12月10日(木) 「蛙と小鳥」


 マンホールの蓋が開いていた。全開になっているというよりは、少しだけずれている感じ。しかしいつも開いていないところが開いているという観点において、たった少しでもマンホールの蓋が開いていることは自明だった。見間違いではない。重い鉄の隙間からは、底なしの暗闇が覗いている。

 幼少期、マンホールに落ちたことがある。

 今よりもう少しだけ、大体マンホールの半分くらい隙間が空いていた。同じ年の子たちの中でも特に身体が小さかった私は、無邪気に駆けだした一歩が隙間に嵌り、するりと身体が入りこんでしまったのだ。一瞬の浮遊感の後、確かな衝撃が身体に伝わって、それからの記憶はない。

 起きると、どろどろの服のまま知らないベッドにいた。

 この時点では、まだ怖いという感覚は無かった。しかし数年して、起きたベッドが近くの割と大きい市民病院だったということが認識できるようになってから、夢を見るようになった。まさに井の中の蛙。いつまで経っても助けが来ない。終始、薄く張った冷たくて汚い水に足とお尻が浸っている。夢の初めから終わりまでずっと、何が起こることもなく孤独感に苛まれる夢。唯一マンホールの隙間から差し込んでいる一筋の光さえ、最後には潰える。手足が凍えやすい冬の夜には、特に毎日のように見ていた。それは今も続いている。

 だから結局今になっては、どこであっても暗闇が怖くなってしまった。暗闇や、暗闇になりそうな場所ならどこだって怖い。小学生の時、遊びの範疇でふざけた同級生によってロッカーに閉じ込められたときは、過呼吸を起こして救急車を呼ぶ羽目になった。救急車の中でだいぶ落ち着いた頃にまたあの時の市民病院へ運ばれ、当時より少し小さくなったベッドに寝かされた。糊の効いた無機質なシーツを感じ、どこまでも白い天井を眺めながら、マンホールの先は病院なのかなとか、なんだかよくわからないことを思った。実際はそんなことは無いことを、ちゃんと理解していた。

 今はもう大人だから、身体が入り込んで落ちるなんてことは無い。と思う。点検用の穴だから大人用とはいえ、もうそこまで身体が柔らかくない。小さい子が落ちるのは、まだ柔軟性が残っているからだ。と思う。いちいち言い訳をしながら、毎日マンホールの上を歩いている。いちいち言い訳をしなければ、マンホールの上が歩けない。面倒なことになっているなと、中学生くらいの登下校で気が付いた。小学生くらいまではまだ遊びの範疇でマンホールを避けて歩くことが出来たから、そのことに気が付いていなかっただけだった。




 握っていたはずの手が、離れた。

 後ろを振り返ると、彼女がマンホールを見つめている。蓋が少しだけ空いていた。

 僕の彼女は、時々ああしてマンホールに捕らわれる。籠の中の鳥の様だった。初めはただのマンホールマニアなのかなと思ったりもしたけれど、次第にマンホールの先にある虚空を見つめていることに気が付いて、一時期は慌てて止めていた。何となく、そのまま引き込まれてしまいそうな気配があったから。今は近づけないことを知っているので、しばらくしてまた手を取り、歩き出すことにしている。

 しかし、今日に限っては違った。マンホールの蓋が開いていた。

 彼女が引き込まれて、落ちてしまうだけの隙間が用意されていた。

 きっと、他人からすれば、大人なんだから流石に落ちないだろうと笑われてしまうようなことかもしれない。でも、彼女にとっては違う。

 彼女は、羽根を切られた小鳥と同じようなものだ。

 後ろで立ち止まったままの彼女を追い越し、無造作に蹴ってマンホールの蓋を閉めた。

 道に響いた大きな音に、彼女が息を吞む。

「もし、なかに人がいたら、」

「点検中だったらもう一人外に立ってる。大丈夫だ」

「でも、」

「大丈夫だから」

 彼女の手を握った。その手が握り返されることは無い。視線はさっきよりも余計にマンホールへと注がれている。ぐいと引っ張った。彼女の瞳が、微かな怯えによって揺らいでいた。

「お前だってちゃんと助かっただろ」

 彼女の指に嵌る指輪を弄る。焦って物で繋ごうとした時の代償だ。サイズを見誤ったせいで少しだけ大きい。それでも繋ぎ止め切れていないから、今に至る。マンホール如きに彼女を取られそうになって、焦る。

「帰ろう」

「……うん」

 本当は考えないようにしているけれど、少しだけ。彼女がマンホールを見つめているとき、もしかして今はもう生きていないんじゃないかと思う時がある。生きていると信じているけれど、どこかで時折疑っている自分がいる。羽ばたけなくなった鳥は、落ちるしかないのだ。


 僕は、彼女を落としたくない。

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