四次元ポケット・夏休み

四次元ポケット・夏休み

 八畳の広さの子供部屋の西側に、学習机が設置されていた。子供部屋の東側には本棚があり、漫画雑誌のアーカイブ、単行本、図鑑、寓話集が収納されていた。本棚の横には月めくりカレンダーがひとつ、貼って剥がせる粘着フックに掛けてあった。

 十二歳の中西大輝は学習椅子に座り、足元の円形ステップを足で回しながら、学習机で『ドラえもん』を読んでいた。ちょうど一編読みを得たところで彼は後ろを振り返り、カレンダーに視線をとめた。今日は水曜日だった。そうか、もう八月十九日なのか、と彼は思った。今年の夏休みは短縮されていた。今日を含めて、夏休みはあと五日しかないな、と彼は思った。

 一時間ほど前に朝食が終わっていた。今は大輝だけがこの家にいた。彼の父親の大介、母親の真理子はすでに外出していた。彼は食器を下げて、大介と真理子、そして自分の食器を洗い乾燥機にかけてからリビングのテーブルを拭き、そして子供部屋まで戻ってきた。彼は子供部屋に入ってすぐ本棚を眺め、文庫サイズの『ドラえもん』を手にとって学習椅子に座って読み始めた。夏休みが始まってすぐ、ブックオフの百円コーナーで真理子が十冊ほど適当に選んで買ってきた漫画本のうちのひとつだった。

 彼が今読んだ一編は、ドラえもんが四次元ポケットから未来の道具を取り出し、のび太の部屋に並べて定期検査をするシーンから始まっていた。のび太が“これ全部ポケットから出たの?”とドラえもんに聞いた。のび太の部屋の床を埋め尽くすほどの夥しい数の道具が並べられていた。大輝が数えただけでも十五個あった。

 彼は読み終えた漫画本を開いたページのまま表紙を向けてひっくり返し、学習机に置いた。そして、四次元ポケットとはなんなのだろう、と彼は思った。

 大輝は、回転する椅子ごと左側へ体を捻った。子供部屋の南側に面する窓に視線をやった。家の前の舗装道路に並んでいる木々の葉を眺めた。夏休みが始まったあたりから、ことのほか暑い日が続いていた。今日も暑い日だった。大輝は真理子から、日中は冷房を使うように言われていた。子供部屋は冷房が効いていた。彼は冷えた空気の中で窓の外の陽炎を見つめた。彼は外界の色がオレンジ色のように思え、自分がいるこの子供部屋の中は青いように感じた。

 大輝は学習椅子を体ごと右に回転させ、学習机に向き直った。自分の正面にある漫画本を奥に退かせ、そして右手側に積んであるノートや教科書類の山から自由帳を一冊取り出した。HB鉛筆を持ち、自由帳のページを開いた。自由帳の右ページの上に消しゴムをセットするように置いた。

 四次元ポケットについて知っていることを彼は書き出そうと思った。彼はテレビで放送されているアニメ版ドラえもんを毎週観ていた。毎週観ていたが、四次元ポケットについて詳しく知ったことはなかったな、と彼は思った。ドラえもんのお腹の中心より少し下に張り付いているような、半月型のポケットの形を彼はイメージした。自分が知っているような、服についているポケットとは少し様子が違い、ポケットというよりはカンガルーの袋のように思えた。そしてポケットに手を突っ込んで道具を取り出すドラえもんの動きを思い出した。ポケットやドラえもんの体よりも大きな道具を取り出せること、一度取り出したものはしまうこともできるということ、道具は複数収納できるということ、ドラえもんのセリフから四次元ポケットはその名の通り四次元に繋がっているということ。それらの特徴を、大輝は頭の中で整理し、自由帳に書き出した。

 大輝は“四次元”という言葉を漢字で書くことができた。しかし四次元が具体的に何であるかを知らないことに、彼は今日漫画を読んで気がついた。まず、四次元が何なのかを知る必要があるな、と大輝は思い、一旦自由帳を閉じた。彼は自由帳を、右手に積まれたノート類の山に戻した。

