5.
十一月も半分が過ぎた頃、突然半日時間が空くことになった。
市内の学校教員の会合とかなんとかで、午前授業となったのだ。もちろん事前に告知はされていたけど、私はぼんやりと聞き流していたみたいで当日になってそのことに気づいた。
時間が空いた、と言ってもどうせその時間は勉強に充てるわけだから、することがなくて困る、なんてことはないのだけど、問題は勉強する場所だった。
今日は授業終了と同時に完全下校なので図書室が使えない。他の候補は自宅や市立図書館だけど、私は枕が変わると寝付けないタイプだった。つまり環境が変わると慣れるまで集中もできないってこと。家だと惰眠の誘惑から逃れられないからわざわざ学校で勉強していたのだし、受験が迫ってきたこんな時期に、市立図書館のカビ臭い緊張感に慣れる訓練をしたって仕方がない。
気は乗らないけれど、結局自宅というのがベターな選択肢だろう。誘惑はあるにしても、十年以上暮らした部屋なら気もそぞろで集中できない、なんてことはないだろうし。
「んー、息抜きにカラオケでも行こうか」
「いんじゃん。俺も久々に行きたいわ」
「なにカラオケ? ウチらも行っていい」
「おー」
授業から解放された教室でクラスメイトたちのそんな声が飛び交う。カラオケ、なるほど、この時期そんな場所へ行っている余裕があるなんて羨ましいじゃないか。
賑やかなグループに多少のやっかみは含むものの、羨ましい、という感情の大部分は素直な私の気持ちだった。
私なんて刻一刻と迫ってくる受験、もっと言えば選択と競争の足音に怯えて、ほとんど平静を保つために勉強していると言っていい状態だ。恐怖とも、恐慌とも呼べてしまいそうな精神状態から目を逸らすために勉強しているのだから、カラオケに行くなんて考えるのもおぞましい。そんな能天気な空間に足を踏み入れてしまったら、いまの私は何をしでかすかわかったものじゃない。小学校の時に習った合唱曲だけをひたすらメドレーで歌いだして白い目で見られて死にたくなるとか、そんな予感がする。
「明日香ちゃーん、カラオケ行くぅ? 行くでしょぉ?」
「来るわけないじゃん、やめときなって」
「そーそー、明日香ちゃんはお勉強以外なんもできないしー?」
私への質問に私以外の誰かが答える。ここ半年くらいで、すっかり普通になってしまったそれは多分にやっかみを含んだものではあったけど、的を射てもいる。
猫なで声で私に、というよりはクラス中に向かって話し出すのは派手な外見の女子たち。品はないけど、可愛いとは思う。少なくとも私よりはずっと自分を飾ることに懸命で、クソみたいな性格は大嫌いだけど、中学生の女の子としては私よりずっと正しいんだろうな、と冷静なフリで煮えくり返るはらわたを冷ます。
目を大きく、口を小さく見せるために必死のメイク。それだけ、されど私はそのそれだけが苦手で、敬遠しているから、あんなクソどもにも劣っているわけで。
ああして馬鹿にされるくらいなら、いじめとしては軽い部類だろう。客観的には嫌がらせの域を出ないかもしれない。ヘンに言い返したりして、嫌がらせがもっと直接的ないじめのレベルに発展するのはゴメンだ。こういう手合は無視してさっさと立ち去るに限る。なにも今日が初めてというわけではないのだし、とさっさと荷物をまとめて席を立つ。
逃げるように(実際に逃げ出しているのだけど)立ち去る私の後ろから、きゃらきゃらと笑い声が聞こえた。それもいつものことだ。
私の小賢しい頭にはいくらでも言い訳は浮かんでくる。彼女たちの言葉は的を射ているから、彼女たちは私よりも女子中学生として正しいから、言い返して事を大きくしたくないから。全部が本心で、でも全部が言い訳だ。
「謝ってください」
