いつか恋になって

soldum

プロローグ

 子供の時分、わたしの周りには同世代よりも大人の方が多かった。とりもなおさず、それはわたしに友達というものが少なかったことを意味している。


 別段、それが不幸だったなどと思っているわけではない。それは単なる環境の違いというやつで、いまのわたしがそれなりにやっているように、その頃のわたしがもっと違う環境に置かれていても、また違った「それなり」を見つけていただろうと思う。人生とはそういうもので、わたしとはそういう人間だ。そんな気がする。


 だからそれは幸福とか不幸とか、運がいいとか悪いとか、そういう話ではなくて。

 ただ、そうだった、という事実でしかない。


 とにかくそんな環境で育ったからか、わたしには同世代の友人というのが多くはない。年の離れた友だちが多い、というわけでもないのだけど、子どもよりは大人と話す方が楽だとは感じていた。


 結果論ではあるが、悪くないことだったと思う。


 卵が先か、鶏が先か。環境によるものか、それとも生来の性格なのかはわからないけれど、わたしは多くはない友人と静かに過ごすほうが性に合っていたからだ。


「なーんか、小難しい考え方するんだね」


「……姉さんほどじゃ、ないと思うけど」


「なはは、照れるなー」


「褒めてないよ」


「あたしにとっちゃ褒め言葉なんだよ」


 そう言って姉さん――ミヤギさんはケラケラと軽薄に笑う。非常に腹立たしいことに、この人はわたしより二十以上も年上のくせに、こうして笑うととても可愛い。同性として、プライドに亀裂どころか風穴を空けられる気分だ。


「イヅナはそういう変に小難しいトコ、昔から変わんないね」


「誰の影響だと思ってるの……」


「んー、お友達?」


「……半分正解」


「お、やったぜ」


 ガッツポーズをする姉さんに、わたしは何度目ともわからないため息で応じた。


 埃っぽく年中薄暗いこの部屋で、ぐずぐずの生活リズムに埋もれて暮らしているとは思えないほど、姉さんの緩い笑顔は清潔だった。部屋を見ればそこに暮らす人間の人となりはわかるものだと言うけれど、姉さんを知らずにこの部屋を見た人は、まさかこの部屋の主がこんな風に気楽にへらへらと笑うとは思うまい。


 四方の壁のうち二面に存在する窓の片方を完全に塞ぐ形で配置された本棚には几帳面に大量の本が詰め込まれ、もう一面の窓には常に遮光カーテンが引かれている。そのためこの部屋には自然の光がほとんど入らず、外の天気も日の傾きも窺い知ることが出来ない。おまけに部屋の主が座る椅子とテーブル、その上に鎮座するパソコンを除けば部屋の至る所に本棚から溢れた本が積み上がり、ほとんど足の踏み場のない有様だ。住人である姉さんが滅多に掃除もしないので、長く読まれていない本の中には分厚いホコリを被っているものや、本の山同士が蜘蛛の巣で繋がっているものまである。以前はわたしがよく掃除をしていたものだけど、大学生になってからはその頻度も減って、それに応じて部屋も汚れていった。いかに姉さんが室内環境に関心が無いかが窺い知れるというものだ。


 高級、というほどではないにせよ、駅にほど近い立地や小奇麗なエントランスから察するに決して安い部屋では無いはずだが、この人に住まれてはもうそんな価値などあって無きが如しだ。


 前に一度「陰気な部屋だ」とここの悪口を言ったら、姉さんは悪びれないどころか得意げな様子で「そこがいいんじゃない」と笑った。自分がそれにどう返したのかは覚えていないけど、姉さんが続けた言葉は覚えている。陰気な部屋に住む彼女は「あたしはお日さまの下が大嫌いな、陰気な女だもの」と、お日さまみたいな屈託の無さで言うのだった。


 当時のわたしは、というか今でも、姉さんがふとした拍子に口にするそういう言葉の数々が、うまく咀嚼できない。わかるような、わからないような。決してするりと喉を通らず、何かが喉に引っかかるような理解しか出来ない自分がもどかしいし、そんな言い方を好む姉さんを恨めしく思ったりもする。


