五月号 『あかい、きみ』

 自分の瞳が信じられない。いや、未だかつて信じようとしたことなんて無かったのかもしれない。ひたすらに全てのものが、そこに存在するだけ。色だけでなく、形、それ以外の情報は全て、僕にとって、ただの事実でしかない。そこに他者との違いがあるかどうかなど、僕だけでは分からない。

掌と眼前へ広がっていく生ぬるい感覚を、自覚する。僕は、ただ自覚することしかできないでいる。


 僕は、赤が見えない。世界に溢れる赤色全てだ。赤が入った色も見えないから、桜の花、赤色の信号、家々を彩る屋根の色、彼女が着ているワンピースの色に至るまで、すべて。見えていないらしい。僕は見えていないという事実すらうまく認識できていない。

 今日もまた、不完全な眼で世界を眺める。校内に植えられた桜の花弁は全て灰色に見え、まるで、空の一部に雨雲がかかったようだった。僕の通う大学の構内には特に桜の木が多い。都会にも桜の木は多い。今の時期、大学近くの河岸で美しく芽吹いてから散り始めた桜は、僕にとってはその全てが憂鬱な灰色である。

 春は、僕にとって耐えることで過ぎていく季節だ。色も、気温も、空気も、音も。優しさを押し付けるような暖かい光に照らされて、重く灰色にのしかかってくる。そんな僕に反して、人々は明るく言葉を交わす。心を躍らせている。こんな赤に塗れた場所ではなく、青や緑の多い場所に行けば幾分かましになるとは分かっていながら、バイト代が食費だけに消えていく苦学生には、心の安寧にかけるお金はなかった。

「皐月くん」

 いつもと変わらず、淡い赤のワンピースを着ている(筈の)街田が、声をかけてくる。付き合ってはいない。一年から同じサークルで、尚且つ同じ授業を取っているのが僕だけだから声をかけてくるのだ。付き合っていないと反芻するあたり、淡い期待は捨てられていない。彼女の顔色は分からない。

「おはよ」

「うん、おはよう」

 街田は、そう言って僕の隣に腰掛ける。昨年も同じように別の教養科目を取っていたから、いつもの席、いつもの並びだ。街田のワンピースも、いつも通り。一週間、同じループで服を着ているらしい。今日は春の金曜日だから、赤いひざ丈のAラインワンピース。彼女はよりによって僕と会う日に限って、僕が見えない赤色を着てくる。

 彼女は、僕の虹彩が赤を捉えていないことを知らない。

 街田はいつものように、トートバッグから教科書とタブレットを取り出す。トートバッグの中身を覗く度、彼女の長くて黒い髪が垂れ下がってパサリと落ちる。それを流れるような仕草で耳に掛ける。耳が、見える。彼女はいつも持ち物が少ない。

 僕も街田に倣って、鞄から筆箱と教科別にラベルの張られたノートを取り出す。ノートは灰色だ。教養科目だから灰色というわけでもなく、僕のノートは全て灰色だ。

「いつも思ってたけど、重くない?」

「何が?」

「鞄とか、教科書とか」

 街田が、開けていい? と僕に確認を取ってから筆箱を開ける。女子は他人の筆箱を開けがちだ。街田はこの前の、サークルの時も他人の筆箱を触っていた。一体何が楽しいのだろうか、僕には見当もつかない。

「重たくないけど」

「タブレット、これだけで済むし使いやすいよ」

 俗にいうミニマリストなのだろうと思う。僕の筆箱から取り出した青いマーカーを持つ彼女の手は小さい。透けたキャップを開けて、彼女は自分の左手に線を引いた。意味のない青色が、彼女の上に伸びる。水性マーカーだったけれど、黙っておいた。

「遠慮しとく」

「下宿生には高いか」

「そうだよ」

 今はお金がないが、家の中は高校までに買ったもので溢れかえっている。街田がもし僕の家に来たとしたら、間違いなく卒倒するだろうなと思うくらいには。色で物を分けると碌なことが無いので、全部にごちゃごちゃと言葉でラベリングがなされているのだ。本は床に積まれたまま、楽器と、CDも積みっぱなし。彼女ならタブレット一つで済むものが、全部散らばって狭い1Kに詰め込まれている。