 大輝は表紙を向けて開いてある漫画本を手に取って、もう一度同じストーリーを読んだ。のび太がカウンター付きのスイッチのような機械を押し、慌ててドラえもんとセワシが駆けつけてくる。それは押した者が百分間のうちに百の苦しみに合うという機械だった。六回目の苦しみではのび太は車に跳ねられた。セワシが百年後の世界に機械を持っていき、七回目の苦しみは百年後だとドラえもんが告げ、のび太が安堵の表情を浮かべるところで物語が終わっていた。問題を解消するのではなく、先送りすることで解決するという方法に、大輝はこれまで味わったことのない釈然としない違和感を覚えた。

 正午過ぎに真理子が家に戻ってきた。昼食がすぐに始まった。

「午前中は、なにをしていたの?」

真理子は忙しなく食べ物を口に運びながら、上目遣いで大輝を見た。

「ドラえもんを読んだ」

と彼は答えた。

「この前買ったやつね」

「ねえ、四次元ってなに?」

「四次元ポケットのこと?」

中西真理子はドラえもんを知っていたし、四次元ポケットの存在も知っていた。

「四次元ポケットっていうか、四次元」

「私たちがいる世界が三次元。絵や漫画の世界は二次元。四次元は認識できない」

大輝は混乱した。

「もう一度言って欲しい」

真理子は息子の顔を見ず、皿の上にある料理を箸で掴みながら話した。

「二次元は平面ね。縦と横の二つのベクトル。三次元は平面に奥行きを加えたもの。縦と横と奥行きの三つのベクトル。漫画は奥行きがないから、ドラえもんの背中を見ようとしても見られないでしょ」

「背中描いてあるけど」

真理子は食べ物を咀嚼し、少し時間をかけた。

「じゃあドラえもんの背中のコマが描いてあるとき、あなたはそのドラえもんの顔を回り込んで見られるの?」

「いや、できない」

「三次元は奥行きを加えるって言ったけど、それは大体つまり立体ってこと。立体のものは回り込んでいろんな方向から見ることができるでしょう。それが二次元と三次元の違い」

「じゃあ四次元ってなに?」

大輝は改めて同じ質問を母親にした。

「それは、わからない」

真理子は答えた。

「なんで?」

大輝は心からそう言った。

「三次元の世界からは認識できないから」

「なんで?」

「ドラえもんやのび太が、自分たちがペンとインクで出来ていているとは知らないってことと同じ。ごちそうさま」

真理子は昼食を食べ終えた。そして食器を流しまで運んだ。

「ママ仕事に戻るからね。悪いけど、洗い物はよろしく。出かけてもいいけど、ちゃんと戸締りしていってちょうだいね」

真理子は荷物を取り、急いでリビングから出ていった。

 大輝も食事を終え、彼と母親の分の洗い物を済ませ、乾燥機にかけ、テーブルを拭いた。彼は子供部屋とリビングの戸締りを確認し、外出した。歩いてJRの駅の方面へと向かった。街道に沿った町だった。都心への通勤者が多いベッドタウンで、近年建てられた急ごしらえの建売住宅と単身者向けの低層マンションが並んでいた。昔からある木造家屋もいくつかあった。駅前には昭和初期からある銭湯のような温泉施設があり、戦前は大きな温泉街であったが今ではこの一軒しか温泉は残っていなかった。そこは今では老人たちの交流の場となっていた。温泉の横道を通ると、大広間での老人たちのカラオケの歌声が聞こえてきた。中西大介は五年前にこの街に家を買い、家族で住み始めた。古いものと新しいものが混ざった、大輝にとっては見慣れた街並みだった。

 温泉施設を超えて、駅まで彼は歩いた。暑かった。太陽が眩しく、彼は下を向きながら歩いた。歩きながら、先ほどの母親との会話を思い返していた。四次元が何なのか結局わからなかったな、と彼は思った。ドラえもんやのび太が、自分たちがペンとインクで出来ているとは知らない、ということについても思い出した。

