第十二・五章 湖岸にて
幕間 英語のノートと青いペンケース
バイグォ・ハサムの向こう側に行くには、大きなバイグォ・ハサムを歩いてぐるりとまわるか、同じルートを騎乗用の動物に乗っていくか、馬車のようなもの──引いているのは大きな牛のような動物だったけど──に乗っていくか。あるいは、船で向こう岸まで渡るか。そのいずれからしい。
船が「ニャーイ」だと言われた。「ニャーイ」の意味は、「早い」か「便利」か「良い」か──いやでも
ともかく、向こう側に行く方法を探って、そこから船を探して、乗れるように頼んで──その間、俺とシルはバイグォ・ハサムの湖岸で何日かを過ごした。バイルッアーは毎晩見たし、美味しいものもたくさん食べた。
夕飯を食べながらそんな情報収拾をして、宿屋の部屋に戻ってきたところだった。夜も遅いような気がしたけど、人とたくさん話したせいかなんだかまだ落ち着かなくて、揺れる灯りをそのままにして、地図を取り出してその上で指を遊ばせていた。
ここまでの道のり、そしてこの先どこに向かうのか。
シルは敷物の上にポシェットの中身を出して並べて、俺の隣に寝転んでそれを眺めていた。
実のところ、バツ印を辿っているだけではドラゴンは見付からないかもしれない、というのはなんとなく感じていた。でも、他に手掛かりがなさすぎる。
それで、あの部屋から持ち出した他のもの──例えば、何が書いてあるかわからない紙とか、何に使うかわからない物のことを思い出して、いくつかを取り出してみたけど、やっぱり文字らしきものは読めないし、何が書いてあるかもわからない。
バッグに入れたものはもっとあったような気がするけど、何を入れたかもはっきりと思い出せないから、きっともう取り出せない気がする。このバッグは、取り出したいと思わないと取り出せないから。
他に取り出せるものがないか試そうと思い付いて、何かメモできるものと考えながらバッグの中を探ったら、学校で使っていたノートとペンケースが出てきた。
ノートの表紙に「英語」と書いてあって、下の方に自分のクラスと名前もある。日本語を見るのも久し振りだし、自分の字を見るのも久し振りだった。
濃い青と水色の布のペンケース。ファスナーを閉じれば四角くコンパクトで、開けば大きく広がって中身が取り出しやすい。そんな機能性の謳い文句も久し振りに思い出した。
ファスナーを引っ張って開いたら、中にはシャーペンとシャーペンの芯、消しゴム、三色ボールペン、黄色とピンクと水色の蛍光マーカー、定規、スティックのり、油性マジックペン、クリップ、携帯用のハサミ──それは学校に行っていたときのままで、なんだか動揺してしまった。
どうして今まで忘れてしまえていたんだろうかと思った。たったこれだけのことすら、今まで思い付いても考えてもいなかったんだ、俺は。
それで──そんなつもりはなかったのに、気付いたら泣いてしまっていた。
「ユーヤ?」
シルは不安そうな声を出した。俺が泣いていることに気付いたらしく、体を起こした。
持ち上げていた
自分でも泣いてしまったことに少し驚いていた。でも、ちょっと不意打ちをくらって動揺しただけで、別にそれ以上の何かってわけじゃない。
「大丈夫。ちょっと……なんていうか、びっくりした、だけ」
俺の言葉に、シルはまだ心配そうな顔で俺を見上げていた。その指先が、俺の服をそっと握る。
「ユーヤは、何にびっくりしたの?」
俺は少しだけ言葉を探す。本当に、たいしたことじゃないんだと、シルに伝えないといけない。
「なんだろう……急に、前のことを思い出したからかな」
「前のこと?」
「シルに会う前のこと」
「わたしと会う前?」
今度はシルが考え込んでしまった。
「毎日、これを使ってたんだ。本当に、毎日。なのに、ずっと忘れてたから……自分が忘れてたことを思い出して、びっくりしたんだと思う」
シルが困ったように首を傾けて、それから俺の前に置いてあるペンケースとノートを見た。
「これ、何に使うの?」
なんて説明しようかなと思いながら、俺はその薄いブルーのノートの表紙に触った。
