月ノ岬の羽根装置
かりん
出会い
0. プロローグ - 満月の呪い
『月の岬のノロイって知ってる?』
午後九時半、駅からパラパラと流れ出た帰宅者の流れに混じってスマホにメッセージを打ち込む留実は、魚の目坂の途中で斜めに延びる脇道に逸れた。送信して顔を上げる。夜でも車通りの絶えない魚の目坂と一転して、住宅地へ向かう路地はぐっと暗くなった。道が細いせいもあるが、入ってすぐの場所に泉寿寺という広い寺があって、夜になるとそこが深い闇に飲まれるからだ。
この暗さと静けさはとても都心とは思えない。月の台といえば近くに名門女子学院もあるし、その界隈は有名な高級住宅地だと聞いていた。だから春先にここへ越してくる前まではなかなかイメージの良い場所だった。春から本社勤務になることが決まった父がこの町に引っ越すことを決めたときは留実も大歓迎だったのだ。
手にしたスマホが震え、留実は画面に目を落とす。返信が来た。
『なになに?』
『私の住んでるとこ、満月に事故が起きるの』
素早く返信すると、すぐにまたスマホが震えた。
『ほんとー?』
『飛び降り自殺の事故があったの知らない? 先月、下歩いてる人が死んじゃったやつ』
時折前方を確認しながら再び送信する。
引っ越してみると高級住宅地は駅と反対側のほんの一部の地域だけだとわかった。それ以外はやたらに寺と坂の多い下町だ。しかも留実の新居は下町側の奥まった一角にある小さなマンションの二階で、父の実家の古いが広い家に慣れていた留実には狭くて息が詰まりそうだ。古い一軒家に隣接している部屋は日当たりも悪い。
もっと出世して女子学院側に一戸建てでも建ててやるさ、という能天気な父の言葉を思い出して留実の気持ちが沈む。別に父は出世したわけではなくて単に部署統合での移転だと母に聞いて知っていた。引っ越したのは祖母と折り合いの悪い母が前から実家を出たいとせがんでいたからなのである。
——親の都合で振り回さないでよ。
都会のど真ん中だよね、と友達にうらやましがられて得意になっていたことも忘れて留実は心の中で毒づいた。
ブル、と再びスマホが振動する。
『知ってる! ニュースで見た!』
『じゃあさ、4月のアル女の事件は知ってる?』
『アル女? 誰?』
『アルテミス女学院のこと』
以前、昼休みに近くで会話していた女子グループがアルテミス女学院をアル女と略して話していたのをカッコいいなと思っていた。
転校して二ヶ月経った今も、人見知りする留実に親しい友達はいない。だから学校には居場所がないように感じるし、狭い自分の部屋も居心地が悪い。こうやって予備校の後、以前の高校の友人と連絡を取りながら帰る時間が唯一の憂さ晴らしになっていた。
『私が転校してすぐの頃、アル女の生徒が部活の時間に急に血を吐いて死んだって。これも満月の日』
『こわすぎる!』
『お嬢様学校だから根回しとかであんまニュースには出なかったみたい。後さ、月の台駅前のタンクローリ事故。中学生たちが巻き込まれたやつ』
『あったあった!』
『あれも満月の日だって』
『やばー偶然』
友人のメッセージに泣き笑いの絵文字が添えられている。すぐに戻ってくる反応が嬉しい。
『それが偶然じゃないんだ。全部月ノ岬のノロイ』
昼休みの女子の言葉を自分の返信と重ね、軽快に文字を続ける。
『大昔、この辺って昔は月ノ岬って名前で呼ばれてたんだって。でも、ある年疫病が流行して沢山の人が死んで、満月の夜に女の子を人柱にしたんだって』
『人柱? なにそれ』
『生き埋めにしたってこと』
返信が来るのを待たずに留実は続ける。
『女の子は生き埋めになる直前、何で自分が死ななきゃならないんだって満月を睨んでた。ずっと、ずっと恨んでやるって。だから月の台は人柱に女の子の怨念で、満月になると悲惨な事故が起きるらしいよ』
友人からの反応はすぐに戻ってこなかった。顔を上げる。
月の台は一人暮らしの若者が少ない場所なので都心と思えないほど夜が早い。まだ21時すぎなのにどの家もしっかり雨戸が閉まっている。
ちょうど小さな寺の前に差し掛かり、低い石階段の先の闇にうっすらと浮かぶ青暗い本堂が視界に入った。確かあの脇には墓場があったはずだ。手にしたスマホが短く震える。
『こわいこわいこわいこわいこわい』