 筆箱を僕の元に返した街田は、タブレットにパスワードを打ち込み始めた。いつもの世間話が終わったのだと悟り、シャープペンシルを取り出して芯の長さを調節する。ノートに日付を書きながらも、僕は意識を街田から離しきれない。ふと、意識の半分を占めていた街田が、僕の視界にタブレットを滑り込ませた。

 真っ青な夏の海が映った液晶は、少しだけ目に痛かった。

「何これ」

「海」

「ん?」

 映っているのは、旅行サイト画面だった。一瞬期待した自分の首を絞めてやりたかった。平静を装って、街田の口が開くのを待つ。

「来週の金曜」

「……休講だっけ」

「サボって行く」

 にやりとした街田の顔を見ながら、この席で二度目になる始業のチャイムを聞く。



 深い青色をした海は少しだけ、曇った空を映して、くすんでいる。足を付けたらそこから沈んでいきそうで、でも、その色が心地よかった。桜の灰色よりよっぽどいい。

 何となくお金をかける気にならなかった僕たちは、早朝から青い鈍行を乗り継いで、白と黒の横断歩道を渡って、寂れた茶色い橋を渡って、またさらに歩いてやっと、この場所にたどり着いていた。それでも苦学生には痛い出費だったが、これから先、街田と二人で出かけられることなど無いであろう僕にとっては、十分に必要経費だった。

 隣で風に靡く赤いスカートを押さえていた街田が、徐に片足立ちで靴を脱ぐ。

「ちょっと」

「大丈夫だよ」

「絶対寒いって」

「タオル持って来てるから」

 靴の中に靴下を突っ込んで、裸足になる。灰色の様な赤い色のスカートから、白くて黄みがかった足が伸びる。砂浜を踏みしめ、次第に爪先が水へと浸る。

「つっめたぁ!」

「ほら見ろ」

 街田の身体だけが、海の上にぽっかりと開いた穴の様だった。灰色の虚。実際はそんなこと、少しも無いのだろうけれど。

「皐月くんさ」

「なに」

「今日、なんでついて来てくれたの」

 彼女は今日もトートバッグだ。荷物は少ない。僕は視線を遠くに投げた。

「ずっと来たかったんだ、海」

「それだけ?」

 街田は僕をサボりに誘った時と、同じ顔をしていた。

「……お前だけじゃ、危ないだろ」

 寝ぼけた頭が、余計なことを喋らせた。確かに街田は一人でもふらふらと海へ来てしまっただろうけど。それを止める権利も、その場で何かが起きる確証も、何もない。もちろん僕にも。女子だからとか、今の僕らにはただの言い訳だ。

「私死にそうにないって、よく言われる」

「それはちょっと思うよ」

「あ、やっぱり?」

「うん」

「でも危ないんだ」

「……そうだよ」

 観念したように頷く。それを見た街田は、遠くで声を上げて笑った。心地のいい時間だった。

「おいでよ、冷たいよ」

 少しだけ悩んで、僕は靴と靴下を脱いだ。無彩色のアウターを羽織った僕も、街田の隣に並べば、今だけは同じになれる気がした。

 冷たい水が足首を攫っていく。押しては引く波と、潮の香りが鼻を掠めていく。海は、浅いところだと透明なのだと知った。

「海、いいよね」

「うん」

「私、好きだな」

「俺も好きだよ」

 随分と恥ずかしいことをしている。ただの浮かれた言葉遊びだと思いながら、そこまで考えて、街田が去年、一年生ながら歌詞を書いていたことを思い出した。そのうち、この思い出も創作として消化されるのだろうか。そうだとしたら、何だか少し恥ずかしいことをしてしまったかもしれない。

 遠くに、二人が脱いだ靴が並んでいた。距離が違う筈なのに、この場所から見れば並んでいるように見えた。今この一瞬に、隣に並んでいることだけが、すべてのような気がしたけれど。このまま近づいて、きみと連星であれたらよかったのにとも思った。

