12月号 『先立つ君へ』
【ボーダーライン】
黄色と黒で仕切られた、この危険区域に。
×××××
当然のように、私は毎朝、暴風警報が発令されることを願っていた。毎日毎朝、外に出て他人と顔を合わせなくていいならどれだけ幸せかと思っていたし、毎夜、明日が来なければいいと思っていた。避難所には行きたくないから、そこまで悲惨じゃなくていい。ただ、自分の区域から出たくない。ひとりで世界を完結させたい。行き過ぎた怠惰は傲慢になると知りながら、私はそうして生きていた。
だから私は、篠田先輩が毎日ステップを踏むように先を軽やかに進んでいくのを、ただ後ろから見つめていた。届かないと分かっている、始めから。キレイゴトを言いながら、届かせる気が無いのだ。立ち止まったまま、怠惰と、傲慢さの狭間を揺蕩っている。
あの日だって。私は、大事なところで足が。
「紀穂ちゃん」
竦んだ。長い黒髪、細い線。こちらを振り返る、絹糸のような美しさに、目を奪われる。篠田先輩は、精巧なガラス細工のように、そのすべてが美しい。名前を呼ばれても、声は、出せない。
「つきあって」
「……ッ、」
篠田先輩は、再び、先を軽やかに跳ねた。軽すぎるその足取りは、私に恐怖を与える。それでも、篠田先輩はそのことに気が付かないまま、鉛のように重い私の手を握ったまま、先に進もうとした。軽すぎて、私の重さのせいで自分がぼろぼろになっていることにも気が付かない。気が付いて、欲しい。はやく。手を離してほしい。
私は、ひとりで世界を完結させたい。
脆く儚い貴女なんて、いらないから。
「無言は、肯定でいいよね」
振り返り微笑む篠田先輩に神々しさを覚えながら、ただ、私はその場に立っていた。
篠田先輩が、線路の上で待っている。朝の光に包まれた先輩は、誰よりも美しい。
黄色と黒のボーダーラインが、頭上から、徐にタイムリミットを刻んでいる。音が、耳鳴りのように頭の中で何度も反響する。ここは、きっと渡り切るには遠すぎる。知っている。私は踏み出さない。先輩が焦れることもない。
手に持った花束が揺れる。カスミソウが微笑む。
遮断機の端に置かれた花束が、目に入った。ぐしゃぐしゃになった包装紙の中で、同じようにカスミソウが微笑んでいる。私はこの先を知っている。
私は。
黄色と黒が私たちを阻むのを、白い花束を抱えたまま、ただずっと見つめている。
篠田先輩が、そんな私を包み込むように微笑む。
ゆっくりと降ってきたボーダーラインが、私達を完全に、遮った。瞬間。綺麗な破片となって、赤色が砕け散った。
手に持った花束が、赤く染まる。
足は、竦んでなどいない。私は、ただ。劇的な眼前の光景を見つめていた。
過ぎていった時間のどの瞬間に居るときだって、私はそんな風になるなんて微塵も思っていなかった。いらないと言うことさえ億劫だった私は、あっけなく、早々に罰を受けた。
私は、ずっと同じ場面を往復している。ずっと、同じ世界をぐるぐるぐるぐる、てくてくてくてく。カンカンカンカン。これ、何度目かな。多分、私は先輩の年齢をとっくに追い越した。ずっと最低な時間だけが過ぎていく。一人で居たかったのに、どこへ逃れることもできず二人になってしまうこの空間は、最低以外の何物でもなかった。ここは硝子が砕ける瞬間が、永遠に繰り返される場所だ。
十分に危険区域。私にとって。
【アオイロ】
どうしても指が重くなるのが嫌で、結局ペディキュアにした。
ペディキュアにしたといっても、別に私の物でもない。彼女のもの。
「どの色にするの?」
「おなじの」
私の答えを聞いた彼女は、くすぐったそうな表情をしたあと、困ったように眉を下げた。
彼女は、時々マニキュアをしている。塗っているのはいつも一つの色だけ。今日は青色のマニキュアを塗っている。指に色があると、その日がいつも以上に、少しだけ楽しくなるらしい。
「自分で塗る?」
「左足だけぬってほしい」
「いいよ」
たぶん、ペディキュアなんて塗るのは今日が最後だ。除光液を持っていないから、来月には目測で爪を切ることになるのもわかっている。青色が私の肌には似合わないのも、知っている。でも。