「文字を書くんだ。それで、これは……学校ってところで、知らない言葉を覚えるのに使ってた。言葉だけじゃなくて、他にもいろいろ、計算とか、歴史とか」
「文字……」
シルはよくわからないという顔で、俺を見た。シルは文字というものを知らないままなのかもしれない、と気付く。
「こうやって書くと、直接声が届かなくても、言葉を伝えたり、残したりしておけるから」
そう言って、俺はノートの下に書いてあった自分の名前を指差した。久しぶりに見た「優也」という漢字表記。自分で書いた文字なのに、懐かしい。
「これが『ユウ』って字で、隣が『ヤ』って文字。だからこれは『ユウヤ』って読んで、俺の名前」
「これが、ユーヤの名前?」
「そう。俺の暮らしていたところでの文字。こうやって名前を書いておくと、これは俺の物ですって印になる」
シルは瞬きをして俺の名前を見ていたけど、急に何か思い付いたみたいに俺の方を見た。瞳孔がちょっと開き気味だ。
「わたしの名前は? 『シル』の文字は?」
俺は苦笑して、英語のノートを開いた。英文だとか、その日本語訳だとか、文法のメモだとか、単語の意味だとかで半分くらいのページが埋まっていた。しっかりと書き込みの多いページと、やる気がなかったページの差が激しくて、自分で笑ってしまう。突然笑い出した俺を、シルが不思議そうに見る。
新しいページを開いて、ペンケースからシャーペンを出す。久しぶりにシャーペンをノックする。少し悩んでからカタカナで『シル』と書いた。銀色のドラゴン。シルバーのシル。
文字を書くのは久しぶりで少し緊張したけど、ちゃんと覚えていたしちゃんと書けてほっとした。自分の字は別にうまくもないけど、でも書くと自分の字だと思う。前よりも下手になってる気がした。
俺はシャーペンの先で、今書いた文字をつついた。
「これが『シ』って文字で、隣が『ル』って文字。これで『シル』だよ」
シルはちょっと首を傾けた後、どうしてだかちょっと唇を尖らせた。
「ユーヤの文字は、もっと線が多かった」
一瞬、何を言われたのかわからなくて、ぽかんとしてしまった。それから、確かに「優」の字は画数が多いから、と思ってしまった。
けれど、カタカナだとか漢字だとかをなんて言って説明したら良いだろうか。しばらくいろいろと考えたけれど、良い言葉は出てこなくて、困った挙句に俺はカタカナで「ユーヤ」と書いた。さっき書いた「シル」の隣に。
本当は「ユウヤ」って書こうと思ったけど、「ユーヤ」の方が画数が少ないなと思ってそっちにした。
「文字にもいろいろ種類があって、さっきのは漢字って文字。こっちはカタカナ。俺の名前は、カタカナで書くとこう」
「カンジ、カタカナ……この『シル』もカタカナ?」
「そう。こっちは『シ』『ル』。俺の名前は、これとこれで『ユー』、こっちが『ヤ』」
それを見たシルは、なんだか嬉しそうに自分たちの名前を繰り返して口にする。
「これが『ユー』『ヤ』、こっちは『シ』『ル』」
満足したようにしばらくカタカナを眺めていたシルだけど、やがて瞳孔を膨らませて俺を見た。
「カンジは? 『シル』ってカンジでどうなるの?」
漢字で書いてと言われると困るからカタカナで自分の名前を書いたのだけど、シルは誤魔化されてくれなかったらしい。
「シルの名前は、元は日本語……あの、俺が使ってた言葉じゃないから、漢字はないんだけど」
俺の言葉に、シルは首を傾ける。自分でもうまく説明できている気はしない。困ったなと思いながら、シルの名前を考えたときのことを思い出す。
シル、シルバー、銀の髪の、銀色の鱗の──そこまで考えて、俺は久しぶりにシャーペンをくるりと回した。自分では意識していないまま回してしまって、あまりに久しぶりすぎて、自分がシャーペンを回せるということに少し驚いてしまった。そうだった、宿題をやってる時なんかはこんな感じだった。
そして、さっき書いた『シル』という文字の下に『銀』と書く。
「これが『シル』っていうカンジ?」
嬉しそうなシルの言葉に俺は首を振る。シルがなんだかわからないという顔で瞬きをする。俺はシャーペンの先で、その『銀』という文字の横をとんとん、と突いた。