だから、その声が聞こえた時、私は一瞬、それが聞き覚えのある、自分と関わりのある人間の声だと気づけなかった。
賑やかだった教室が水を打ったように静まり返る。緊張感がなみなみと注がれたコップのように、誰もが身動きをして中身こぼれだすのを怖がるような沈黙だった。
「誰?」
疑問符よりも敵意が前に出た声で、私を口撃した女子の一人が声の主に尋ねた。
「明日香先輩の後輩です」
ならここにいる全員の後輩だろう、というツッコミを入れる人は現れない。ただ教室にいる全員が部活もないのに上下ジャージ姿で現れた後輩女子を前に自分が次に取るべき行動がわからずにいた。何人か飛鳥を見て目を見開いてまごついているのは陸上部員だろうか。
「先輩に謝ってください。先輩はお勉強以外なにもできなくなんてないです」
後輩女子――教室の戸口に立った飛鳥は見たことのない険しい表情で私の肩越しに女子の一団を睨みつけながら、こちらも劣らず攻撃的な声でそう言った。
「謝る必要とかないでしょ? ウチらほんとのことしか言ってないし」
「だから、それは間違いです。先輩は勉強するだけじゃなくて教えるのも上手いし、勉強以外のことだって、あなた達よりいっぱい考えてます」
「はん、頭でっかちってことじゃん? そんなの一緒でしょ、ねぇ明日香ちゃーん?」
「先輩をそんな風に呼ぶな!」
びっ、くり、した。
飛鳥が怒鳴った。飛鳥がキレた。キレられた女子たちもびくっと肩を揺らしたけど、何より間に挟まれた私が一番びっくりしていた。
私の中で飛鳥は陸上以外では能天気で緊張感に欠けた後輩で、その陸上だって真剣でこそあれ、誰かに多少口出しされた程度で怒るような子には見えなかった。
その飛鳥が、誰の目にも明らかなほどハッキリと、怒っている。それもどういうわけか、私のことで。
状況を分析する頭に、心の方が追いつかない。何が起きているか理解しているのに、目の前の出来事の意味がわからない。
飛鳥は、いったい、どうして、なにに、こんなに、怒ってる――?
「つか、さ。後輩ちゃん? あんたが怒るのって変じゃない? 怒るなら明日香ちゃんっしょ」
飛鳥の剣幕に多少気圧されつつも、自分のほうが先輩で、かつ仲間もいるという状況がそうさせるのか、件の女子は私への攻撃を緩めない。やめてほしい、私を矢面に立たせないで欲しい、これ以上飛鳥の前で、私を。
「悪いことをしたら謝るのが普通です。さっきのは明らかに明日香先輩の悪口でした。謝るのは当たり前です」
「うっとーしーな。あんたに関係ないだろ。元はと言えばこいつがガリ勉なのがいけないんじゃん」
「また悪口ですか! これ以上先輩を悪く言うなら私が――」
「――もうやめて飛鳥!」
ほとんど反射的に私が止めたのは飛鳥の方だった。
「せん、ぱい?」
弁護していた相手に止められるとは思っていなかったのだろう。飛鳥はさっきまでの怒り狂った様子から一転して捨てられた子猫みたいに心細げな顔をする。
ああ、違う。そんな顔をさせたいわけじゃない。
いい気味だ、私なんかに関わろうとするからそうなるんだ。
立ち向かってくれて、嬉しかった。
あなたが守るほどの価値がない私なんかに、構うべきじゃないよ。
相反するそれらの気持ちを無理やり飲み込んだ。言いたいことを飲み込むなんて、いつものことなのに、まるで本当に何かを無理に嚥下したように喉が引きつった。
私はクラスメイトに背を向けて戸口へ向かう。
「せんぱ」
すれ違い際に伸ばされた飛鳥の手を払い除けて、飛鳥にだけ聞こえるように言った。
「これ以上、私を惨めにしないで」
返事は待たない。聞きたくもない。私はさっさと昇降口へ向かった。
飛鳥は、追いかけてこなかった。
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