七月号 『美しい仔』

「先生さ、今まで何人の女の子誑かした?」

 ひとつ前の席に半身で座る佐島は此方のノートに視線をやり、とんとんと深爪気味の指で白いままのページを差した。休んでいた分の補修。そう理由を付けて、美乃は生物基礎の担当教師である佐島に声をかけ放課後の教室で勉強をしている。

 佐島は視線を戻し、手元にあるプリントをぺらりと捲った。明日の会議資料らしい。来週から始まる交通安全週間の概要。

「ねぇ、せんせ」

「……いいからやれ」

 美乃は左利きの手でシャープペンシルの芯を出し、戻しを繰り返す。教科書を埋める化学式は、教えて貰うようなものでは無い。どちらかと言えば丸暗記しなければならない範囲だ。そもそも生物基礎の教師に化学基礎の補修を受けようとしている時点で全くもって理にかなっていない。佐島も美乃もそれを分かりながら、硬い学校の椅子に座っている。

 放課後の運動場からは、点呼と準備運動を終えたのか大きな声で練習をする声が響き始めていた。もう三十分、二人はこの場所で勉強をしているフリをしている。いつまで経っても部屋の照明と外の明るさが混ざり合わないからやめられない。苦し紛れの擬態だった。混ざらなければ隠れられない。教室などいつ誰に声を聞かれてもおかしくないような場所で、ついでに佐島だと分かると積極的に声をかけにくるような人が、この学校には男女問わず山程いる。どうせ混ざり合っても何も出来ないような気も、ずっとしていた。

 別に、スリルを楽しみたいわけじゃない。

 ただ最近の佐島には、加えて良くない噂があった。大学時代にあまりよろしくないサークルに入っていたとかそういうの。電話番号でSNSが紐づけされ、随分と昔の写真が幾つか流出したらしかった。

 美乃は、佐島のカーディガンの裾をひく。

「こら」

 大人しく手を離した。それなのに、咎めた佐島が荒れた指先を美乃の右手に絡めてくる。佐島だって、この空間にもう随分焦れていた。そもそも学校で会うこと自体、いつもならしない暴挙だ。学校の外でも頻繫に合っていたわけではないが、二人共、最近は特に周囲へと気を使いながら一緒にいる。

 佐島に倣って気を使いながらも、同時に美乃は不思議でならなかった。何故昔の悪いコトしかバレないのか。今起こっているコトは? この瞬間の一秒一秒だって十分、噂になってもおかしくないのに。佐島の通った鼻筋を横から見るたびに思って、焦れて、我慢できずに少しずつ距離を詰める。そんな無限とも言えるループを、噂が広がり始めた頃から、二人しかいない筈の教室でずっと繰り返している。

「転勤願、出そうと思ってて」

 徐に、何ともないような声色で佐島が口を開く。美乃はシャープペンシルの芯をゆっくりと押し戻した。絡んだままの指先に力が籠っている。

「それって、私が十一人目になったからですか」

「流石に十人も居ないから」

「五人は居るんですね」

「……八人だよ」

「じゃあ九人目か」

 ほぼ十人じゃないかと思う。美乃だって付き合うのは佐島が三人目だったが、一旦全てを棚に上げた。美乃はまだ高校生で、佐島はもう先生だから。年数が違うのだ。少しくらいは大目に見て欲しい。

 佐島は手に持っていた書類を裏返して机に置いた。美乃は佐島の手の動きを目で追う。

「美乃」

 甘ったるくて場違いな声が規則的な作りをした教室に響く。まだだと分かっていた。まだ、私達を隠すほどには混ざり合っていない筈。美乃は自分が呼ばれていることを分かりながら、教科書に視線を落としシャープペンシルの芯をカチカチと押し出した。

 ノートに佐島の影が落ちる。掬い上げるように覗き込んだ佐島の顔が極限までぼやけてから、柔らかい感覚を唇に残して離れていく。美乃は佐島を追いかけて、もう一度互いの唇を重ねる。

「お前が、」

 離れた後に息を吸って、口を開いたのと同時に出た音だった。

「……いや」

 言い淀んでも、始めの文字を口に出してしまったら言ったのと一緒だ。今更、黙っても仕方が無いのに。佐島は少しの間、口の中に言葉を溜め込んでいた。美乃が先を促すと、自分の思考に戸惑ったような表情を見せる。美乃もつられて眉を下げ困ったような顔をしてしまった。

