3.

 九月下旬といえば我が校では定期考査の直後にあたり、つまりは自分の成績がハッキリと告知されて、勉強への意識が高まる時期だ。だから私は始めのうち、飛鳥は自分の成績が学年で下から数えた方が早いことに危機感を持って、勉強をしなくてはと思い立ったんだと思っていた。


 しかしどうもそうではないらしい、と気づくのにそう時間がかからなかったのは良かったのか、悪かったのか。


 最初の数日こそ真面目な顔でふんふん頷きながら、私の説明をノートにメモしていた飛鳥だが、その真面目さは結局一週間と保たなかった。三日目にはやたらと勉強とは無関係な雑談が増え始め、五日目ともなればさっさと勉強を切り上げて遊びに行きたいと言い出す始末だ。


 遊びに行きたいのなら勝手にどうぞ、と私が言えば「え、もちろん先輩も一緒に行くんですよ?」と真顔で言い出すのだ。本当にコイツは、受験生をなんだと思っているんだろうか。


 もちろん遊びの誘いは丁重に、そして完膚なきまでに断ったのだが、その後も飛鳥はときどき勉強会のあとに遊びに行こうと誘ってくる。私の言葉など気にしていないのか、よっぽど私を何処かへ連れていきたいのか。なんとなくだけど、前者な気がした。飛鳥は図書室へ通う私にくっついてくる割に、私の言葉には頓着しない。


 そんな調子で一ヶ月、平日の放課後はほとんど毎日欠かさず、私は飛鳥を伴った非常に非効率的な学習時間を過ごしていたわけである。


 といっても私と彼女が共有する時間というのは日に一時間もあれば長い方だった。飛鳥にとっては勉強よりも所属する陸上部の活動に割く時間のほうが数倍重要だったからだ。


 うちの学校の部活動は基本的に十八時前には終了することになっている。で、最終下校時刻がそこから三十分後。飛鳥は初日に私を待っていた(本人がそう言っていた。私が図書室に通っていると知って待ち伏せていたらしい)時以降は、部活を終えるなり着替えもそこそこに図書室にやってくるようになっていた。


 いくら継続は力といっても、毎日雑談混じりに三十分そこそこ勉強した程度で飛鳥の絶望的な学力がどうにかなるとは私には思えなかったけど。


 というかそれ以前に、そもそも飛鳥が勉強しようとすること自体がおかしい。


「よくこんな点数で平気な顔してられるね……」


「走る方が大事ですからー」


 返却された定期考査の答案。飛鳥の各科目の点数を確認して呆れる私に、飛鳥は実にケロッとした様子でそう返してきたのだった。見栄や建前や意地の類であるはずもなく、その澄み切った迷いのない瞳が本気の本気で彼女が自分の成績に何の危機感も抱いていないことをこれ以上ないほど物語っていた。


 仮に私が同じくらいの点数を取ったら発狂ものなんだけど、飛鳥の場合は陸上のほうが大事というのもあながちおかしな話ではない。


 私は飛鳥のことを全校集会で表彰されてたな、という印象だけで記憶していたわけだけど、興味のない私でも覚えているくらいたびたび表彰されていたのは、どうやら個人競技の陸上という世界で、彼女がなかなかに突出した成績を収めているからだったみたい。


 なにより本人が「勉強してる暇があったら走った方が自分のためになる」と断言するくらいだ。陸上バカという言葉がこれほど相応しいヤツも珍しい。それが結果に結びついている以上、簡単に否定もできないのが腹立たしいところだ。


「あんたって、進学は推薦とか狙ってるわけ?」


「そうですねー。先生からも十分狙えるし、いまさら勉強しても遅いから陸上に集中しろって言われてますから」


 随分無責任なことを言う教師もいたものである。陸上部の顧問をしている先生とは特に接点がないけど、教員の立場でそんなこと言っていいのだろうか。


「でも、明日香先輩と一緒にお勉強するのは、好きですよ」


「……あ、そ」


 ほんとーに、腹立たしい。


 何のかんの言ってみたところで、飛鳥は私よりもずっと大きな才能を持って、大きな力を持って、大きな価値を持っている。そしてそれを、周囲に認められているし、自ら誇っている。


 なんて、羨ましい。


 私には自ら誇れるものなど何一つない。学年一と言われる成績だって、うちの学校ではという話で、全国レベルでは決して大した数字じゃない。


 それに飛鳥にとって走ることがもっと上に行くための努力だとしたら、私にとっての勉強は今の場所に縋り付くために必要な義務だった。私には向上心というものがまるでない。上を目指す余裕がない。


 努力できるのも才能、だなんて、最低の逃げの言葉だと思うけれど。


 飛鳥を見ているとそう思わされるばかりだ。彼女は自分の得意な陸上という部分を伸ばすために学力を切り捨てた。そして一つのことに邁進している。ちょっとばかし要領が良くて、勉強せずとも成績が良かったことに安堵して、いざ受験という段になって襲ってきた不安から逃れようとがむしゃらに勉強する私とは最初から努力の姿勢が違いすぎる。


「あ、先輩。ここ教えてください、ここ」


「あんた、自分でちょっとは考えたんでしょうね」


「もちろんもちろん。で、ここの答え何ですか?」


「絶対考えてないでしょ……」


 それでも私はこうして勉強会を続ける。同じ名前で何もかも私と違う後輩に、たった一つ負けないものを持っている、その醜い誇りを守るために。

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