嫉妬
1.
「先輩っていま、好きな人います?」
「いないし、いたこともないよ。そんなくだらないもの」
即答した私に、質問した飛鳥のほうが面食らったような顔をした。吐き捨てるような言い方になったのはわざとじゃなかったけど、素直な気持ちだから言い直す気にはならない。
「……いないんですかー」
とりあえず、みたいな反応が返ってきた。どうも私の返事は彼女にとってはそれなりに想定外だったらしい。飛鳥の意表をついてやるのは気分がいい。戸惑う彼女と対照的に私の機嫌は少し、ほんの少しだけ上向いた。
「そんな話をしに来たんじゃないでしょ」
「あーい」
気の抜けた返事だった。でも、この子が私に気の抜けた以外の返事をしたことはないから、平常運転でもある。これって私が舐められてるってことだろうか。別に崇めろ畏れよ敬えと言うつもりはないけど、先輩としての威厳は欲しい。
舐められてることよりは、自分には先輩の風格が足りないのか、ということが気になる。足りないだろうな、と納得してしまえるあたりが舐められる原因かもしれない。
「先輩、ここわかんないんですけど」
「ああそこは――」
後輩に勉強を教える。これは先輩っぽいことだと思う。だけど一ヶ月近くこうして勉強に付き合っているのにこの後輩の態度に尊敬が含まれている感じはしない。
十月下旬。制服の衣替えこそ終わっているが、薄着が耐え難いというほどの寒さはまだ訪れていない。クラスメイトの男子の中には、未だに半袖で体育に参加する連中もいる、そのくらいの季節だ。
一年のうちでは過ごしやすい時期だけど、気温の適当さに比べて指先と気分と神経はどうにもささくれがちだった。中三の秋、というのは大抵の人にとってはひどく心休まらない時期だと思う。私もそんな大抵のうちの一人なのは否定できない。
図書室では私の他にも読書ではなく参考書や問題集を広げてシャーペンを走らせている三年生をちらほらと見かける。都会の子たちならいざしらず、小学校からほとんど変わらない顔ぶれのまま中学校に進学した我が校の三年生にとっては初めての受験、初めての進路選択だ。普段と変わらず気楽に過ごす、なんてそんなことできるわけがない。
「――わかった?」
「んー、とりあえず次解いてみます」
「そう。がんばって」
「で、先輩これわかんないんですけど」
「……そのまま次の問題なんだけど」
「そうですけど?」
「いま教えたところと同じなんだけど」
「え、でもここ、たすじゃなくてひくですよ?」
「それくらい自分で考えられるようになりなさい」
「えー、教えて下さいよー。先輩のイジワルー」
答えを全部聞き出そうとするあんたは意地汚いぞ、と言い返すのはやめておいた。口喧嘩になるのは多分、威厳のあることではない。
自分の勉強のために広げた問題集に向き合いながら、対面に座る飛鳥の様子をたまにのぞく。私と違って二年生の飛鳥には、当然だけど進路に対する不安感や緊張はないみたいだ。
飛鳥は私の一つ年下だけど、正直ほとんどの分野で私より優れている。
一番わかりやすいのは見た目。容姿。顔立ちとスタイルってやつで、腹立たしいことに私よりよっぽどキレイな造形をしている。外での運動が生活に染み付いている人間特有の、健康的な日焼け色の肌。ぱっちりした目元にぷくっとやわそうなピンクの唇。少し大きめの鼻も、小奇麗な顔立ちを適度に活動的に見せるだけで、不格好さとは無縁だ。さっぱりと短く切りそろえた男の子みたいな髪型がよく似合う化粧っ気のない顔は、男女問わず気安い印象を与えて接しやすい。
