2.
飛鳥と出会った一ヶ月前。声をかけたのは自分でも意外なことに私の方だった。
「あの、邪魔なんだけど。どいてくれない?」
図書室の扉の前をうろうろしていた飛鳥に、中に入りたかった私はそう声をかけた。
我が校の図書室は普通教室のように廊下に横っ腹を向けて接しているのではなく、一階の廊下の突き当りに両開きの大きな扉が一つくっついている形だ。すぐ横には階段があり、上の階の同じ位置には家庭科室や音楽室といった大きめの特別教室が配置されている。そんな構造なので入り口は一つしかなく、その前をうろうろと行き来されていては声をかけざるを得なかった。
「あ、ごめんなさ――」
慌てて道を譲ろうとした飛鳥は、私の顔を見るなりその場で固まってしまった。無視して通り過ぎてしまえばよかったのだけど、あまりにまんまるに目を見開いて私を見るものだから私も思わず足を止めたまま見返してしまった。
「明日香先輩、ですよね?」
驚いた。私の方はうっすらと彼女を知っていた(部活動か何かで表彰されている姿を、全校集会で何度か見た覚えがあった)けれど、名前までは知らなかったし、定期考査の順位を必死に確認する同級生ならともかく、学年の違う、それも明らかに体育会系の生徒に私の名前を知られるような覚えは全く無かったからだ。
「ちが……わない、けど」
ほとんど反射的に否定しそうになって、強引に言葉を軌道修正したら喉がぎちっと引きつったみたいな感じがした。
「やっと会えました。私ずっと探してたんですよ!」
「え、と。探してたって、何を?」
「先輩をです」
「誰先輩?」
「明日香先輩です」
どうやら私のことっぽい。アスカ、なんてそう珍しい名前ではないから別人を探しているか、誰かと勘違いしているのかと疑ってみたけど、名前ではなく私の顔を見て固まっていたので、私を探していた、ということで間違いないみたい。
「……私に何の用?」
本音を言えばこの時点で既に、私はその場から逃げ出したくてたまらなくなっていた。元々人付き合いが得意な方じゃなかったし、体育会系と呼ばれる人たちは輪をかけて苦手だった。図書室の前だと言うのに、半袖にスパッツ姿というのはどう見てもソッチ系の生徒だ。積極的に関わりたくはないし、消極的にも関わりたくない。
「あぇ? えっと、用事は、えー……」
探していた、と勢い込んで言った割に次の言葉が出るまで随分間があった。しかも結局出てきたのはこっちの質問とは関係のない言葉で。
「せ、先輩は図書室に用事ですか?」
なぜかほとんど同じ質問をそのまま返してきた。
「用事というか、まぁ、勉強しに来たんだけど」
「勉強! いいですね勉強! 大事ですよね!」
すごく前のめりに同意される。私は受験生だからという、ある意味これも消極的な理由で勉強をしているだけなので、いいですね、と言われてもやっぱり反応に困った。
「…………あの!」
「いちいち大声を出さなくても聞こえてるから」
「ご、ごめんなさい!」
謝る声も当然のように大きい。こういうところがまた、この系統の生徒の苦手なところだ。大きい声は苦手だ。出すのも、出されるのも。
「とにかく用がないなら、私は図書室で勉強したいから。これで――」
「待ってください、その……べ、勉強! 勉強を、教えて、くださ、ぃ」
言いながら受験を控えた三年生に頼むことではないと気づいたのか、途中から視線を泳がせて声も小さくなっていく。非常識な頼みなのは間違いない。
「勉強を教えるって、それは先輩じゃなく先生の役目だと思うけど」
「それは、あー、ほら、友達と勉強会とか、わからないところを教え合ったりとか、そういう感じで。別に授業をして欲しいわけじゃなくて、ですね」
「友達? 教え合う? 私はあんたの名前も知らないし、受験前に二年生に教えを請うほど成績は悪くないつもりだけど?」
つっけんどんな言い方だったのは認めよう。先輩がそういう態度をとるのはなんかこう、パワハラっぽい。とはいえ飛鳥の依頼が明らかに不自然だったのは確かだし、私としてはなるべく後腐れない、バッサリした感じで断ってしまいたかったというのも本音だった。
「あ、私アスカです。飛ぶ鳥の飛鳥。字は違うけど先輩と同じ名前です!」
「ああ……そう」
この流れで名乗るのは、正しいのか正しくないのか。とにかく、なんとなく見覚えのある私とは違うタイプらしい後輩が、飛鳥という名前の厄介な後輩へと改められた瞬間だった。
「これで名前は知ってますよね?」
「問題の根本はそこじゃないんだけどなぁ」
