6.

 翌日の学校は冗談じゃなく吐き気がした。


 サボってしまおうか、と考えなかったわけじゃないけど。小学校から数えて九年の学生生活でおよそズル休みという事をしたことがなかったので、嫌がる心とは裏腹に身体が勝手にいつも通りの通学路を歩いていた。真面目なのではなく、サボるために何をしたらいいのかわからなくて、何もできなかったのだ。


 例の女子たちに朝から嫌味を言われたりもしたが、正直そんなものにいちいち反応していられるだけの精神状態じゃなかったから何を言われたのかもろくすっぽ覚えちゃいない。


 昼休みを告げるチャイムが鳴り、クラスメイトたちはめいめいに集団を作ったり作らなかったりしながら泡の抜けた炭酸みたいな気のない時間を過ごし始める。


 私はいつもなら自分の席で参考書を広げるところだけれど、今日は鞄から取り出した参考書を開く気になれず、机の上に放り出したまま何をするでもなく(というよりは何をすることもできずに)ぼーっとしていた。


 当然といえば当然だけど、昨日のあの一件のあと、まだ飛鳥の姿は見ていない。放課後図書室へ行くべきか迷う。


 あんなことがあったくらいだから、いい加減に飛鳥も私に愛想を尽かしただろうとは思うものの、一方で昨日の別れ際に見たあの捨て猫みたいな顔が頭を離れず、飛鳥の行動力なら自分を問いただしに現れるのではないか、という気もしていた。


 うん、よし、しばらく図書室に行くのはやめておこう。


 思いの外あっさりとその決断をした自分に苦笑する。昨日までは成績が落ちることがこの世の終わりみたいな気がして、習慣になった勉強の環境が変わるのがあんなに嫌だったのに。


 どうやらいまの私は飛鳥と顔を合わせるほうがよっぽど嫌みたいだった。

 放課後はさっさと帰ってしまおうと決めて、少しでも勉強に励もうと無理やり参考書を開いたときだった。


「ちょっと、いい?」


「ひょっ」


 突然声をかけられて変な声が出た。慌てて顔をあげるとクラスメイトが一人、私を見下ろすように立っていた。


 声をかけてきたのは例のグループの女子ではない。肩より少し下まで伸ばした髪と眠そうに三割くらい閉じられた目つきが印象的な女子だ。口を尖らせているのは不機嫌なのではなくそういう癖があるらしく、私が目を合わせると尖っていた唇がしゅっとしぼんだ。


 だ、誰だっけこの人。


 いや、クラスメイトだったのは覚えてる。問題の女子グループのメンバーでないことも、どころかおよそクラス内のどのグループにも所属していないことも覚えている。なんだったら体育の授業なんかで何度か余りもの同士二人組になったこともあった気がする。


 ぼっちという意味では私と同類だけど、彼女には敵対する相手もいないので名前を呼ばれているのをついぞ見たことがなかった。いや、クラスで浮いているとはいえまったく会話に参加しないという訳でもないだろうから、私が意識からとりこぼしていただけだろうか。


 ぼんやりとした記憶を必死に手繰り寄せてどうにか彼女の名前らしきものを思い出す。ええと、たしか。


「イヅナ、さん」


「ん。さんはいらないよ、同級生だし」


 合っていたらしい。でも思い出せたのはそれだけで、イヅナが名前なのか苗字なのか、どんな字を書くのか、そのあたりが曖昧なのでいきなり呼び捨てにするのも抵抗があった。


「何か、私に用事、ですか?」


「ま、そんな感じ。よかったら場所変えて話したいな。あと、なんで敬語?」


「いや、なんとなく……」


 あの連中に絡まれるのは面倒だったけど、昨日の今日で彼女たち以外に声をかけられるのも変な感じだ。ましてイヅナさん――イヅナは積極的に誰かに話しかけて雑談に花を咲かせるタイプとも思えない。


