11.

 幸いにもさほど待たされることなく席につくことは出来た。しかし食事をすれば会話が弾むなんて方程式はなく、俺たちは二言三言当り障りのないことをこぼし合いながら黙々と肉とスープを胃に突っ込んだ。


 不幸中の幸い、というべきか、俺たちの間に気まずさはない。付き合いだけは長いから、議論討論でもないのに会話が弾むなどどちらも期待していなかった。食事時に騒ぎ立てるのも好かない二人だ。


 だからといって、そのままでいいという訳でもない。昔の俺ならそれでよかった。適度に消極的な人間関係が望みだったし、上谷とだって親友になろうとしてそうなった訳ではなく、成り行きで生まれた繋がりがたまたま成長しただけだった。


 水やりが面倒になって投げ出せば、関係は自然と枯れていく。いま俺がしているのは、ほとんど死にかけの友情の樹を豆の木よろしく天上まで伸ばそうという無謀な試みだった。


「クリスマスだってのに、なんであたしと一緒にいるかね」


「クリスマスだからでしょ」


「んー、もっと大事な人と過ごすべきだと思うなぁ」


「姉さんが一番大事だし」


「……あんた友達いないの?」


「そういう流れじゃないと思うんだけどな!」


 すぐ向こうのボックス席が騒がしい。上谷の頭越しにそちらを窺うと、座っているのはまた女の二人組だった。俺たちと同年代らしい眠そうな目の女子と、だいぶ年上に見える、といっても二十代後半から三十代前半くらいだろう大人の女だ。大人の方は俺の位置からは後ろ姿しか見えないが声の調子から同世代じゃないのははっきりと分かる。ただ大人びているかと言えばそうでもなく、雰囲気だけなら上谷の方が年上に見えそうだった。


 姉さん、という呼びかけからして年の離れた姉妹だろうか。クリスマスに姉妹でファミレスとは、また仲の良い二人組だ。映画館の時といい、今日はよくよく女同士の組み合わせが目につくな。いや、それとも俺が無意識にそういう組み合わせを探しているから目につくのだろうか。


「さて」


 俺が二人組に気を取られている間に、上谷は大方自分の皿を平らげていたようで、フォークを置いて意味ありげな視線を送ってくる。


「……なに?」


「こっちの台詞だぞ。どうした」


 どうした、と言われても何を聞かれているのか本当にわからない。


「どうもしないけど?」


「ずっとそわそわしてるくせによく言う。何か言いたいことがあって俺を誘ったんじゃないのか?」


 例の皮肉げな笑みを浮かべながらそう言われて思わずグリーンピースを丸呑みした。小さくてよかった、軽くむせただけで済む。


「そんなに落ち着きなかったか?」


「俺じゃなくても気づくくらいにな」


 そりゃよっぽどだ、と他人事めかして頷くと、上谷が表情を引き締めた。


「遠慮することはないぞ。俺だって愚痴を聞いてもらったんだ。そのおかげで助かった。お前にも同じことが必要なら俺は手伝いたい」


「……いや」


 そうじゃない、と思った。俺が何かをして欲しいわけじゃない、上谷が俺に何かして欲しいと思って欲しい。欲しい欲しいでなんだか回りくどいが、そういうことだと感じた。


 だけどそれとは別に、何か一つ、希望することがあった気がする。


「手を出してくれ」


「ん? ほれ」


 脈絡のない俺の言葉に、上谷は首を傾げつつもほとんどノータイムで右手を差し出す。俺も上谷も文系筆頭でスポーツとは縁がなかったはずだが、上谷の手は俺の手よりもたくましく見えた。他人の手をまじまじ見たことがなかったから、それが上谷の手だけに抱く感想なのか、それとも他人の手は全てそう見えるのかわからない。


 手のひらを上にして差し出された右手を上から握る。握手した手をそのまま寝かせたような形になった。


「……友情の握手か?」


「んー、いや、んー?」


 違う、そうじゃない。こうじゃない。求めるものとの齟齬が突起となって心臓に引っかかる。

 手を繋ぎたい、と思う。でもそれは物理的にこうして繋いでみたからと言って満たされるものではなく、その行為は代替にもならない。


 手を繋いで歩く。それは確かに俺の望みだと思う。そこを否定しては前に進まない。だけどそれは出発点でも終着点でもなくて、俺の望むものに強引に形を与えたに過ぎない。


 だから手を繋ぎたいのではなく、手を繋ぐことを認められたいのでもなく、男同士にも関わらず手を繋いで歩くことが自然なくらいに、特別でありたかった。


 おかしな願いだ。でもそれを隠したまま今日が終わったら? せっかくのクリスマスだぞ。わざわざ特別な日を求めたのは俺のはずなのに、平凡な友人のまま終わろうとしてはいなかったか。


 上谷は遠慮するなと言った。そうとも、俺たちはかつて遠慮なんてしなかった。退屈なら退屈だと言い、気に食わなければ気に食わないと言った。そんな遠慮のない言葉をぶつけ合っていた頃のほうが、今よりよほど繋がりは密だったのだ。


