六月号 『Cherry pie』
何がとは言わないが、ピンクを着てくるような女の子が好きだ。肩から迂闊に覗くフリルのついた紐がその所在を示している。隣から見るとテラテラと安い照明が当たって光る唇は目に毒で、俺はそのベッタリとついた口紅が自分の唇に移る瞬間を想像した。確かこの子は初対面の筈で、俺が軽く話しかけたとしてもノッてくれるだろう。何なら俺の日頃の行いを知ったとしても喜んでついて来てくれそうだ。ぬるくなったハイボールを煽る。口の中に流れ込んでくる液体が俺のもうほとんど残っていない脳味噌を更にどろどろに溶かす。俺の行動に信憑性や硬派な雰囲気等無くていいのだ。軟派でいい。寧ろそのくらい軽い方が、この場では浮かない。机の上に放り出されたいっそグロい程長くなっている爪に手を伸ばす。
「なぁに?」
ピンクの彼女は甘い猫撫で声でこてんと首をかしげる。可愛い。口元が緩む。当たりだ。小指だけを絡めて、そっと耳元に唇を寄せる。
「いっしょに抜けよ」
「やだぁ」
「ほんとに?」
「他にも可愛い子たくさんいるよ」
女の子は一度逃げるのが礼儀なのだ。余っている手で緩くウェーブのかかった髪を弄ぶ。
「俺は可愛くして来てる子探してんの」
形だけ文句を言う甘い声が更に甘くなって俺の耳を抜けていく。この可愛い声はきっともっと可愛くなるに違いない。
「俺のこと送る、って言って」
「ん?」
「皆の前で持って帰られたいの?」
「それはちょっと恥ずかしいかなぁ」
「でしょ? 俺は別にそれでもいいけど」
「後であたしのお願い、聞いてくれる?」
「ん、いーよ」
近づくだけで、髪か身体か、この煙草臭い筈の場所でも女の子からは甘い匂いがする。目を瞑って彼女に凭れ掛かり、彼女が隣の女の子に声をかけている時間をやり過ごした。もう一度、甘さを肺に溜め込む。
*
「あ、追加いいですかぁ」
あたしの奢りだからねと言われ、俺は何故か網でミノを焼いている。肉の焼け焦げる匂いは飲み過ぎた俺の胃を中心に責めてくるし、中々食べられる状態に達しない薄ピンクの生肉は既にどろどろに溶けた俺の脳内を混乱させた。
「タン二人前と、あとミノ一人前で」
追加をするのはこれで二回目だ。初めに注文した数が尋常ではなかったので俺の頭と胃は既に全くついて行けていない。
「俺食べないよ、大丈夫?」
「だぁいじょうぶ、あ、以上で」
「あ、待って、やっぱ卵かけご飯ください」
真顔で去って行きそうになった男の店員を引き留めて注文をする。とろとろ卵かけご飯ですね、と繰り返して頭を下げた図体の大きい男は、そのまま当然のように去って行った。
正直、物が食べられるような胃の隙間は無いけれど、やっぱりここまで来て食べないのはどうなのかという思いで、惰性のままミノを網の上に乗せてみる。
網の上ではミノから発せられた煙がそのまま網の脇に取り付けられている排煙口に吸われている。焼けたミノは彼女の持つトングによってタレの皿へと攫われて、箸に持ち替えた彼女によってテラテラと光る唇に吸い込まれていった。無限に繰り返される工程を俺はただ無心に見つめている。
暫くして、俺の前にあるミノが焼けた。同じようにトングで攫ってタレに浸した。箸で挟み、自分の口に放る。ぐにょぐにょとした触感が歯に残る。本当は、トングで攫った時からずっと焼けているのか分からない。
「あたし、ミノっていうの」
「なに?」
「なまえ。美しいに、何かほら、ぐにょぐにょってするノ」
て、かして。と言われ、大人しく従う。彼女は長い爪で俺の手の中に文字を書いた。乃。逆さを向いていたが、確かにぐにょぐにょした乃だった。書いてから紙ナプキンで唇についたタレを拭った。口紅がべったりと移ったが、彼女の唇本来の色が見えかけたところで、んま、と彼女の口が動き、また呆気なく元の色に染まる。