 くるりと背を向けてさっさと歩き出すイヅナの背中を見て、ついていくか一瞬迷ったけど、私は彼女を追いかけることにした。


 イヅナは教室を出たところで一度振り返って私がついてくるのを確かめたあとは一度も振り返らず、明確な目的地がある様子でさっさと歩いて行く。何か声をかけようにも世間話をする雰囲気でもないし、そもそも私世間話とか苦手だし。どんな話をされるんだろう、と見当のつけようもないことを考えながら後に続いた。


 イヅナは足早に廊下を進み、階段を降り、渡り廊下を通り、再び階段を登り、体育館の二階にある小部屋で足を止めた。少人数でのクラブ活動や、グループワークなどで数人のチーム分けがされたりする時に使われる部屋で、小さいとはいっても基本的に物が無いので教室よりも広々した感じがする。三年間この学校に通っていても両手の指で数えられる程度しか入ったことがない場所だ。


「ま、この辺でいいかな」


「この辺でって、考えうる限り一番教室から遠いような」


「その方がいいでしょ?」


 そう言われては頷かざるをえない。教室から遠い方が、クラスメイトの目が届きにくい方がいいに決まっていた。


「それで、何の用事?」


「そうだね、改めてそう言われると、なんて言ったらいいのか迷うな」


 自分から声をかけてきた割に、イヅナは眉を八の字にして本当に困っている様子だ。


「なんて言ったらっていうか、どこから話せばっていうか」


 などとしばらく迷うような躊躇うような様子でもごもご言っていたイヅナは、やがて「よし」と頷いて私の方に向き直った。


「悪いんだけど、できればまずあなたに話を聞きたい。わたしの話はそれから、ってことにしたいんだけど、どうかな?」


「私の話って?」


「昨日教室に来ていた後輩の子についてなんだけど」


 全身が強張るのを感じた。私のことではなく、飛鳥のこと。それは今の私にとって何よりも触れてほしくないことであり、私自身でさえ考えたくないことだった。


 そんな私の緊張を知ってか知らずか、イヅナは特に身構えた様子もなく、片足体重で立ったまま相変わらず微妙に眠そうな目でこっちを見ている。


「別に、なんでもないよ。ちょっと勉強見てあげてた子だけど、別に友達とか、そういうのじゃないし」


「ほんとに?」


「……何を疑ってるの?」


「んんー、何だろうなぁ」


 自分で疑惑を向けておきながら、イヅナはやっぱりハッキリと答えない。隠している風でもなくて、やっぱり彼女自身、何か話さなきゃいけない、聞かなきゃいけないと思いながら、その具体的な疑問が像を結んでいないみたいだった。


「例えば、二人が付き合ってるのかな、とか。ちょっと思ったりした、かも」


「はぁ?」


 あまりに突拍子のない想像に思わず全身の力が抜けそうになる。


「つ、付き合うって私と飛鳥が? なんで?」


「友達には見えなかったけど、友達未満の人のために、あんな顔するっていうのは変な感じがしたから」


 女の子同士なんだけど、という当たり前の前提をすっ飛ばしてそんなところに疑問を持ったのかと驚きながら、同時になんだか自分の中にあるもやもやが言葉になったみたいな、変な納得もあった。


 私と飛鳥の関係は、なんだったのだろう。


 単なる先輩と後輩? それにしては接点が局所的過ぎる。

 先生と生徒? 正しいけど、それだけじゃなかったから昨日の事があるわけだし。

 友達? それにはお互い知らないことが多すぎる。

 恋人? もちろん違う。そんなこと考えもしなかったし、飛鳥もそうだろう。


「わかんない」


 本音だった。私と飛鳥の間を繋いでいたものは一体何だったのか。そもそも私達を繋いでいた何かなんて本当にあったのだろうか。私は飛鳥に、自分の焦燥を埋めてもらおうとして彼女を利用していたに過ぎないのに。飛鳥が私に何を求めていたのか、ついぞわからないままだったというのに。


「そっか。じゃあ、少なくともあなたは「そう」じゃなかったわけか」


「そうって」


「あの子を好きだったわけじゃないんだ、ってこと」


 まただ。喉がひくひくと震える。まるで何か言うべきことを飲み込んでいるように。飛鳥と関わるようになってからこの感覚は頻繁に襲ってくる。もしかしたらそのことにさえ、私と飛鳥の間の何かが関わっているのかもしれないけど。


