4.

 十一月に入っても、飛鳥は変わらず図書室を訪れていた。憂鬱と優越感とに挟まれながら、私も変わらずに毎日通っている。


 飛鳥の成績は意外なことに少しだけ改善していた。本当に少しだけだし、元がひどかったので言うなれば二十点が三十点になった程度だが、それでも前進はしているのだろう。まぁ、喋っているところを見てると、地頭が悪いタイプにも見えない。やる気が無いのと出来ないのは同じではないのだと、こんなところでも違いを見せつけられた私としては、ひどく不愉快だった。


 勉強を教えながら、教え子の成績がちょっと伸びただけで不愉快に感じるなんて、私は何て面倒でアホなことをしているんだ、と思わないでもない。


 一方の飛鳥は点数の上がった英語と数学の小テストを手にしてご機嫌だった。


「さすが先輩ですね! 教えてもらった分だけ前進できるのは先生がいいから、ですよね?」


「そこで同意を求められてもね。別に、何かをちゃんと教えたわけでもないし」


「ごけんそんをー」


 謙遜、という言葉を理解して使っているのか怪しい発音だった。実際は謙遜などではなく、教え子の成長を喜ぶ気になれない器の小さな先輩というだけの私と、どっちもどっちか。何が、どっちもどっちなのか、と言われたらよくわからないけど。


「…………」


 私が自分の参考書から顔をあげると、なぜか飛鳥がじっとこっちを見ていた。


「なにさ?」


「勉強してる先輩の顔、いいなぁって」


「……はぁ?」


「あっ、やっ、ちが、わないですけど、今のは別にそういうのじゃなくてですね!」


「いや言ってる意味もわからなければそこで慌てる意味もわかんないんだけど」


 なんだ、いいなぁって。貶されたわけではないと思うけど、別に褒められているようにも感じない。意図が汲み取れないので、もちろん飛鳥があわあわと手をばたつかせる意味もわからない。


「明日香先輩って、鈍いとこありますよね……」


「人付き合いのことについてなら否定しないかな。そういうのを察しろっていうのは、察して欲しい側のワガママだと思うけど」


 誰も私のことを察してくれないし、という恨み言はもちろん言わない。私自身がこうして本音を引っ込めるタイプだからこそ、言わなければ伝わらないというのはよくわかっているつもりだ。言わない方が、知られない方がいい気持ちなんてたくさんあって、言葉にしないのにそれが筒抜けだなんて考えただけでぞっとする。


 嘘をつくよりも本音を口にしない方が得だと、私は思っている。沈黙は美徳、というやつだ。なんとも日本人らしいじゃないか、私。


「それはつまり、こう、思うことがあるならハッキリ言え、みたいな?」


「言いたいことがあるなら、かな。思ってることを全部言えなんて言わないけどさ、言わなきゃ伝わらないってのは要するに伝えたいのに言わない方が悪いってこと。人の考えなんて全部読めるわけがないんだし」


 まぁ、それが厄介なこともあるけど。例えば今の私とかね。結局飛鳥が私に何を求めているのか、二ヶ月一緒に勉強していてもちっとも見えてこなかった。


 でもそれでいい。不可思議ではあるけど、無理を押してまで私はそれを知りたいわけじゃない。私が飛鳥に求めるのは、間違いなく私より価値のある青春を送っている同じ名前の後輩に、私が一点でも勝っているのだと思わせてくれること。それ以上でも以下でもなく、その要件さえ満たしてくれるなら彼女が私に対し何をどう思っていようと知ったことじゃない。


 私は多分、飛鳥が私に抱いているものほど飛鳥に興味はないんだと思う。私にとって大事なのは飛鳥が私より優れているという部分で、そこに同じ名前だの、まるで正反対の見た目や性格だのってものがくっついていたからちょうどいいなと思うだけ。


「……じゃあ、先輩」


「ん?」


「ちょっと成績が良くなった私にご褒美をください」


 私がイエスともノーとも言う前から嬉しそうな顔をしている。もちろん私は心底嫌そうな顔をした。


「なんで私が。むしろあんたの成績が上がったなら私がお礼を貰ってもいいくらいだと思うけど?」


「あ、じゃあそれで。勉強を教えてもらったお礼がしたいです!」


「なんだよじゃあって。感謝の欠片も無さそうだしやだよ」


「そんなこと言わずに! 奢りますから、ご飯とか、えっと、ご飯とか!」


 食事を奢る以外にお礼する方法がないのだろうか。物を贈るとか、ああ、いや、だめだ、ナシ、それはナシだ。この子と私は互いに何か贈るような関係じゃないはずだ。いままではもちろん、これからもそうだ。


「別に、お礼なんていらないよ。何もしてないし」


「いやいや! これはほら、私の、気持ちですから! ね?」


「気持ちだけ受け取っとく」


 私は投げやりにそう言って、さっさと自分の問題集に集中することにした。飛鳥はしばらくやいのやいのと一人で騒いでいたが、司書の先生に辞書の角で後頭部をぶっ叩かれてすごすごと勉強に戻った。


 それでいい。私と飛鳥の関係は、この図書室から持ち出すようなものじゃない。外で一緒に食事なんて御免こうむる。そんなことをすれば、私は出来の良い飛鳥の隣で自分の惨めさに耐えられなくなるだろうから。

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