 姉さんの言葉は一見すると適当だったり、支離滅裂だったりするけど、彼女は人一倍言葉にはこだわりがある人だから、適当なことを言っていても不適当な言葉は使わない。きっと何か、敢えておかしな言い回しをする意味があるんだろう。その意味を知りたいと思わせるのが、姉さんの一番ズルいところ。そんな風に含みを持たせて煙にまくところも含めて、わたしの目に彼女という存在はひどく魅力的に映るのだった。


「そんなに小難しく人間関係を考えるなんて、疲れない?」


「その言葉、そっくりそのままお返ししますー」


「あたしはいいんだよ。考えたって、実行しないから」


 ほら、まただ。部屋に一つしか無い椅子に座ったままなぜか楽しそうに笑って、交友関係の薄弱さを曝け出す。さも、それが至極愉快な話題であるかのように。


 そんな風に常識とか価値観とか感情とか、いつも何かが緩んでいそうな姉さんこそ、わたしにしてみたら小難しい人だった。


 イヅナって、普段どんなこと考えて生きてるの?


 久しぶりに部屋を訪ねてみれば開口一番、それが姉さんからわたしへの質問だった。

 多少面食らいはしたものの、彼女の話が唐突なのは今に始まったことではないから、そう驚くほどのことでもない。とりあえず、学生の身には大きな比重を占める友達というものについて、わたしの考えを話し始めた矢先に「小難しい」ときたものだ。そもそも小難しい質問をしてきたのは姉さんの方なのに。


 わたしがこんな風にやたらと回りくどくものを考えるようになったのが誰かの影響だとしたら、そんなの姉さんをおいて他にいない。かつてのわたしにとって、姉さんは友達みたいなものだったから友達の影響、というのも半分は正解なのだった。


 姉さん。わたしは彼女をそう呼んでいるけれど、わたしと彼女は姉妹というわけではなかった。彼女は母の妹、わたしにとって正しくは叔母にあたる。


 ミヤギ、という変わった名前を持つ彼女は名字みたいな名前をからかわれて育ったためか、名前で呼ばれるのを嫌がる。かといって、わたしが物心ついた頃まだ二十代だった彼女は「叔母さん」と呼ばれるのも嫌がった。それで結局呼び名は姉さんに落ち着き、二十年近く経った今でも変わらずそう呼んでいる。


「あ、そういえばイヅナ!」


「なに?」


「今日のお土産を受け取ってないよ」


 ほれほれ出したまえよ、と姉さんが図々しくもお土産――お菓子を要求する手を突き出す。二十以上離れた姪にお菓子をねだる叔母がいるか、と思ったがわたしには叔母は一人しかいない。そしてその一人がこんななのだから、案外そういう叔母というのもいるのかもしれない。わたし調べでは一分の一、百パーセントの叔母が姪にお菓子をねだっていることになるのだし。


「ないよ」


「へ?」


「今日は何も持ってきてない。大学から直接来たし、わざわざ持ち出すほどのお菓子は家にも無かったし」


「えー、ひどいよ。コンビニで何か買ってきてくれればよかったのに」


「そういうお菓子でいいなら自分で買いに行ってよ」


「いやいや、この場合イヅナが持ってきてくれることの方に意味があるんじゃない?」


「…………、面倒くさいだけでしょ」


「おっとそれは言わない約束だよ」


 ざんねーん、と頬を膨らませておどける姉さんを見ながら、わたしは気づかれないように深呼吸して、加速した鼓動を落ち着かせていた。


 イヅナが持ってきてくれることの方に意味がある。何気ないその言葉には、一瞬でわたしの心臓を暴走させる魔力があった。


 思えば昔からそうだ。いい大人のくせに子供のわたしと目線が一緒みたいに遊んで喧嘩してふくれっ面になる。そんな時はまるで同世代の友達といるみたいで、わたしもすっかり油断しているのだけど、すると姉さんは不意打ちのようにわたしを特別扱いするんだ。