「んふふ、おいし」
何が何だか分からなくて、俺は何が何だか分からないままに頷いた。美乃は美味しそうな唇で可愛い声を発しながら微笑む。さっき口に放ったミノは未だぐにょぐにょと飲み込めないまま俺の口内にいた。何回やっても上手く噛み切れなくて、結局形を認識したまま飲み込む。水に手を伸ばすと同時にさっき注文した卵かけご飯とタンを持った店員を視認した。次のミノはまだ来ないらしい。俺は黒い皿の上にあるミノを網の上に乗せた。新たな煙が立ち上る。
結局このピンク色の女の子が、合計でどれだけの数を食べたのかは分からない。卓上は大男が去った後のようになっているのに、俺に見えているのはずっと可愛い女の子ひとりだけだった。
*
間接照明で照らされた如何にも女の子らしい部屋だった。肝心の彼女はもう、初め声をかけたときに感じたような甘い匂いに戻っている。
俺は密かに顔を綻ばせた。彼女は白いソファのフットレストに背を凭せ掛け座っている。部屋着なのであろうピンク色のもこもこしたパーカーとショートパンツからは白い腕と足が伸びていた。俺はそっと太腿に手を伸ばす。マシュマロのような白い肌は触れれば当然のように柔らかい。俺が来ているスウェットも彼女と似通った甘い匂いがしていた。居酒屋で飲むような安い酒ではなく、洋酒のようなくらくらする甘美な匂い。近づくことで混ざり合って、悪戯に髪へと触れることで更に匂いが濃くなる。
全て彼女から感じる匂いだったらよかったのにと思う。総じて美乃がチェリーパイを食べているから甘いのだ。俺は未だにお預けを食らっている。
「美味しい? それ」
「うん、おいしいよぉ」
牛とケーキは混ざり合ったら何色になるのだろうか。既にそれらが美乃の胃の中でぐちゃぐちゃになっていることは間違いない。焼き肉の気配は殆ど消えているのでむせかえるような圧迫感はない気もするが、俺の胃の中にまだパイが侵入していないからかもしれない。
美乃の唇の端ではジャムが混ざり合って、やっぱりテラテラと光っていた。銀のフォークが唇の色を反射させている。決して大きな口を開けて食べているわけではないのに、紅いチェリーとこんがり綺麗に焼けた生地はずるずると吸い込まれて消えていく。焼き肉を食べている時からずっと不思議な光景だった。
「ほら、あ」
フォークにチェリーパイを刺した彼女は流れるような手つきでこちらに差し出してくる。食べさせる角度が手慣れていた。俺はゆっくりと口を開ける。
冷たい感触が舌の上を滑った後、ラムの香りがぶわっと広がって鼻から抜けた。置き去りにされたチェリーはカスタードクリームに塗れて随分と甘くて、噛みしめると果汁が口の中を満たす。想像した以上に甘かった。上品だけれど、やはりむせかえるような甘さだった。
「すき?」
「好きだよ」
「わかってないでしょ」
「そんなことないよ」
「あじ、あまくない?」
「ちょっと甘いけど、好きだよ」
そっか、と笑って美乃は俺の口元へ長い爪を向ける。パーカーがずり下がった右肩から見えた肩紐は、居酒屋で見たのと変わらずピンク色だ。美乃の指が俺の唇に押し付けられ、撫でつつ攫ってから離れていく。
美乃はカスタードクリームがついた指をちゅうと吸った。甘い匂いが近い。俺は肩にかかる紐にするりと手を伸ばす。美乃の手にあるケーキ皿にはまだ半ピースのチェリーパイが残っていた。
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