思い出の相手
笹原の忌引き明けを前に、瑠美は定食屋「うたこ」に向かっていた。
笹原と初めて訪れて以来、女一人でも入りやすい雰囲気が気に入って、行きつけの店になっていた。
何より、女将の
有多子はクラブを経営していたが、そこの常連客が連れて来た男が、笹原だった。
いつかクラブは娘に任せ、自分は小さな定食屋をやりたいという夢を語り、笹原はそれを実現させた。
「物腰柔らかだけど、いざとなると押しが強くてね。定食屋やるのにこんないい物件はないからって、つらつら細かい文字が書かれた計画書を持って来て喋りまくって。勢いで『もう全部アンタに任せた』って言ったわよ。予定が何年か早まったけど、ホント良かった。晃ちゃんには感謝してるの」
そして、そのお礼に、クラブの上客を何人も紹介したという。
有多子に何が話したいわけでもなかった。
瑠美は、闘病していた妻のことを、一言も話してくれなかった笹原をなじりたい一方で、そもそもプライベートなことを話す間柄ではなかったこと、そんな笹原に一人相撲のように、勝手に闘いを挑んでいた自分のこと、そんな言ってもしょうがない雑多な思いが、もやもやと頭の中を巡って、結局何が話したいのかすらわからないまま「うたこ」の前に立っていた。
目の前には「本日臨時休業」の手書きの貼り紙があった。
ついてないと小さく呟く。と、中から有多子の笑い声が聞こえる。
そっと引き戸を開けてみた。同時に「ごめんなさいね。今日はお休みなの」という声がする。
構わず全部開けて、中の暖簾をめくりあげた。
「あら、瑠美ちゃん」
そこに有多子と笹原がいた。
「やあ、橋本さん」と、笹原が呑気な笑顔で迎える。
「もう! なんでここにいるんですか!」
瑠美の目から涙が溢れた。
「あらあら、瑠美ちゃん」
有多子が、戸惑いながら瑠美を座らせ、タオルを差し出す。
「奥さん亡くなったって聞いて、私いたたまれなくて… 辛かったろうなって… 何も言ってくれないし… 心配してたのに… なんでここで… 笑ってるし…」
もう自分が何を言っているのか、わからなくなっていた。ただ泣きながら、口を衝いて出る言葉に任せていた。
「私一人勝手に笹原さんと闘って… 笹原さんが辛い毎日送ってるのも知らないで… ごめんなさいぃぃぃ… なんで笑ってるの… 奥さん亡くなったのに… ひどい… 笹原さん、ひどい」
「もう、なんか… 何言ってるのかわからない」
笹原が困ったように、笑いながら有多子を見る。
「奥さんが闘病してたこと知らせてくれればよかったのに、どうして教えてくれなかったのってことよね」
瑠美は、大きくコクンとうなずいた。
「病気が発覚したのが、息子が生まれて間もなくだったから、当時の上司や同僚には言ったけど、闘病も10年越えだからね。改めて誰かに言う必要ないでしょ。営業は入れ替わりも激しいし。妻には、今までよく頑張ってくれたと感謝してる。ここの味噌カツ煮が好きでね。通院した日は必ず来たよ。フレンチとかイタリアンとか、もっと高級なとこ行こうっていうのに」
「悪かったね、安い定食屋で」と、有多子が茶化す。
「で、俺と闘うってのは、どういうこと?」
「晃ちゃんは鈍いねえ。アンタの背中を追って、越えてやろうと頑張ってたんだよ、瑠美ちゃんは。病気の奥さん抱えてたって知ってたら、越えようなんて思わずに、協力してもっと助けたかったって。そう言いたいんでしょ」
瑠美は、自分でも言い表せなかった胸の内を明かされ、感動の眼差しで有多子を見る。
「すごい… 有多子さん… すごい」
そう言って、ぶるんぶるんと何度もうなずいた。
「俺はそんな、越えるような立派な男じゃないよ」
笹原が首をよこに振って、自嘲気味に笑う。
「俺、婿養子でね。軽い気持ちで同居もОKしたけど、結婚してすぐ後悔した。
「それで、トップセールスマンになるなんて、皮肉なもんね」
有多子がしみじみ言うと、笹原が苦笑交じりにうんとうなずく。
「もう一つの皮肉は、陽子の通院に必ず一緒に行くようになって、そこで二人きりになって、俺たち本当の夫婦になれたってことかな。検査してる陽子を待ってるだけで、自然と涙が出た。通院の度に一喜一憂して… 検査結果に落ち込んで無言になって、それでも息子の前では笑って、夜になるとまた一緒に泣いて、いや泣いてる場合じゃないと励まし合って、希望と落胆を行き来して… そんなことの繰り返し。そんな日々は間違いなく、俺だけの奥さんだったなって思うよ。病院のカフェがちょっとした異空間でね。全面ガラス窓から噴水が見える。あそこでコーヒー飲んでると、デートしてる気分で病気のこと忘れられた… 楽しかったな」
笹原が切ない笑みを浮かべ瑠美を見た。
「俺は君の目標には値しない人間なの。家族の中に入ろうともしないで逃げてばかり、妻が病気にならなかったら、夫婦にもなれなかった情けないヤツなんだ」
瑠美の瞳から、再び大粒の涙がこぼれる。
「それでも奥さんは、幸せだったと思う。通院に必ず付き添うなんて、なかなかできないし、奥さんは心強かったと思う」
そうよねと有多子も応じ、涙を抑えながら懐かしそうに微笑む。
「覚えてるわ。二人で笑顔でこの店に入ってきたのに、味噌カツ煮食べながら、ぽろぽろ涙流してるの。あれからあの奥の席は、観葉植物置いて見えにくくして、二人の席にしたの。いつでも泣けるように…」
「すみません。いろいろ世話になって」
「水臭いこと言わないでよ。陽子ちゃんが、あんなに美味しい美味しいって食べてくれるんだったら、もっともっと早くこの店始めるんだった」
有多子も笹原も、穏やかな笑顔を浮かべていた。
瑠美は、会ったこともない女性のことを、二人と同じように、愛おしく感じている自分が不思議だった。
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