 衝動的に零した言葉ならと言い訳をして。美乃は最後の一回、佐島の唇に、今度は深く、優しく触れる。

佐島は、小さく息を吸った。

「お前も同じ人数誑かしたら、また付き合おうか」

 美乃も小さく息を吸ってから頷いた。


   *


 呪いだ。隣に転がる九人目の体温を眺めながら、美乃は思う。

 結局あの後、佐島は宣言通り転勤になり、噂が発展した根源の電話番号も繋がらなくなった。聞き覚えのない転勤先の学校名を聞きながら、集会の列で佐島のキスを必死に口の中で転がしていたが、それもいつの間にか溶けてなくなってしまった。佐島の居ない空っぽの高校を何とか卒業して、美乃は県外の大学に合格し、現在に至る。気が付けば大学生になってから徐々に不毛な生活を始めて、一年と半年だった。

 美乃は自らの上体を静かに起こす。捲られた布団が、ぽすと控えめな音を立てた。

視界への端にある、白いリネンへと放り出された男の右手に、指を絡めてみる。心が高ぶるような感覚は無い。いつも佐島の面影を探しながら、佐島より最低な男を探していた。

「ん」

 もぞりと、男が芋虫のようにうねって起き出す。

「ぁよ」

 男は朝の挨拶とも取れない音を零し、絡まったままだった指をもう一度繋ぎなおす。男の手は、十分に手入れされている。柔らかい感覚だけが残る。

「学校、ある?」

 美乃はいつものように掠れない自分の声を聞いて、何だか変な心地がした。

「ないよ」

 いつまで経っても脳が覚醒しないまま、男はうねうねもぞもぞしている。布団にくるまった姿は白くて大きい繭のようなのに、動きはいつまで経っても芋虫だった。美乃はふ、と笑う。

「なぁに」

 不貞腐れたような音を聞いて、美乃は重ねてふふ、と笑う。枕に顔を埋めたまま呻いていた男は、わざと訝し気な顔を美乃へと向けた。

「失敗したなぁ、と思って」

「なにが?」

「思ったより、いい人だった」

 ずるりとベッドから起き出した男は、美乃の腕を引き再び布団へと潜りこんだ。ばさりと朝日で透けた羽毛布団を二人で被って、更に大きな繭を作る。

「びっくりした」

「油断してただろ、駄目だよ」

「なんで」

「その気が無い時は駄目」

「あったよ、君がしなかったんでしょ」

「嘘だな」

 繭の中で覆い被さった男は、美乃の唇を親指でなぞった。

「美乃ちゃん、こうしても笑ってくれない」

 男は、またさっさと繭を崩した。窓から染み出して部屋を侵食する朝日が眩しくて、美乃は少しだけ目を細める。また起きた時と同じように隣へと寝転がった男は、同じ高さから美乃を見つめた。

「俺にしとけば?」

「……却下」

「だめかぁ」

 まぁ焼き肉とチェリーパイに負けたしな、と男は呟く。

美乃が男を蔑ろにして食事に走ったことを、男は忘れてないらしい。

「ねぇ君、名前は?」

 焼き肉と言われて思い出した。いつもなら、こう呼んでと言われてから初めて知るものだったから。美乃がしっかりと相手に名前を問うのは久しぶりだった。

「んー、匿名希望」

 美乃は眉を下げた。男は、あははと笑う。名乗らないことに、これっぽっちも悪気が無いようだった。

「ラジオじゃないんだから」

「取るに足らない名前なんだよ、美乃ちゃんが付けて」

 直感的に、他のところでも同じことを言っているんだろうと思った。手慣れている。捨て猫を装った男は、美乃の顔にかかった前髪を軽くはらった。

「じゃあ、シヅキくんね」

「……深く聞かない方がいいやつだな」

「賢いじゃん」

 美乃は寝転がったまま、にんまりと笑う。

「ねぇ、そっちが素?」

「手、出されなかったからね」

「美乃ちゃん」

 布団から這い出たシヅキが、咎めるようにこつんと、額を軽くぶつける。睫毛が重なる距離で、美乃はまた甘い空気を纏った。

「こっちのほうがすきなら、そうする?」

「んーん。素の方が可愛いくて好き」

 軽くかわしたシヅキは、ぶつけた美乃の額に小さくキスを落として起き上がる。美乃はシヅキが置いて行った布団を巻き取って被り直した。

「まだ寝る?」

「シヅキくんは」

「今日は帰ろうかな、洗面所だけ借りていい?」

「ん、ドア開けて左」

「知ってる、ありがとう」

 軽く背筋を伸ばしたシヅキは、洗面所へと消えていく。シヅキの後ろ姿を、美乃ははっきりと覚醒した頭で追っていた。

 柔い繭の残骸を、もう一度きつく抱え込む。深追いすればまた戻れなくなるような気配だけを美乃は感じ取っていた。

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白くて美味しい本棚 彌(仮)/萩塚志月 @nae_426

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