二人きりで何かをするには、私と飛鳥の間には積み上げてきたものが無さすぎる。そこまでの関係じゃないどころか、およそ関係と呼べるものがまだ何もない。
が、しかしだ。この時私は思ってしまった。そんなある意味当たり前の前提を飛び越えて、飛鳥が私を頼ろうとする理由はなんだろう、と。
その興味と期待が、次の言葉につなげてしまった。
「じゃあ、なんで私なのか教えてくれる? 勉強会だったら、クラスメイトとすればいいんじゃない?」
「それ、は……」
飛鳥はしばらく迷うように視線をうろつかせる。何かを言いかけては口を閉じるのを繰り返すところを見るに、理由はあるけど言っていいのか迷っている風だった。
結局、たっぷり一分ほどまごまごした後、観念したように飛鳥は言った。
「先輩は、覚えてないと思うんですけど」
「私?」
予想外の切り出し方にこっちも戸惑う。私がなんかした、のだろうか。勉強を教わりたくなるようなことを? 飛鳥に? まったく身に覚えがなかった。
「教え上手、だったので」
「は?」
思わず真顔で聞き返してしまった。
「何か教えたことあったっけ?」
飛鳥と個人的に話したことなんてあっただろうかと頭の中を探ってみても、それらしい記憶は思い当たらない。そもそも人付き合いの希薄な私が、記憶に残ってもない後輩に物を教えるなんて、そんなことをしたとしたら、それはもう私じゃない気さえしてくる。
「去年のこの時期に、図書室で課題を手伝ってもらったんです。明日香先輩に」
「去年? ……悪いけど、誰かと勘違いしてるんじゃないかな」
一年前のこと、それもその後顔を合わせたことのない相手のことでは、似たような誰かと雰囲気だけで勘違いする事はありえるだろう。人の記憶なんて、実は結構いい加減なものだし。
だけど飛鳥は首を横に振った。
「話すのは一年ぶりだけど、先輩のことは知ってた、というか……」
「知ってた?」
「一年前は名前も教えてくれなかったから、探して、見つけて、知ってました」
悪戯を見つかった子供みたいにちらちら私を伺いながら言うものだから、怒ればいいのか感心すればいいのか、それとも無視すればいいのか、よくわからない。
自分の知らないところで自分が誰かに知られている、というのは変な気持ちだった。こそこそ調べられたのは怒ってもいいんだろうけど、なんとなくそんな気にもならない。かといって知られていて嬉しいかと言われればそんなこともない。
「よく見つけたね」
結局私の口から出たのはそんなことだった。
学年も違う、目立たない生徒である私を下級生が見つけるのは、それなりに大変だったろうな、というのが話を聞いた私の一番素直な感想だった。
「明日香先輩は有名人ですから!」
「……ごめんやっぱり誰かと勘違いしてるよ」
「ええ! だって学年で一番成績がいいから誰でも知ってるって先生が」
先生に聞いたのか。それは、スゴいのか堅実なのか。確かに教師なら目立たない生徒も含めて平等に名前くらい覚えているだろう。私は成績がよくて教室では目立たない人間だからテストを採点する教師の方がクラスメイトよりも私を知っているかもしれない。
ん? だったらやっぱり飛鳥が探していたのは私なのか。常に学年一位とかそういうタイプではないけど、各科目の一位をとった回数を合計すれば多分学年では一番だ。それくらいの微妙な頭の良さだから、それを誇る気にはなれない。
「あのさ、成績がいいのと勉強を教えられるのは違うと思うんだけど」
「でも先輩は教えるの上手でしたし! ね!」
ね! って言われてもな。
「……私に教わりたいの?」
「はい!」
即答なのか。そんなにか。
動機とか目的とか、いろんなものが不透明で、信用するにはあまりにも時間と積み重ねと情報が不足している。普通なら断るのが賢い、というかまともな人なら断るんだろう。
でも私がこの時、戸惑いの陰で確かに喜んでいたことを認めないわけにはいくまい。おかしな話だし、胡散臭い言葉だし、苦手なタイプの人間だし、断って忘れてしまえばそれまでだったろうに。
だけど、それでも、だとしても、というやつだ。
「……まぁ、私に教えられる範囲なら、いいよ」
そう答えてしまったのは、珍しく単なる数字としての成績以外の何かを認められて舞い上がっていたんだと、そういうことなんだと認めるしかなかった。
「やった! よろしくです!」
そう言って快活な印象そのままな勢いのあるお辞儀をする飛鳥を、この時点ではまだ、それほど嫌っていなかったんだろうなと。一ヶ月経った今の私と比較して、そんな風に思うのだった。
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