 駅の北側にある、丘を切り崩して作られた公園へと大輝は足を向けた。森林に囲まれた公園で、JRの駅の北口からまっすぐ道なりに進むとそのまま敷地内へ入って行ける。その道はゆるい登り坂だった。彼は登り坂を進み続けた。舗装された道で、大きな帽子を被り、首にタオルを巻いてベビーカーを押している女性が歩いていた。テラスのあるイタリア料理屋の前を大輝は通った。テラスでは妙齢の女性が、ひとりビールを飲みながらピザを食べていた。大輝はテーブル上のビールグラスの光と泡の反射に視線を合わせ、喉が乾いたな、と思った。

 イタリア料理屋の十メートル先に自動販売機があった。大輝は自動販売機まで歩を進めた。彼は自動販売機の前で止まり、コインを入れて三ツ矢サイダーのボタンを押した。三ツ矢サイダーが音を立てて受け取り口へと落下した。彼は取り出して、透明色と濃い緑色のくびれたボトルを眺めた。ボトルの中で気泡が伝っていた。透明色が太陽の光を透かしていた。大輝はボトルを自分の頬に当てた。冷たかった。水滴が彼の手と頬に流れた。彼はキャップを捻って開けた。炭酸の音がした。彼は音が収まるまでボトルを地面と平行に保ち、炭酸が鳴り止んだところで口に運んだ。彼の体に冷たい液体が流れ、口の中で泡が弾けた。喉まで弾けた。彼は三口飲んで、キャップを閉めた。そしてまた丘の登り坂を進んだ。暑い空気が彼を包んだ。ボトルを掴んだ手だけが冷たかった。

 丘の頂上を目指す途中で、彼はいきなり気がついた。理解そのものが彼の目の前にいきなり現れたという気づき方だった。事実は目の前にあって、自分自身が気がついていなかったということ自体にも驚き、またその事実の内容にも驚いた。

 彼は顔を上げて、登り坂の先を見据えた。そして振り返り、自分の街を見下ろした。これまで見慣れてきた街並みが、全く別の世界のように思えた。三ツ矢サイダーの泡が喉を下る感触がまだ残っていた。彼は歩き続けた。

 自分が生きているこの世界が創造物であることにたった今気がついた自分を受け止め直した。ドラえもんやのび太は自分たちがペンとインクで出来ているとは知らず、つまりそれは自分たちが漫画であることを知らないのだ、と彼は順を追って改めて考えた。つまり四次元ポケットとは三次元そのもののことだ、と彼は確信した。そして実際には、ドラえもんたちは三次元ではなく二次元だということも認識し直した。ドラえもんたちは、三次元である我々の介入を知らないのだと思い、そして三ツ矢サイダーのキャップを捻った。サイダーを口に流し入れた。彼は目を閉じて、しかし太陽を仰ぎながらサイダーを大きく三口飲んだ。ゆっくりと息を吐き、そして顔を下ろした。目をゆっくりとこちらに開けた。

 彼は家に帰り、子供部屋で三時間眠った。起きる頃には日が沈みかけ、西側の上空から淡いピンク、紫、ブルー、濃紺の薄明となっていた。彼は窓から西側の空を眺めていた。真理子が部屋の外から彼の名前を呼んだ。

「大輝くん」

大輝は子供部屋のドアを開けた。

「おかえり」

真理子はドアの前に立っていた。

「一時間ほど前から帰っていたわよ。ただいま」

「眠っていた」

「疲れたの?」

「先ほどの四次元のことなんだけれど、わかったんだ」

「なにを?」

「四次元ポケットが僕たちってことと、僕たちもドラえもんやのび太だってこと」

「ようやくそのことに気付いたのね」

冗談か本気かわからないことを含み笑いで言うのが真理子の特徴だった。

「もうじき夕食だよ。パパもすぐ帰ってくると思うからリビングに来てね」

「お腹すいた」

 大輝はその晩、大介と真理子とで夕食を囲んだ。食後には久々に大介と風呂に入った。そして彼は「おやすみ」を彼の両親に言い、子供部屋に戻った。夏休みが終わるまで、あと少しだった。

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