 そんな僕を余所に、彼女は少しだけ、沖へと歩みを進める。

「危ないって」

「大丈夫だよ」

「あんま行くと、戻ってこれなくなる」

「そうかな」

「前、戻れなくなった」

「ん?」

「溺れたんだ、平泳ぎが出来るようになったばっかりで、調子に乗って」

 街田はまた、笑った。笑わないようにしているのだろうが、嚙み殺し切れていない笑いが、声として零れている。

「皐月くんの方が早くに死にそうだよね」

「縁起でもないこと言うなよ」

 街田は終始、笑っていた。彼女の隣に並んで、頬っぺたを引っ張る。そのまま怒った顔をすると、街田は更に笑っていた。

赤いのであろう太陽が、光と共に、徐々に遠くの海へと吸い込まれていた。


 帰り道、僕らは並んで歩いていた。田舎は街灯が無い。スマートフォンのライトで照らしながら、ゆっくりと歩く。

「また来ようね」

「あぁ」

「次は泊りね」

「別の部屋な」

「なんでよ」

 街田はくすくすと笑う。駅舎はもうすぐそこだ。街田が横断歩道の白線を、跳ねるように飛び越えていく。僕はその少し後ろを追いかけていた。スマホが手にあるからと、自分の中で言い訳をしていた。

「まちだ、」

 声をかけた瞬間、それを搔き消すようなクラクションの音が響き渡った。パッと視線を向けると、光に埋もれた中から車が走ってきている。

「皐月くん!」

 この時の僕は、多分浮かれていたのだと思う。信号が光っているという認識だけして、田舎だから車は来ないと高を括っていた。街田が先に渡ったから大丈夫だとも、思っていた。

 自分の身体が、後ろへと突き飛ばされる。数歩よろめいて、尻もちをついた。

 数秒の間、状況が認識できなかった。自分の脳みそを𠮟咤し、思い出したかのように顔を上げたが、横断歩道を横切ることなく止まった車のライトが目に痛くて何も見えない。

 目を瞑り、頭を振る。薄っすら目を開けて周囲を見渡すと、光の残像の中に、街田がうつ伏せで倒れていた。

 彼女の長くて黒い髪は、僕の顔にへばりついた何かと共に、コンクリートの地面と同化していた。

「……まちだ、街田ッ!」

 駆け寄って抱き起こした。力のない彼女の腕が、ごろりと転がる。顔に張り付いた髪をはらった時、僕の頭はやっと、彼女の身体から、血が、溢れ出していることを認識した。持っていたはずのスマートフォンは手にない。

 それを探す気力も、ない。

街田の淡い赤色のワンピースが、徐々に灰色へと染まってゆく。彼女の命が零れて、ワンピースを深い色へと沈めていく。何かをしなければいけないのは分かっていて、それでもどうしたらいいかがまるで分からない。

 勝手に思考を止めた僕の脳髄は、僕は、流れるように、血の赤とワンピースの赤は随分と彩度が違うなと思った。血の色は、もっと黄みがかった色だ。その時、初めて、街田の服は赤ではなく灰色なのではないかという場違いな考えが、頭を過る。

殆ど乖離してしまった身体は、意味のない言葉を零す。

「おい、起きろって!」

 僕の着る無彩色にも、街田の赤が染まる。街田のワンピースと、同じ彩度になっていく。顔色は、きっと悪い。ふたりとも。街田の瞼が、薄っすらと開く。

「……さつき、くん」

「まちだ、?」

 彼女の手が僕の頬に触れようとして、ずるりと落ちた。




 墓前に手を合わせたまま、ゆっくりと目を開ける。線香の煙が立ち昇っているのが見える。僕は立ち上がって、額の汗を拭う。もっと早く、僕らが同じであることに気が付けていたら、あの日何かが変わっていたのだろうか、と思う。

 彼女の家族は、出会い頭に僕を執拗なほどに責め立てたけれど。僕が1型2色覚であると分かると、それ以上は何も言わなかった。彼女の家族は、その意味を十分に理解していた。

 墓石の傍に咲く彼岸花が、ふらふらと風に揺れている。それは連れだって、同じように並んでいる。僕にはそれが、綺麗だということさえも分からない。

 僕は、いつまで経っても赤が見えないままだ。



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