1. 立花澄人は運が悪い
「ひぐあ!!!」
部屋のドアを開けたとたん片脚が何かにつまずいて澄人は階段を横っ飛びに転がり落ちた。
階段下の台所付きの茶の間に一瞬にしてたどり着くと、ラーメンどんぶりが倒れた澄人を追いかけるように落ちてきた。つまずいたのは、これのせいらしい。中身は上でこぼれたらしいが、泥のような粘性の黄色い液体で汚れたどんぶりは気分が悪くなるような甘ったるい匂いを放っていた。
視界の端をこぶし大の黒いものがかすめて消えた。
「澄人! 朝からうるせーぞ!」
階段下に転がったメガネを拾い上げると、細い廊下を挟んだ先の店から父親の明海がドラ声を上げる。
「ラーメンが置いてあったよ」
頭痛を押さえるような顔で澄人が店に出て行くと、明海がカウンター越しの調理場で、毛むくじゃらのごつい腕に手にした大きな木ベラでもうもうと湯気の立つ寸胴の中身をダイナミックにかき回している。器用にもその目線は左手の細く折ったスポーツ新聞に向いていて、ああ、あれお前の朝飯、とのんきに答える。
澄人の自宅でもある壱発軒は、居住部と同じく古い木造で、赤いプラスチック塗装の五人がけのカウンターと、それと同じ素材の四人がけの木製テーブルが二つあるだけの小さな店だ。
澄人は所々が剥げて薄いベージュの木目が覗くカウンターの隅から台拭きを取り上げた。
「だからって何で部屋の前に…というか! 朝からラーメンなんて食べるわけないだろ!」
「……おはようございます、澄人さん」
ぼそりと呟いた声の主は、バイトの環だ。刻んだネギが山盛りになったボウルを抱えている。
「あ、おはようございます。早いですね」
鋭い眼光にたじろぎながら澄人が答える。環は数ヶ月前からバイトにやってきた青年だ。まるで彫刻のような美形で、身長は明海と変わらないほどの長身だ。ただ、猫背でモデルのような頭身なので明海と並んでいると細身で小柄に感じる。
「今日は仕込みの日なので」
「そうですか」
環はいつも睨みつけるような視線を澄人に向けてくる。たぶん、明海にこき使われてストレスが溜まっているのだろう。
汚れた制服のズボンをぬぐう澄人に、明海はつるっぱげの強面に笑顔を浮かべて振り返る。オレンジがかった光彩をまとった明海の背中の羽根がふわりと凪いだ。
「で、どうだった、期間限定スペシャルメニューのかぼちゃー麺はよ?」
「かぼ…?」
聞き返した澄人に、「かぼちゃー麺」と明海が得意げに頷く。
「昔から芋栗カボチャつってな、女の三大好物の一つよ。カボチャをミキサーでがーっとやって、牛乳と煮干しと隠し味にシナモンでスープ作ってな、栄養も満点だぜ?」
「気持ち悪い」
澄人が台拭きをカウンターに戻すと、明海はごつい手を、カーッ、と額に当て、わかってねえなあ、とカウンターから身を乗り出す。
「月の台の壱発軒って言ったら今や女子高校生に大人気のラーメン店よ? 朝からその人気ラーメンの新作食わせてもらって、ありがとうございますお父様くらい言えねえかなあ。そういう罰当たりな態度だから毎朝階段から転がったりするんじゃねえの?」
「階段から落ちるのは廊下にどんぶり置いてあったり、洗剤こぼれてたり、父さんが脱いだ靴下を放置してたりするからだろ!」
澄人が階段から落ちるのは何も今日が初めてなわけではない。どんなに気をつけていても、週に二回は階段から落ちる。だから最近では気をつけるのはやめて、転んだときに受身を取ることに専念している。
明海は眉間に盛大な皺を寄せて、しなを作って肩を抱く。
「やだあ、お前みたいな運の悪いやつがいると商売あがったりになるんじゃない? せっかく俺のラーメンがスポットライトに照らされてるってときに不吉ぅ。早く学校行ってよね!」
なよなよと小ばかにした仕草で明海が手を振る。
「だれも父さんのラーメンなんて目当てにしてないよ。環さんを見に来てるだけじゃないか。今のうちにまともに食べられるラーメンを作れるようにならないと本当に潰れるよ。というか、僕としては早くこんなお店はやめてもらって安定した仕事についてもらいたいけどね」
「ふふん、星五つ取るまで店畳むわけにはいかねえよ」
にいっと笑った明海の言う星五つとは、インターネットの評価のことだ。ネットで閲覧できる地図サイトに飲食店の情報が載っていて、星の数で評価がされる。星五つは最高得点で、それに近い評価のラーメン店には客だけでなく弟子入り希望が殺到し、テレビ番組取材や食品会社からカップラーメン発売の依頼まで来るといわれている。それんな評価を得ることが明海の長年の——澄人に言わせれば明海のハゲ頭に毛が生えるのと同じくらいに叶わぬ——夢なのだ。
澄人が店の入り口の油膜が染み付いたガラスの引き戸を開けると、内側にかかった壱発軒の暖簾が片方外れて澄人の頭上に直撃した。がはは、と明海が豪快な笑い声を上げる。
くそ、とずれたメガネを直す澄人の眼前を原付バイクが猛スピードで走り抜けた。驚く間もなく悲鳴のような高いブレーキ音が上がって、明海と二人で外に飛び出すと、黒く曲がったタイヤ痕の先で原付バイクが歩道のない通りを塞ぐように横向きに停車したところだ。
「ちょっと、危ないじゃない!」と怒鳴りつける通行人の中年の女に、原付に乗っていた若い男が「急にブレーキが利かなくなって」と慌てている。
暖簾が落ちなければ今頃学校とは反対方向に吹っ飛ばされていたところだ。足元を見ると、片手サイズのおたまじゃくしが一匹、滑るようにして近くの電柱の影に消えた。
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