私はといえば、濃い眉毛を隠すために長く伸ばした前髪と、フレームの太い眼鏡で目元の印象を誤魔化していなければとてもじゃないけど毎日学校になんて来られない。化粧っ気がないのは飛鳥と同じだけど、私の場合は必要ないんじゃなくただ苦手なだけ。唇も薄いから表情も薄くて、感情まで薄いと思われがちだった。毎朝鏡で見る自分は、確かに近寄りがたい空気をまとっているなと納得してしまう顔だった。
概ね見た目通りの性格をしている。その点だけは、私と飛鳥の共通した特徴だ。つまり飛鳥は活発を絵に描いたようなカラッとした性格の少女で、私は口数の少ない無愛想なやつってこと。
私が飛鳥に勝てるのは成績くらい。もっとも、こと勉強に関してだけは飛鳥はほとんどの人に勝てないだろうけど。
手元の問題集を見開き分終わらせて、飛鳥の様子を見る。さっきからうーんとかうむむとかそれらしく唸っている割に、握っているシャーペンは問題集の隅っこに落書きしていた。しかもさっき説明した場所から一問たりとも進んでいない。こら、女の子がうんこの絵を描くんじゃありません。
「……はぁ。もう一回説明するから、ちゃんと聞きなよ」
「待ってました!」
「黙って聞け」
調子のいいやつ。いちいち相手をしてやる私もどうかしているな、とついついため息が出た。
私がいくら説明したところで飛鳥は最後の答えしか聞いていないのだから、律儀に何度も解説してあげるのはまったくの無駄、なんだけど。それでもただ答えを教えるのは先輩としてはよろしくない。知識ではなく知恵を授けるのが正しい先輩なのだ。お、これは立派な先輩っぽいかも。
まあ、本当に立派な先輩なら、後輩が自分の力で問題を解けるまで丁寧かつ厳しく、熱血もしくはスパルタに指導するんだろうけど、あいにく私にそこまでの熱意と余裕はない。正直自分の勉強で手一杯なのに、後輩の面倒まで見ていられるかって感じだ。そして飛鳥の方も、私から本気で勉強を教わろうという熱意は感じられないのだった。
じゃあ飛鳥は何を期待して私に会いに来るんだろう。
宿題の答えを聞き出すためじゃないと思う。それが目的なら学年が違う私よりクラスメイトを頼るはずだ。私と違って飛鳥はクラスでも人気者で、宿題を写させてくれる友達なんて掃いて捨てるほどいるのだから。
「――で、これが4になるわけ。わかった?」
「えっと、つまり答えは4ですね!」
「うん、わかってないね」
私にどうしろというのか。教わる気がないのに教えてと言ってくる生徒への対処法を担任に聞いてみるべきかもしれない。
私は諦めの溜息をつくと自分の問題集を閉じ、机を回り込んで飛鳥の隣の椅子に座った。
「今日は手伝ってあげるから、ちゃんと終わらせなよ」
「先輩のそういう優しいところ、大好きですよ!」
「うっさい」
これは優しさなんかじゃない、と思う。私が飛鳥に付き合って放課後の勉強時間を共有するのは、もっと別の、どろどろした灰色の感情が理由からだ。
飛鳥が軽々しく私を褒めそやすたび、私は心臓に重りをくくりつけられたような気持ちになる。疲労感にも似た感覚を何度も覚えながら、私は自分の勉強もそこそこにもう一ヶ月も彼女に付き合っている。心臓に重りを増やし続けている。それでも私は飛鳥から離れられない。離れることを怖がっている、と言ってもいい。
この一ヶ月で私が導き出したこの気持の正体は、嫉妬。醜い灰色の感情だ。
卑屈な私の心は安心を求めた。自分にも飛鳥に勝っている部分があることを確かめたがった。少なくとも勉強に関して、私は彼女より優れている。それを証明し続けたいという一心で、私は放課後の勉強会を続けているのだ。
彼女が軽々しい、だけども純粋な言葉で私を褒めるたび、自己嫌悪の棘を心に突き刺しながら。それでも尚、私は自分が優秀だと証明したがっているのだった。
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