文字が目に入った瞬間、両腕が泡立った。
——気持ちわる。
恐怖がじっとりと身体に染みてくる。
——こんな話、しなきゃ良かった。月ノ岬のノロイなんて。
ぎゅっと携帯を握る。再び携帯が振動した。
『今日はなにが起こるんだろ』
文字が目に入った瞬間、足が止まった。
しばらく画面を見つめて、そして盗み見るように空を見上げた。
留実の視線を待っていたかのように、夜空には青白い満月が浮かんでいた。
「やだ」
大通りからわずかに聞こえていた車の走行音はいつの間にか静まり返っていて、誰かが背後を歩いていると気付いたのはその時だった。靴音から察するに三メートルほど後ろだ。
——うそ、いつの間に。
治安の悪い地域ではないが、遅い時間に人通りの少ない道で誰かが後ろを歩いているのは恐い。だからいつもなるべくゆっくり歩いて同じ方向の人間がいても自分が後ろになるように気をつけていた。なのに今日は足音にまったく気付かなかった。
留実は後ろの人に失礼にならない程度に足を速めた。たぶん背後にいるのは仕事帰りの会社員だ。振り返ったりしたら自意識過剰だと思われるに違いない。自宅のマンションはもうすぐそこだ。
靴音はぴったりと張り付いてくる。足音が軽い。まるで子供のようだ。、留実の息が荒くなる。怖い話を聞いた夜、お風呂場で髪を洗っているときに感じるのと同じ、ぴりぴりとした感覚を背中に感じた。いや、それよりもっと強い。痛むほどだ。例えば土に汚れた着物の女の子が、背中を睨みながら手を伸ばしてくるような——靴音が真後ろにいる。
「いやあ!」
留実はきつく瞼を閉じ、背負っていた通学鞄で背後を振り払った。何の手応えもない。反撃に身を固くしたが、しばらく待っても何も起こらない。恐る恐る目を開けると、魚の目坂までまっすぐに続く小道に人影はなかった。反射的に背後を振り返る。
誰もいなかった。
満月の青白い光に照らされた通りはまるで作りもののように静まり返っている。
その静寂を破るように、一軒家の石塀の影から黒い頭のようなものが浮き上がった。
留実は泣き出す直前の子供のように喉を一度ひきつらせ、そして全力で走りだした。
マンションのエントランスの扉を乱暴に引いて中に駆け込む。初めてオートロック式の扉でないことがありがたく思える。
正面のエレベーターが暖かいオレンジの光を漏らしながら閉じかけているのが目に入った。
留実は閉まる扉に突進し、自分の横幅くらいまで閉じかけた扉に無理矢理身体をねじ込んだ。扉の安全装置が作動して再び扉が開くのを見込んでのことだった。留実の上半身が中に入ったところで扉が肩に当たったが、安全装置は作動しなかった。鉄製の強烈な力が肩にかかる。肩をよじってなんとか抜いたところで肋骨ががっちりと扉に挟まれた。
「ぐうっ」
エレベーターの中は明るく、誰もいなかった。扉の付け根側に設置された開閉ボタンを求める腕がむなしく宙を掻いた。肘を扉に押しつけて抜け出そうとしたが、機械は挟まった異物を気にすることなく一定の圧力で自分の役目を遂げようとしている。
背中に乗った鞄の中でノートとコンビニのビニール袋が潰れる音が聞こえ、押さえつけられた肋骨に圧迫された肺が細かく震えたところでようやく扉の動きが止まった。
「だ、誰か」
かすれた留実の囁きに答えるように、がくん、という振動とともに頭上でモーターが動き出す。留実は狂ったように肘を扉に押しつけてもがいた。
「誰か! 助けてっやだあ!!」
肋骨に響く痛みを堪えて声を上げたが、エレベーターの床は容赦なく眼前に迫ってくる。鳩尾にエレベーターの縁が押しつけられ、肋骨を軋らせながら下半身が宙に浮く。
——なんで、なんで、なんでなの!?
パニックを起こした頭で同じ言葉がぐるぐる回る。明るく照らされたエレベーターの暖かいオレンジは紛れこんだ悪夢のようで、腰から下の世界が果てしなく遠い。
扉の天井に勢いよく挟まれて、ぐげっ、と自分でもぞっとするような水っぽい音をたてて息を吐いた後、もうそれを吸い込むことさえ許されなかった。圧迫された腹の激痛とともにオレンジの光が強くなり、留実の意識は深い赤に飲まれた。
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