彼女は横座りをしている。何となくまごついていると、彼女は何の躊躇いもなく、私の足を掴んで自分の足の上に乗せた。
「はい」
マニキュアの入った小瓶を渡される。片手で持っていると、彼女はその不安定な私の手を取り、筆のついた蓋を開けた。透明の縁で余分についた液体を落とし、何故かそれを薬指の爪から塗る。しばらくして、彼女は花が開くほどの速度で口を開いた。
「まってなくていいよ」
「……」
「きみに、もし好きな人ができたら、やめていい」
同じことを、一体何度言うのだろう。彼女は、わかったと言って欲しいのだろうか。私は絶対に言ってやらないと決めている。言いたくないから。遠くへ行ってしまっても、せいぜい苦しめばいいと、性格の悪いことをずっと考えている。でも、待っていると、そう言う強さもないからおあいこだ。
彼女の手を見つめる。この手に部屋の鍵を握らせたときのような心が、まだ残っていればよかったのに。私達は、もう随分大人になってしまった。いつからか責任という二文字が、私達の後ろをてくてくとついてくるようになって、気が付いたときにはそれに腕も足も取られて訳が分からなくなってしまっていた。私達、二人とも。責任の意味も上手くわからないのに、きっとその重圧から逃れたくて、彼女だけが、私よりも先が見通せない夢を選んだ。
全部、私が知らない間に。
少しもはみ出すことなく、私の比較的小さな薬指に青色を塗り終えた彼女は、私の足に向かって手でぱたぱたとあおいでいる。そんな弱い風で乾くわけが無いのに。彼女は言いたいことがあるけど悩んでいるとき、いつもならしない動きが一つ増える。私は、彼女が手に持ったままの細長いくすんだ銀色の蓋を、空いている片手で取った。マニキュアの蓋を閉める。彼女の太股に乗ったままの足を動かさないよう、そのまま机の上に置いた。彼女の色素の薄い瞳と、視線が絡む。どちらからともなく口付けた。
無理な姿勢に、あと何度、と思いかけて。やめた。
彼女は、来月この部屋を発つ。海を越えて、ずっと向こうへ飛ぶらしい。頭の悪い私にはわからなかったけど、たぶん、ずっと向こうだ。
「日付けがね、違うんだよ」
「前もきいた、それ」
彼女は微笑んで言う。まるで楽しいことのように。いや、望んで行くのだから当然楽しいことなのだろうけれど。指の一つにだけ塗られたペディキュアを見てみても、少しも同じ気持ちにはなれない。
おいていかないでほしい、とか。ずっと、灰色の靄のような気持ちが浮かんでいる。彼女の、肩口で切りそろえられた黒壇の木のように黒い髪を梳く。
私は足を、彼女の太ももから離した。ペディキュアをあおぐまでもないような沈黙の時間が、ずっと流れていた。いつの間にか青色は固まっている。
「君のいる場所と、私のいる場所の日付は違うから、私がいない間のきみと私も違う」
「またそうやって難しいこと言うじゃん」
「電話、かけちゃだめだよ。一緒になっちゃうから」
一緒になったら、何が駄目なのだろうか。いや、分かってるけど。わかっているけど、私だって自分で勝手に決めたことのせいで何も言えない。待ってるも、一緒にも、言えない。
「……じゃあ、このマニキュアちょうだい」
「それも駄目」
なんで、と思ったけど、結局また何となくわかってしまって聞けなかった。塗ったのならもう一緒だ、なんてそんなことも言えない。もしかして、彼女は私が除光液を持っていないことを分かっていて、爪と一緒に、私自身に記憶まで切り落とさせようとしているのではないだろうか。
彼女は、私のただでさえ小さな爪の、たった一つを消費するくらいの時間では帰ってこないから、あながち間違いではないのかもしれない。
自分がどんな顔をしているかわからないけど、彼女はまた眉を下げて困った顔をした。そのまま私の頭を撫でる。
また一つ増えた、小さな子をあやすような動きを、私はいつも許せない。
(ごめんね、)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます