恋した相手
「好きになっちゃったか」
4人分の味噌カツ煮を持って笹原が帰った後、有多子が瑠美に言った。
瑠美はうつむき「そうなのかなあ…」と呟く。
有多子の前では驚くほど素直になれた。
「私… もう仕事続ける自信ない」
「辛いね。うちで働く? 定食屋始めたはいいけど、仕込みとかこの歳だと大変でね。そろそろ誰か雇おうかなあって思ってたから… 瑠美ちゃんならいつでも歓迎する… 応援するよ」
有多子が、包み込むような温かな笑顔で瑠美を見た。
「辞める?」
数日後、瑠美が笹原を「うたこ」に誘い、そこで唐突に会社を辞めることを告げると、笹原は驚いたように声を上げた。
「営業、面白くないの?」
「面白くありませんよ… 辛いだけです」
「もったいないなあ。女性ではトップ走ってるのに」
「もったいなくない。もう決めたんです」
笹原はふふんと鼻をならし、瑠美から視線を逸らした。
「ま、俺も辞めようと思って、会社と交渉中なんだけどね」
「笹原さんが? どうして…」
「これからは息子と向き合って、母親代わりもしないとダメだから、今までと同じように働くのも無理でしょ」
笹原は涼しい笑顔を見せる。
「橋本さんの古巣に異動願い出したけど却下された。代わりに、完全歩合制で働かないかと言われて迷ってる。契約取れなければ収入ゼロどころか、経費が自分持ちだからマイナスだしなあ」
瑠美は初めて二人で「うたこ」に来た時に、笹原とした会話を思い出していた。
「ネガティブだなあ。営業に来て2か月で売り上げたのに自信持てよ。大したもんだよ」
友人にマンションが売れたのはまぐれで、そんなことは続かないと言った瑠美に、笹原が言った言葉だ。柔らかな笑みを浮かべて。
「ネガティブですね。ずっと営業トップを走って来たんですよ。自信持ってくださいよ。息子さんのためにも」
笹原の顔から笑みが薄れる。
「無収入で、マイナスになってお金が底ついた時は… 私、貸します」
「ええッ?」
笹原が驚いたように目を見開くと、冗談言うなと言わんばかりに呆れた笑いを浮かべる。
「私、貯金が趣味だしけっこう貯まってますから」
瑠美はニコリともせず、真顔で笹原を見つめる。
笹原が、ふっと軽く息を漏らすと、白い歯を見せた。あの時と同じ優しい笑顔。
「ありがとう。決心がついたよ。君も考え直せ。また一緒に働こうぜ」
瑠美は笹原から視線を逸らした。
「私のことは放って置いてください。失礼します」
言いながら、席を立って店を走り出た。
背中で「え、ちょっと橋本さん」と笹原の慌てる声が聞こえた。
瑠美は逃げるように小走りで駆けて行った。
あれ以上、笹原と居ると、泣いてすがって好きだと言いそうになる。妻を亡くしたばかりの男だというのに。
闘う相手が死んだ妻なんて勝ち目ない…
爽やかな風が、瑠美の潤んだ瞳から涙をさらっていった。
あれから2年が経とうとしていた。
瑠美は「うたこ」で料理の腕を磨き、特に味噌カツ煮は有多子直伝の得意料理になっていた。
たまに訪れる笹原と、
「お金、底ついてませんか。今なら年20パーで貸せますよ」
「遠慮しておく… てか、20パーって」
そんな冗談を言って笑い合う。
そんなある日、閉店間際に訪れた笹原がビールを注文する。
他の客が皆帰っても、急ぐ気配もなく黙々とビールを飲んでいる。
「笹原さん、もうそろそろお店閉めますよ。元気ないですね。何かあったんですか」
そう声をかける瑠美に、笹原はにこりともせず真顔である。
「元気ないんじゃない。緊張してるんだ… その…」と口ごもる。
「ほら、瑠美ちゃんも一杯飲みなさいよ」
有多子が、グラスを2個とビールを手に、瑠美を笹原の前に座らせた。
有多子が2つのグラスに、ビールを注ぐのをじっと見ていた笹原が、思い切ったように「橋本さん」と切り出した。
「何なんですか、笹原さん」
笑みを浮かべながら、瑠美がグラスに口を付けた。
「まだ、俺のこと好きかな」
突然の笹原の言葉に、瑠美が飲んでいたビールを詰まらせ、激しくむせ込んだ。
「ごめん」
慌てて笹原が立ち上がり、瑠美の背中をさすった。
「晃ちゃん、そこは『俺のこと好き?』じゃなくて『好きです! 結婚してください』でしょ」
呆れた笑いをうかべる有多子を、目を丸くして笹原がにらむ。
「あ、ゴメン。言っちゃった。ごめーん、晃ちゃん」
笹原が声を出して笑い出した。
「勘弁してよ、有多子さん。先走り過ぎ。まずは、結婚を前提に付き合ってって言うつもりだったのに、遥か先の俺の言葉、先に言わないでくれよ」
「あの…」と言う瑠美の目が、すでに潤んでいた。
「まだ好きです。ずっと好きです。結婚してください」
「ええ…」
笹原が
「私、38… すぐに40です。ゆっくりしてる暇ないです。結婚してください」
「ホントよ。どうせするなら早いほうがいいのよ。二人とも若くないんだから。さ、乾杯しましょ。もうね、この2年、晃ちゃんの鈍感さには呆れて、ストレス溜まる溜まる」
「いやさすがに有多子さんに鈍感、鈍感言われれば俺だって…」
笹原が、照れたように頭に手をやり笑った。
「鈍感よ。この期に及んで、結婚前提にって、どこまで悠長なんだか」
店内に明るい有多子の笑い声が響いた。
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