1月14日(木)「煌々と深海」

 自販機のボタンを押した。選択したことによって、それは電子音と共に緑色に光る。しかし、缶が落ちてくることは無い。そもそも俺がお金を入れていないからだ。ボタンを押しただけ。ボタンを押しただけでは、当然のように缶は落ちてこない。未練がましくボタンを指でなぞる。その上を、雨の雫が滑ってゆく。夜の闇に煌々と光る自販機によって、雨の粒はきらきらと光っている。俺はもう片方の手で、合羽のフードを引っ張った。透けた白のそれを目深に被ったところで、前髪は既に濡れている。寒い。俺はずるずるとその場にしゃがみ込んだ。

 別にお金が無いわけではなかったけれど、今ここで使うべきではないと思っていた。多分また今夜も永遠に追いかけっこをする羽目になる。もう何日路上で明かしたのか分からない。初めはリュックサックを背負っていたけれど、体力を削るだけだと言う事に気が付いて即手放した。今は見つからないところに隠して置いてある。上着のポケットに入った手持ちは、小銭入れとスマートフォンだけだった。

 雨粒が滑り落ちてゆく。本当は、こんなところで留まっている時間は無い。今すぐにでも走り出さなければいけないのだけれど、もう足が冷たくて、痛くて、一歩も動けそうにない。何故しゃがみ込んでしまったのだろう。立ち上がる力もない。

 雨足が、徐々に強くなっている。バラバラと合羽に雨が当たって弾ける音が、段々、大人数がこちらに駆けてくる音に聞こえ始める。はやく、逃げなきゃ。ここから。

 何処へ。

 雨が、また一層激しくなって、更に近づいてくるような錯覚が増す。何処へでもだ、逃げなければどっちみち死ぬ。立ち上がらなければと自身を叱咤して、冷たい足に力を込めた。

 ピッ、頭上で機械音がした。ガコン、と自販機の四角い口に缶が落ちてくる。

 喉の狭窄で、小さな音が零れる。思考が雨の音にのまれていたとはいえ、全く気が付かなかった。頭上に居る人は傘を差しているのだろうか。雨音が少しだけ遠のいていた。

「拾って」

 穏やかな声だけれど、強制力のある声だった。恐る恐る、顔を上げる。軽い合羽のフードが、ぱさりと頭から落ちた。濡れた前髪は張り付いたまま。

 声の主は、自販機の煌々とした光に照らされていた。紺碧の瞳と、視線がかち合う。覆う傘も青色で、ふと深海に居るような錯覚に陥った。

 男は、指す。ゆっくりと指の先を辿ると、自販機の口に繋がっていた。

 慌てて手を突っ込み、拾う。おしるこ。俺がさっき押していたボタンの先にあったやつだ。

「ありがとう」

 手を差し出される。一瞬何のことか分からなかったけれど、気が付いて、ぽんと、温かいおしるこをその手の上に置いた。

「上出来、うち来る?」

「ぇ、」

 彼は雨で濡れるのも気にせず、地面に膝をついた。上質そうな黒いスーツに水が染みる。勝手に慌てたけれど、彼自身は気にする素振りもない。寧ろ、もう一度重なった彼の深い瞳に、吸い込まれそうになる。

 焦りと困惑で居た堪れなくなって、視線を自分の手元に逸らした。

 ついて行って、いいのだろうか。悩みながらも、本当は喉から手が出るくらいについて行きたい気持ちの方が勝っている。足と同時に、もう心が疲弊している。いつから落ち着いて寝られていないのかも覚えていない。冷静な判断ができていないことは百も承知だ。ただの悪い大人かもしれない。

 だけど、逆にもし、本当にただのいい人だったとしたら、それはそれで事なのではないだろうか。今は他人を心配している場合か。思考がぐるぐると堂々巡りを始めたとき、目の前から声が降ってくる。

「俺、そんなに弱くないけど」

 彼は、そういっておしるこの缶をポケットに入れ、同じ手でジャケットの内ポケットから小さな何かを取り出した。俺に向かって手を開く。手の上では、自販機の光に反射する小さな鈍い銀色が光っていた。

「来なよ、拾ったげる」

 敵だ。

 身体が震えているのは、決して寒さからではなかった。

 国立管理者機関。National Administrator Agency。俺が今、逃げなければいけない組織の人間。彼の手に乗っているのは、機関の人間だと言う事を証明するバッチに他ならなかった。

 脳が警鐘を鳴らしている。逃げなければと思うけれど、もうこの距離感では完全に彼が有利だ。この近さから逃げられる敵ではないことは、敵と気付いた瞬間から分かっていた。荷物を極限まで減らして、雨の中でも走り抜けるのがやっとの敵なのだから、当然だ。俺は彼の気配にさえ気が付けなかった。

 思考が完全に凍結する。恐怖で、息が上手く吸えない。

 そんな思考に、ふと、他人の脳を覗いたかのような疑問が頭をもたげた。

「拾う」と言う事は「捕まえる」と言う事ではないのだろうか。国立管理者機関は、常に捕獲を目的として行動している。彼らにとって聞きなれた言葉を、彼らが今更間違う筈が無かった。

 彼の手に乗せられたバッチは、未だに衰えることのない煌々とした光を受けて、鈍く光り続けている。木を隠すなら森の中、か。正直、不確定要素しか無いこの状況で決断をするのは、難しい気がした。それでも。

 俺は、彼を見て小さく頷いた。

 紺碧の彼は、目を細めて満足そうに笑う。

 一縷の望みに賭けるしかない。元より、逃げるだけでは死しかないのだ。冷たくなった足に鞭をうって、眩しい人工の光を背に、俺は立ち上がった彼の隣に並んだ。

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