 なら、ちょっとくらい妙に思われることの何が問題か。薄まった関係がまた薄まっていくだけじゃないのか。


 失敗したらよりも、成功したらを考える。自分の内側だけで盛り上がる熱が止まらない。こういう風に頭が熱くなる時に選ぶのは決まっていつもの俺からすれば愚かとしか言いようのない選択肢ばかりだ。今回もきっとそうだろうとわかっていても、ここまで感情が加速するともう止まらない。


「帰りさ」


「おう」


「手を繋いでいいか?」


「おう?」


 上谷が「聞き間違いか?」という顔で俺を見たので、俺は何も間違ってはいないぞという意図を込めて一度頷いた。


「う、むぅ」


 上谷が唸る。不快感を示されなかっただけでも僥倖だと冷静な俺が囁く一方で、盛り上がっている方の俺は反応が物足りないとしきりに喚いていた。


「理由を聞いてもいいか?」


 俺はさっきの映画で主人公の相棒がしていたように肩をすくめて見せた。気取って見えないといいんだけど。理由を全て言葉で語れるわけじゃないのだ、という意思表示のつもりだった。


「そうだな……理由は、お前と仲良くなりたいからかな。今より、昔よりも」


 なるべく正確になるよう言葉を選んだのだが、これが正確なのかは自分でも判然としなかった。しかし的外れではないだろうという確信はあったので特に訂正しない。


 思うところがあったのか、上谷もまた一度は何かを言いかけた口を閉じてじっと黙り込んだ。


 信頼と親愛はまったくの別物だ。上谷もまた、いまの俺たちの間にあるものが信頼であって親愛でないことには気づいているだろう。


「今の俺達は仲良しではないわけか」


 確認するような響きだった。


「仲良しではないだろ。遊びに出かけるのなんて何年ぶりだ」


「まともに話したのもずいぶん久しぶりだ」


 お互いの距離感を確かめる。喜ばしいことに認識にそれほど差はないようだった。


「そうだな、確かに仲良しじゃない」


 納得した、と上谷が頷くとまた会話は途切れ、沈黙の時間がやってくる。判決を待っている気分だったが、高揚が不安と相殺して気持ちは穏やかだった。


「……食べ終わったな」


 判決を待ちながら食事を進めていた俺が最後の一口を咀嚼し終えると上谷はそう言って立ち上がった。


 手を繋いでいいか、という質問にはイエスともノーとも答えない。それが上谷の出した答えということだろう。俺には落胆する権利はあるが、これ以上同じ要求を繰り返す権利はない。食い下がるということは、相手が指定したラインを踏み越えるということだ。俺たちのどちらも、そんな強引さを望んでいない。


 上谷に続いて立ち上がって、俺たちは会計を済ませて店を出る。もちろん何の確認もなく割り勘だ。友達と飯を食って自分の分だけ払う。当たり前のことのはずだが、今はそれが寂しいことのように感じた。


 店を出てしばらく無言だった。俺たちは並んで家に帰る道を辿りながら、視線は合わせず白い息を吐き続ける。


 駅方面から離れ住宅街へ近づくにつれてすれ違う人は減り、大通りから一本外れれば車の数も極端に減った。


「……今は、これで勘弁してくれ」


 不意に上谷がそう言って立ち止まった。前置きも予備動作もなかったので俺は数歩先へ進んでから振り返る形になる。ポケットに入っていた上谷の右手が、こちらに差し出されていた。


「ええ、と?」


 意図を尋ねると、上谷は少し照れくさそうに視線を俺から地面に逸らした。


「繋ぎたいんだろ?」


「いいのか?」


「手を繋ぐのはいいんだ。ただ――」


「ただ?」


 上谷はしばしうろうろとアスファルトに地面に視線を滑らせた後、俺に向き直って言った。


「人に見られるのは、恥ずかしい」


 そう言って微笑んだ上谷の顔は、月明かりのせいか初めて見る表情な気がした。

 俺は追い越した数歩分を引き返し、差し出された上谷の手を握る。繋いだ指先から充足感が全身に行き渡るようだった。


 と、同時に。


「確かにこれは恥ずかしいな」


 こみ上げてきた気恥ずかしさを口にすると、上谷は「そうだろう」と鼻を鳴らした。

 俺たちの家まではおおよそ五百メートルほど。こそこそ恥ずかしがって繋いだ手は、家に帰るまでに俺たちをどれだけ近づけるだろうか。


 俺が感じている喜びは友情なのか、もっと別の何かなのか。


 でもそれが何であろうと構わない。俺たちは今この瞬間、確実にお互いを特別なものと認めているのだ。気づけば勝手に積み重なっている過去ではなく、自分たちで求めた今が一秒ごとに積み重なっていく実感は、俺が初めて誰かを選んだことの証明に思えた。


 一人ぼっちでやってくる転校生と一人ぼっちの俺が自然に歩み寄るのではなく。俺が求めて願って手を伸ばしたものが、いまこの手にある。


「……俺たちは気持ち悪いのか?」


「知るもんか」


「そりゃそうだ」


 俺たちはそう言って笑い合う。誰かの目には特異に映ったとしても、俺たちにとってのそれは特別だ。俺にとってはそれで十分で、上谷にとってもそうだったらいいと願った。

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