闘う相手

 着いた先は、藍染あいぞめに平仮名で「うたこ」と白抜きされた暖簾のれんがかかる、定食屋にしては小奇麗でオシャレな店だった。

 和服を着て綺麗に髪を結いあげている、店の女将おかみらしき女性が、満面の笑みで迎える。

「あらぁ… 晃ちゃん、いらっしゃい」

 定食屋には似合わない、しっとりとしたなれなれしい口調である。

「あらぁ… 可愛い娘連れちゃって…」

「同僚だよ。変に勘繰らないで」

 片目を細めて意味ありげに、にやける女将を軽くいなして、笹原はテーブルに着く。

「ここは味噌カツ煮が美味いんだ」

「じゃあ、それで」

 笹原はにっこりとうなずいて、女将に味噌カツ煮定食とビールを頼んだ。


「こんな時間にお客様の相談ですか」

「まあね。相手の都合に合わせるとどうしてもね。とりあえず、マンション売れておめでとう」

 笹原はビールの入ったグラスを、瑠美のグラスに軽くぶつけた。

「まぐれです。ちょうどマンション探してた友達がいて… そうそう続きませんよ」

「ネガティブだなあ。営業に来て2か月で売り上げたのに自信持てよ。大したもんだよ」

 笹原は、優しい笑みを浮かべた。


 物腰が柔らかで飄々として、一見すると頼りなく見えたりもする笹原は、営業成績は常に3位以内をキープしていた。

「あいつ頼りなさそうで、全然そんな風に見えないよな」

「なんか強力なコネがあるって聞いたことがある」

 そんな同僚たちのやっかみ半分の噂が、異動して間がない瑠美の耳に入ることもあった。

 ガツガツと営業に邁進している姿勢が、まるで感じられないところが、同僚たちの嫉妬心をくすぐってしまうのだろうか。


「トップクラスの営業成績を、続ける秘訣ってなんですか?」

 瑠美は、思わずそんなことを口に出してしまった。

 笹原は少し驚いた様子で瑠美を見たが、すぐに笑顔になった。

「秘訣って… 特にないなあ」

「常に3位以内にいるって聞きました。隠さないで教えてくださいよ」

「隠してないよ」と、クスクス笑う。

「それにトップクラスとか順位とか意識したことないし、普通に営業してるだけ。秘訣なんてないよ」

 瑠美は、グラスに残ったビールを一気に飲み干した。


「笹原さん、学生時代は、勉強してるのに、僕は全然勉強しなかったとか言うタイプだったでしょ。普通にしてて自然とトップ取れるなんて言ったら、必死になって働いてる営業部全員敵に回しますよ… ったく嫌味なんだから」

「ビール一杯で酔うのは早いけど」

「酔ってませんよ。ただ腹が立ってるだけです」

「はいはい… ほぼ初めてじっくり話した相手を、そこまで不快にしたのなら営業マン失格だね」

 瑠美は、笹原に言われて初めて、笹原とは挨拶以外の会話をしたことがないことに気が付いた。


 営業部はフレックスタイム制で、席に着いている姿もほとんど見たことがない。残業して退社しようとした時、外から戻ってきた笹原と遭遇し「お疲れ様です」と声を掛け合う程度だった。

「すみません… 言い過ぎました」

 瑠美が頭を下げると、笹原が笑いながら首を横に振った。

「強いて言うなら、お客様第一主義かな。順位も営業ノルマも意識しない」

「笹原さんは、ノルマ関係ないくらい毎月売り上げてるから… やっぱり営業成績の棒グラフ、出されると気になります」

「ノルマとか成績とか気にすると、どうしても今月中に売ってやろうって躍起になる。そういうのは、客に伝わるから。お客様に心から笑ってもらいたい、気持ちよく買ってもらいたい、俺から買ってよかったと思ってもらいたい、心からそう思って動いてるだけだよ」


 笹原は意味ありげにフッと笑う。

「君はもう、ちゃんとやってるじゃないか。友達のために自分の時間を割いて、心から喜んでもらいたいと思って、奔走したんだろう。それと同じことを積み重ねればいいよ」

 笹原は残ったビールを飲み干すと「さて、そろそろ帰ろう」と、立ち上がる。

「明日は接待ゴルフで早いんだ」

「ゴルフにお付き合いして、契約にこぎ着けるんですね」

「いや、何年か前にその人の娘さんに家を売ったんだ。それ以来、ちょくちょく誘ってくれて… 下心なんてないよ… いや、あるかな。何につながるかわからないけど、いつかね」

 笹原は、茶目っ気たっぷりに笑うと、テーブルの伝票を手に会計へと向かった。



 あの日以来、瑠美には目標ができた。

 あの男、笹原晃よりもいい成績を取ってやる。一度でいいから、涼しい顔をしてトップの成績を上げる、あの男より上になる。

 瑠美は笹原が言っていた「お客様第一主義」を胸に、時間に関係なく客からの電話には出て、昼夜問わず客の都合に合わせて会合し、関わった客のことは、大切な友人だと思って対応した。

 驚いたことに、客を満足させると、その客が勝手に瑠美のことを売り込んで、次の客が紹介されてくる。いつか先輩たちが噂していた、笹原の「強力なコネ」の意味を、ようやく理解した。

 コンスタントに売上を伸ばしていき、ようやく笹原の背中が見えた頃だった。



 瑠美は先月、一旦白紙に戻された不動産売買契約を、もう一度考え直したいという客からの電話に、内心小躍りした。

 今月こそあの男に勝てる…

 瑠美は、パソコンの電源を再び入れ直した。

「なんだ、まだ仕事? 頑張るねえ」

 見ると営業部長の西野が、どこかから戻ってきたらしい。

「部長こそ、お仕事遅くまでお疲れ様です」

 西野は席に座ると、ふうと息を吐いた。


「仕事じゃないよ。お悔みに行ってきた… まあ、半分仕事かなあ。笹原の奥さんが亡くなったんだ」

 瑠美は、予想もしなかった言葉に、息を飲んで西野を見た。

「長いこと闘病してて、まあ覚悟はしてたらしいけど。中学生の息子さんが目を真っ赤にしてて… 辛いよな」

「あ、あのお葬式のお手伝いとか… 私、行きます」

「いや、香典も手伝いも丁重に断られた。奥さんの希望で、家族だけで静かに送って欲しいと言ってたらしいから。弔電だけは打たせてくれって頼んできたよ」

「すぐ準備します」

 瑠美は、手の振るえを感じながら、パソコンに向かう。

 笹原の主戦場は、仕事場ではなかった。

 闘う相手は妻の病魔だった。

 妻の闘病を支えながら、お客様第一主義で、トップクラスの営業成績を維持してきた笹原のことを思うと、胸が締め付けられるような痛みを覚え、自然と涙が滲んだ。

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