「……どっちみち、もう関係ないでしょ」


 たとえ私たちの間に何かがあったとしても、それはもう何の意味もない。私は昨日の教室で飛鳥をハッキリと拒絶してしまったのだから。


 してしまった、のか、私は。自分の中に自然に浮かんできたその言葉に、思いの外自分がショックを受けていたことを思い知る。ショックを受けている、なんて。自分から突き放したくせに、まるで私が拒絶されたみたいだけど、それが私の気持ちだ。


「じゃあ今度はわたしの話なんだけど、わたしね、いま好きな人がいるの」


「え? あ、うん。うん?」


 唐突な話題転換に戸惑う。私の話を聞いてから自分の話をするとは言ってたけど、話ってそういうこと?


「いや、好きな人っていうか、うーん、好きなのかな、どうなのかなーって感じなんだけど」


「はぁ」


 間の抜けた相槌を打つことしか出来ない。ほとんど話したこともないのに、いきなり恋愛相談を始められても対処に困る。私と飛鳥の関係が何でもないなら、私とイヅナはもっと何でもないはずなんだけど。急にそんな打ち明け話をする中じゃないよね? ないはず、うん。


 でもイヅナはそんなことを気にする風でもなく、いや、気恥ずかしそうにちょっと目を逸らしてはいたけど、でも口ごもったりせずに続きを口にした。


「女の人、なんだよね」


 うっすらと頬に朱が差していた。どうなのかな、なんて言っていたけれど、その表情はどう見ても恋をしている。恋愛なんて、そんなものにかまけているくらいなら勉強しろよと思っている私ですらドキリと胸が震えるほどに、どこか遠くへ向けられた視線も、薄く微笑んだ口元も、全てが「恋をしている」と語っていた。


「でも、同性で、年の差もあって。告白とか以前に、自分の気持ちが恋なのかどうかもよくわからなくって。他の誰かを好きになったこともないし。だから、もしあなたたちが付き合ってるんだったら、話を聞いてみたいな、って思ったんだけど」


 違ったならごめんね、とイヅナは苦笑いする。


 その表情に、昨日の別れ際に見た飛鳥を思い出す。ざまぁみろと嗤った私と、そんな顔をしないでと願った私。どちらも私なら、どうして私はその片方から目を背けていたのだろう。


 寂しそうに手を伸ばした飛鳥を嘲笑ったのが彼女に嫉妬した私なら、その手を振り払うことに痛みを覚えた私は何だったのか。


 一度気づいてしまえば驚くほど簡単なことじゃないか。


「でも、あのさ、お節介かもしれないけど、あなたさえよかったらもう一度あの子と話してあげて欲しいな。昨日のあの子は、すごく必死に見えたから」


「……うん、そうだね。私も、飛鳥とちゃんと話したい」


 私は飛鳥に恋をしていたわけじゃない。でも、この気持ちが恋じゃないからって、このまま無かったことにはしていいはずがなかったんだ。


 恋をしているとイヅナは微笑んだ。


 私はそんな彼女を見て飛鳥に会いたくなった。イヅナが恋焦がれる誰かに向けるその気持ちに近いものを私も持っていて、そしてそれは、飛鳥に向けられているんだと思うから。


「ねぇ、頑張ってね」


「ん?」


 急な私の応援にイヅナは首を傾げる。


「私も頑張ってみるから」


 許してもらえないかもしれない。嫌われるかも、いやもう既に嫌われてしまったかもしれない。それでも私はもう一度飛鳥と話したいと思うし、そのために頑張ることにした。だから、そのきっかけをくれたイヅナも、頑張って欲しいと思う。


「……ん、頑張る。頑張れ」


 短い応答と、声援を受けて、私は多分このイヅナというクラスメイトとは親しくなれそうだと思った。

 もちろん飛鳥の次に、だけど。

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