 イヅナのものだから。

 イヅナがくれたから。

 イヅナのためだから。

 イヅナがいい。

 イヅナじゃなきゃやだ。


 それは、まるでわたしが姉さんにとって無二の特別な存在であるかのように錯覚させる魔性の言葉だった。姉さんに求められている。必要とされている。他でもないこの、わたしが。そう思うたびに鼓動が早くなるようになったのはいつの頃だろう。もうはっきりと思い出せないくらい昔から、わたしは姉さんのそんな特別扱いにドキドキさせられていた気がする。


 イヅナだから。わたしだから。

 その言葉の、なんと甘いことか。


 大人の多い環境で育ったわたしにとって、周りの大人たちはわたしより多くのことを、わたしよりも完璧に、わたしよりも軽々とやってのけるスゴい人たちだった。子供と大人なのだから当たり前だけれど、だからといってわたしが嫉妬や劣等感を抱かなかったわけではない。自分の周囲の人間が当たり前にできていることが、自分には出来ない。同級生の友人が少なかった分、わたしは周囲の大人と自分をよく比較しては落ち込んだ。


 そんな中、大人のくせにちっとも大人らしくなかった姉さんはわたしの身近な友達みたいなもので、そんな姉さんがわたしを「イヅナだから」と特別扱いしてくれるのはたまらなく嬉しかった。少なくとも姉さんにとって、わたしは周りのスゴい人たちよりも特別なんだ。そう思わせてくれる姉さんにわたしがくっついて歩いていたのは、当然なのかもしれない。


 気づけばこうして大学生になるまで、わたしは姉さんのあとにくっつくように人生を歩んできた。いまの大学を選んだ時、一人暮らしをするというわたしに渋い顔をした両親を「ちょうど近くに姉さんも住んでるし」と説得したけれど、今にして思えばそれこそがわたしを今の大学に入学させた最大の理由のようにも思えた。


 近くに姉さんが住んでいるから、大丈夫。

 近くに姉さんが住んでいれば、それでいい。


 よく似た建前と本音は、だけどまったく別の気持ちで。わたしはそんな本音を自覚して、そのうえでわざと隠して、姉さんの近くにいる。


 両親には一人暮らしを心配されたけど、そもそも大学のあるこの街は実家から電車一本で簡単にたどり着ける場所だ。住んだことこそ無かったものの、中学生の頃から足繁く姉さんの家に通っていたわたしにしてみれば地元も同然で、通っている大学だって高校生の時には足を伸ばしたことのある地域にあった。


 友達と遊んだ回数より、叔母の家に足を運んだ回数のほうが多い。そんなわたしの青春は、なにかが間違っていたのかもしれないなと、時々自嘲する。多いときには二日に一度のペースで会いに来るわたしに、姉さんが渋い顔をしなかったわけじゃない。


 一度、姉さんに聞かれたことがあった。


「イヅナはあたしといて、楽しいの?」


 わたしは何も答えなかった。楽しいわけではなかった。姉さんといることは、別に愉快ではないし、楽しさでいうなら友達とふざけている方が楽しかったと思う。


 楽しいとか、そういうのじゃなくて。強いて言うならそれは幸せだった。姉さんと二人だけで姉さんの部屋にいる時、わたしの気持ちは安らいで、満たされて、幸福だった。だけどそれをそのまま姉さんに伝える勇気はなくて、かといって「楽しい」と嘘をつくのも嫌で、わたしは黙り込んでしまった。


 わたしの意気地なし。嘘つき。情けない。


 ――気持ち悪い。


 自分の中の自分から次々あびせられる罵声に、じわりと涙が滲んで制服の裾をキツく握った。どうしてわたしは、こんな気持を姉さんに抱いているのだろう。どうしてわたしは、姉さんに恥じるような感情を持ったまま、姉さんに会い続けているのだろう。


 その場で泣き出さないことだけがまだ高校生だったわたしの精一杯のプライドで、わたしは震えながら漏れそうになる嗚咽を必死にこらえた。姉さんにしてみれば、本当に意味がわからなかっただろう。何気ない質問のつもりが、突然黙って泣き出しそうになるなんて、わたしだって傍で見ていたら戸惑うことしかできなかったと思う。


