目当てに店にやってくる。

「それじゃ僕はこれで失礼します」と頭を下げて澄人は足早に弦道から離れた。

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