「この漢字は『ぎん』て読むんだ。あと『しろがね』って読み方もあるらしいけど。だから、これは『シル』とは読まないんだけど……シルの名前は『シルバー』って言葉の最初の文字なんだ。『シルバー』っていうのは、俺がいた日本て場所とは別のところで使われていた言葉で、銀とか銀色って意味」
俺の説明がどこまでシルに伝わっているかはわからない。でも、シルは不思議そうな顔をしながらも、黙って俺の言葉を聞いてくれていた。
「シルの名前は銀色って意味で……それでこの文字も銀色のことだから、シルの名前を漢字で書くなら、きっとこうだと思う」
「銀色……」
シルが小さく呟いて、俺の書いた『銀』の文字を見た。
「そう。シルの髪の毛の色だし、シルの鱗の色」
「わたしの鱗の色が、わたしの名前?」
シルの質問に、俺は頷いて答える。
「そうだね。シルの鱗が綺麗だったから」
次にシルが顔を上げた時、シルは笑っていた。嬉しそうに。
あまりに嬉しそうにしてるものだから、なんだか鱗を褒めたのが恥ずかしくなってしまって、俺はノートに目を落とす。
シルの指先が、『ユーヤ』の文字の下──『銀』の文字の隣を指差す。
「ユーヤの名前も書いて。カンジで。ここに」
シルに言われるまま、俺はそこに『優也』と書いた。『優』の字は画数が多いし、バランスを取るのが難しい。その隣に画数の少ない『也』の字を並べるのは割と難しかったな、なんて考える。
そうやって書いた久しぶりの自分の名前は、なんだかやっぱり前よりもずっと下手になっている気がした。それでも間違いなく自分の字で──俺はまた泣いてしまった。
シルがまた不安そうに俺を見ている。泣き止まないと、と思うのだけど止まらなくて──ぽたり、と涙がノートの上に落ちた。
シャーペンをノートの上に置いて、袖で涙を拭う。それでもまだ涙は止まらない。
シルの右手が俺の左手をぎゅっと握る。シルの左手が俺の濡れた頬にそっと触れる。袖で乱暴に拭ったせいで熱を持った頬に、シルのひんやりした指先が心地良い。
「ユーヤは、どこから来たの?」
俺を見るシルの視線に耐えきれなくて、泣き顔を見られているのも嫌で、俺はシルの手から逃げて、その華奢な肩に額をくっつけた。俺の頬を触っていたシルの手が、行き場を失くしたからか戸惑うように俺の背中に置かれる。
「日本てところに住んでた。多分、ずっと遠く……全然違う世界なんだと思う」
「ユーヤはいつかそこに帰っちゃうの?」
「わからない。帰れるのかもわからないし、帰れないような気もするし、もう帰りたいのかもわからない」
シルが置いていかれると不安になって泣いたのはいつだったか。あの時は、こんなふうに泣いているシルを俺がなだめたんだったっけ。まるであの時と逆だ。
俺の背中に置かれていたシルの手が、ぎゅっと俺の服を掴んだ。
「ユーヤ、あのね、わたしはユーヤと一緒にいるからね」
何か言わなくちゃと思うけれど、出てくるのは涙ばかりで、言葉にはならなかった。代わりに、シルの右手をぎゅっと握り返す。
「ユーヤはわたしを助けてくれたし、置いていかないって言ってくれたし、一緒にいてくれて、美味しいものも楽しいものもいっぱいあったよ。だから、ありがとう」
シルの声に促されて、俺はようやく言葉を口にできた。
「俺も……ありがとう、シル」
「うん」
そう頷いたシルの表情はわからない。でも、シルはそのまま、俺が泣き止むのを待ってくれた。
シルは俺が書いたその文字を気に入ったらしく、俺はページのその部分をはさみで切り取ってシルにあげた。涙の跡がついてしまっていて少し恥ずかしい。それでもシルは嬉しそうにそれを眺めた後、それを大事そうに自分のポシェットにしまいこむ。
それから、敷物の上に並べていたものも順番に拾い上げて、一つ一つポシェットの中に入れていった。
シルと俺の名前──その俺の文字と、それから俺の涙の跡は、シルの宝物の一つになってしまったみたいだった。
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