第十三章 精霊の谷

第一話 ミンヤー・ブッカウとチャイマ・タ・ナチャミ

 バイグォ・ハサムの向こうには、大きな山脈がある。その山脈を越えた先に、大きな湖があるらしい。地図によると。

 その湖がどのくらい大きいかと言えば、これも地図によるとの話だけれど、大きなオール・ディエンよりも大きなバイグォ・ハサム、それよりもさらに大きい。そしてバツ印。だから次の目的地はそこにした。


 バイグォ・ハサムを渡る船に乗って、バイグォ・チャーンの反対岸に。その途中で、ルームさんに出会った。

 本当はもっと長い名前らしいけど、最初のハエン・ルームというところしか聞き取れなかった。ルームと呼んで良いらしいので、ルームさんとだけ呼んでいる。

 俺から見るとだいぶ大人に見えるけど、おじさんと呼ぶにはためらわれるような、そんなくらいじゃないかと思ってる。顔立ちから年齢を推し量るのは、相変わらず難しい。

 ルームさんは、バイグォ・ハサムに流れ込む川の一つ──ミンヤー・メナを遡って、山の中にあるミンヤー・ブッカウという場所を越えて、山の向こうに行くのだと思う。

 その行き先のトネム・シャビという名前があの地図の大きな湖のことなのかはわからないけど、頼んで案内を引き受けてもらった。船なら乗っていれば目的地に辿り着けるけど、歩いて目的地に向かうのは大変だから、こうやって誰かと一緒に歩けるのは心強い。

 俺とシルは、言葉は通じないし軽装に見えるし、きっと旅をするには頼りなく見えたんだと思う。実際、その通りではあるんだけど。

 ルームさんは必要そうな荷物の手配もやってくれたし、食べ物の面倒も見てくれている。俺はルームさんに言われるままにコインを差し出しているだけだ。親切な人に会えて、本当に助かったと思った。

 俺とシルは本当に、いろんな人に助けられてばかりだ。


 そんなわけで、まずはミンヤー・ブッカウまで、歩いて旅をした。

 船旅が長かったので、長く歩くのは久し振りだった。前に歩くのにも慣れたと思った覚えはあるんだけど、改めて毎日歩くようになったら自分の想像してた倍くらいは疲れてしまった。

 船や生き物に乗るのと違って、酔わないのは良いことだ。でも、歩き慣れた様子のルームさんからも、疲れ知らずに見えるシルからも、俺はすぐに遅れがちになった。こんなに歩けなかったっけと思うのは情けなくて、夜には疲れた足を放り出して溜息をつく。

 途中の村のような場所で物置のような場所に泊めてもらえることになったのは何日目だったか。


「ユーヤ、気分悪い? わたしが運ぶ?」


 俺の様子を見てシルがそんなことを言い出した。慌てて「大丈夫」とか「自分で歩ける」とか、いろんな言葉を並べたけど、シルは俺の言葉を疑うように、しばらくじっと俺を見ていた。


「本当に駄目なときは言うから」


 そんな約束をして、それで最後にはなんとか諦めてくれた、と思う。

 きっとシルは、本当に俺を抱えて歩くことができてしまうと思う。でも、それこそ情けなさすぎる。せめて歩くくらいは自分でしたい。


 シルの「お世話」は、バイグォ・ハサムにいたときよりも落ち着いてきた。きちんと「これは自分でやりたい」と話して諦めてもらうこともある。説得しきれないこともあるし、このくらいなら良いかと思って何も言わずに受け入れることもある。

 俺がシルのことをやってあげることはまだいろいろとあるし、シルが自分でやるようになったこともあるから、きっとそれで良いんだろうなと思ってる。




 そうやって、長距離を歩くのにも上り坂にもようやく慣れてきた頃に、ミンヤー・ブッカウに辿り着いた。

 道中でルームさんに聞いたところ、ミンヤー・ブッカウという場所にはチャイマ・タ・ナチャミという名前もあるらしい。

 ミンヤーの意味はわからないけど、メヤは川、ブッカウは谷のことだ、多分。ルームさんが地面に描いてくれた絵と半分以上聞き取れなかった説明によると、だけれど。大きく盛り上がったところの隙間──つまりプカウプカウの間がブッカウ、ということだと理解した。

 チャイマというのは、どうやらブッカウと同じ意味らしい。

 ミンヤー・ブッカウ。チャイマ・タ・ナチャミ。口の中で呟いて、もしかしたら言葉が違うのかもしれないなんて、最初に聞いたときに思ったりした。その通りに、チャイマ・タ・ナチャミで聞こえる言葉はバイグォ・ハサムとは違うものだった。


 チャイマ・タ・ナチャミは、入り組んだ細い谷間にあった。

 平らな土地がない。急斜面──ほとんど崖に見える──に挟まれた細い隙間。底に近いところに立って上を見上げれば、細長く切り取られた空が白く見える。

 そんな山の裂け目のような、切り立った壁のようなところに、人が暮らしているというのが不思議だ。

 崖にはたくさんの横穴が掘られていて、そこを家にしているみたいだった。崖の上の方すぎず、下の方でもない辺りに、入り口や明かり取りの窓らしき穴がたくさん並んでいる。

 崖のような急斜面ではあるけれど、上に向かって少しずつ隙間が開いてゆく。その少しずつの隙間が、急斜面の中に道を作っていた。階段が作られていたり、はしごが掛けられていたりして、そこで上下の行き来をしているらしい。

 ルームさんが案内してくれた宿は、崖に並んだ横穴の中では上の方だった。正直、上に行けば行くほど、道を歩くのが怖くなる。

 手すりのようなものはあったり、なかったり。下までの高さはちょっとくらくらするほど高くて、俺はできるだけ崖にくっついて下を覗き込まないように気を遣って歩いた。

 どうやら、ここで何日か過ごすらしい。




 到着したのは夕方で、ルームさんは宿の人に軽い食事を頼んでくれた。それで、その日は部屋でそれらを食べるだけだった。ルームさんは別の部屋。

 パンのようなものはウンムーと呼ぶらしい。丸くて、ぺったりと平ったい。焼きたてなのか、温めたのか、持ち上げるとほかほかとする。それに、トウパという名前の油っぽいもの──多分、バターのようなものじゃないかと思う──を付けて食べる。温かく乾いた生地は、とろとろとしたトウパを付けるとよく染み込む。

 ウンムー自体は薄い味のちょっとパサつくような生地なのだけど、トウパが染み込むと滑らかに重くなる。口に入れると、じゅっとトウパの油っぽさが染み出してきて、その塩っぱさと濃いにおいがこってりと美味しい。

 シルはトウパをとても気に入ったらしい。ほとんど一口ごとにたっぷりとトウパを染み込ませて食べていた。顎を持ち上げて、トウパがしたたるようなウンムーを口に入れる。噛んでトウパが染み出してくる瞬間、楽しそうに目を細める。

 お茶のようなものはパトライという名前だった。牛乳のようなもので煮てあるのか、白く濁っていて、飲むとスパイスのようなにおいと刺激があった。ウンムーは、その少しとろりとした飲み物によく合った。

 温かさにもほっとしたんだと思う。長く歩いた疲れでこわばった体がほぐれるような、そんな味だった。

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