半月




 少しずれたリズムで野菜を刻む。私が下ろす垂直の切れ目に合わせて、玉ねぎが不揃いな形にばらけていく。離れたソファからは、静かに本を読む人間の息遣いだけが聞こえている。生きている人間の音がする。手元のぽってりとした満月が全て汚くて薄い半月に崩れて、ふたつめに手を伸ばす、取る。人工的な白さに反射して、玉ねぎの表面がしゃぼん玉と同じ色に光っていた。半分にストンと落とす。少しずれたリズムでしゃぼん玉を歌う私の小さな声が、空間を少しだけ埋める。しゃぼん玉が汚い半月になっていく。半月をまな板の端に押しのける。切り損なっていた可食部ではないところを切り落とす。足りない。足りていない。ソファで休んでいいのは、精一杯働いた人間だけだ。今日は新月でも何でもない。まだ玉ねぎを切るには早い。玉ねぎはもういらないのに、もう玉ねぎしか切るものが無い。切れ味のいい包丁は、十分に力を持て余している。満月は全て簡単に切れてしまう。足りない。私だけ居たって意味がない。切るもの。

 私の皮は、私のどこまでを覆っているのだろうか。

 包丁を置いて、冷蔵庫の野菜室を引っ張り出した。何か切りづらい物を探したけれど、毎日ここには三食分の食材しか入れていない。もう後が無かった。

 もう一度まな板と向かい合って、包丁を握った。

 切るもの。

 指先の線がじわりと滲んで、ぴりとした痛みを感じた気がした。

 銀色の包丁をシンクにおいて、シャワーノズルから落ちる水で全てを無かったことにした。私はまだ、何にも気が付いていない。何も。

「どうしたの」

 彼の声で、私は歌うのを忘れていたことに気が付く。振り返ると、彼はいつの間にか本を閉じていて、何にも気が付いていない瞳でこちらを見ていた。暫く口篭もる。立ち上がった彼は隣の部屋に行ってしまう。息を吸い込んだ。今のうちに吸っておかなければ、と思った。

 隣の部屋から戻ってきた彼の指には、絆創膏が摘ままれている。私はそれからあからさまに目を逸らした。ただ静かに左手を握り締めて、水を止める。

「なに考えてた」

 嘘をつく時、彼は目を逸らさない。強いからだ。休める人間だからだ。私にはもう、玉ねぎしか切るものが無い。手を拭く。落ちてきた袖を捲り直して、スポンジを握った。包丁を洗う。泡が線に沿って浸食してきている気がする。

「もう切るもの無いよなって」

「大丈夫、足りてる」

「最近忘れっぽいからなぁ」

 さっきから、しゃぼん玉の二番が思い出せない。この前は炊飯器の蓋が開きっぱなしだったし、既に私は、さっきと同じようなことをしてこの人に何回も怒られている。念入りにすすいで、もう一度泡でなぞってから、私は包丁を水切り籠に置いた。指先の水を軽くシンクに飛ばす。

「ね」

 手の水分をタオルに吸わせながら、私は彼の目を見る。

「なに」

「私のご飯、おいしい?」

 頷いた、間髪入れず。

「そっか」

 左手で握り締めていた指先を開く。また微かに線が滲んでいた。私の額で何かが弾ける。

「痛ッ」

 額をなぞる。穴は開いていない。じんわり痛みが残る。フローリングの線を見ながら呟く。

「痛い、です」

「あのね、それがあたりまえなの」

 フローリングの線が、滲んでいる気がする。

「忘れてた」

 名前を呼ばれる。窺う様に顔をあげると、彼は勢いよく絆創膏を私の額に張り付けた。

「頑張って覚えて」

 彼は戸棚から大き目のマグカップを二つ、取り出した。額の絆創膏の、白いところが指先でちゅるりと滑る。私は、取り出したミルクパンに水を注ぐ。切り傷を覆っている薄皮が、ぼんやりと滲みながら取っ手に引っかかる。

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深夜の短編集 彌(仮)/萩塚志月 @nae_426

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