 でも姉さんは、わたしを遠ざけようとはしなかった。


「ま、いいか。いいよね、うん。あたしはイヅナが来てくれるの、嬉しいしね」


 それでいいよね、と言って姉さんはわたしをぎゅっと抱きしめてくれた。わたしよりいくらか背の高い姉さんに包み込まれるような感覚が気恥ずかしくて、わたしは抱きしめ返すことはできなかったけど、せめてわたしが姉さんと離れがたく思っていることだけは伝えようと、姉さんが着ていたセーターの模様をつまむように小さく握り込んだ。姉さんはくすくすと小さく笑って「かわいいとこあるじゃん」と頭を撫でてくれた。


 叔母と姪。事実だけを端的に表してしまえば、わたしたちの間にある「関係」はそれだけのものだ。親子でもないし友人でもないし家族でもないし、まして恋人などであるはずもない。


 だけど、親や友人を差し置いて十年以上もこうして叔母の部屋に通っているわたしと彼女の関係が、世にいう一般的な叔母と姪のそれと同じとも思えなくて、だからきっとわたしは、このちょっとおかしな叔母を他人に紹介する時には言葉に詰まるのだろう。そんな機会は、少なくとも今まで一度もなかったけれど。


「それで、えーっとお菓子、じゃなくて何の話だったっけ?」


「……わたしが何考えて生きてるのか知りたいって、姉さんが」


「ああそうそう、それそれ」


 思い出した、と手を打つ姉さんに溜息がこぼれる。なんだってそんな変なことを気にするんだ。気にするくせに忘れているという矛盾も、姉さんらしい。


「話すのは別にいいけど、理由くらい聞いてもいい? わたしが何を考えてるかなんて、そんなのどうして急に気にしだしたの?」


「急ってわけでもないけどさ。最近、イヅナあんまりここに来なくなったから、うん、そろそろ聞いておこうかなって」


 ぎくり。ついさっき特別扱いされた時とは別の理由で心臓が跳ねる。ここ一年ほど、少しずつ姉さんの家を尋ねる頻度を減らしていた。と言っても基本的に一週間に一度、忙しくとも二週間に一度は会いに来ていたし、姉さんの態度も変わらなかったから気にしていないと思っていたのだけど。


 理由は、姉さんに対する自分の気持ちを、少し落ち着けるべきだと思ったからだ。わたしにとっては大切な気持ちでも、姉さんにとってそうではないのなら、もう少し押さえ込む努力が必要だと思った。わたしももう大学生だ。そういうものに疎いフリを続けるにも限度があるし、そういう話題をこの先永遠に避け続けるわけにもいかない。


 この気持ちをなくせるなんて思っていないけれど、せめて姉さんと一緒にいてもボロが出ないと確信できるまで、毎日のように会うのはやめようと思った、のだけど。


「……そろそろ、っていうのは?」


 大学生になって少しだけズルくなったわたしは、高校生の時のように黙り込むよりも少しだけ話の方向を逸らして逃げることにした。


「そろそろはそろそろだよ。うん、もうそろそろ、そういう時期かなって思ったの。だからちゃんと聞いておきたいなって」


 姉さんの言葉はどこか要領を得ない。意図的にはぐらかされているような気もした。そういう時期、ってなんだろう。親離れならぬ叔母離れ、とか? いやいやそれなら気にするのが遅すぎる。


「よく、わかんないんだけど」


「あはは、だよねぇ。いやうん、あたしとしてもこういう探るようなやり方は好きじゃないんだけどさ。姉さんに頼まれちゃったから、うん」


「母さんに?」


「うん。あとはまぁ、あたしの個人的関心かな」


 母さんに頼まれたという何事かよりも、姉さんの個人的関心の中身が気になってしまうあたりわたしは重症だった。


「ということで、遠回りはやめて直截にいこう」


「何がということでなのかわからないけど、わたしもその方が話しやすいかな」


 だよね、と笑って姉さんは口にしたのだ。事前の宣言通り、あまりにも直裁的な言葉で、それを。


「イヅナ、あんたいま、好きな人っている?」

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