第三話 バイルッアー

 ずいぶんと時間をかけて二人でストゥ・ティヤを食べた。太めで、もっちりと歯応えのある麺だった。

 器を店に返すとまた笑われた。他の人の様子を観察したところ、みんな載せる具は一つ二つ、多くても三つくらいで、こんなに山盛りにして食べるものではないらしい。

 お店の人がやってくれたってことは駄目ってことではないんだろうし、笑ってくれてるなら大丈夫なんだと思う。それに、どれも美味しかったし、いろいろなものを食べることができたシルは機嫌が良いので、良かったってことにしておく。


 他の店先も覗きながら、油のにおいにシルが引き寄せられて、そこで揚げ物を買った。トップラというもので、魚のすり身を揚げたものらしい。

 揚げ置いてあったものを一つずつ、そのまま渡される。薄く平べったくて、手のひらを広げたくらい大きい。油のにおいが鼻をくすぐる。指先に油が移って、それはまだ温かい。

 一口噛みちぎると、じわりと魚のうまみを感じる油が滲み出てくる。ぐにぐにとした弾力は食べ応えがあって、噛んでいるうちにじんわりと口の中にうまみが広がる。

 シルも気に入ったらしい。口の周りを油でべとべとにしながら──とは言っても、俺も似たような状況だけど──大きなトップラを噛みちぎっている。

 それで、結構な大きさだったと思うんだけど、二人であっという間に食べきってしまった。

 口周りや手の油をハンカチの布で拭きながら、シルを見る。シルは空っぽになった自分の手をしばらく見ていたけれど、俺の方を見て、嬉しそうに笑って、それから自分でも布を出した。それは確か、ハイフイダズで買ったものだ。

 自分の指先を拭いていたシルが、ふと動きを止めて、俺の方にそのハンカチを差し出した。


「ユーヤ、拭いて」

「え」


 最近のシルは、このくらいのことは自分でやっていたから、俺は戸惑って差し出されたハンカチを見下ろした。


「口の周り、拭いて」

「えっと……自分で拭かないの?」

「拭いて欲しい」


 自分の口周りを拭いていた布を左手で握り締めたまま、シルに差し出されたハンカチを右手で受け取って、シルの口にそっと当てる。恐る恐る動かせば、シルはぎゅっと目を閉じて、くすぐったそうに笑った。

 出会ったばかりの頃は、いつもこうやって拭いていたな、なんて思い出す。


「はい、拭いたよ」


 シルの口元からハンカチを離して、その布をそのままシルに差し出す。シルはそれを受け取って、今度は俺の左手からハンカチを奪い取った。


「ありがと。今度は、わたしがユーヤを拭く」


 そう言ったかと思うと、ぽかんと口を開いた俺の口元に、シルがハンカチを当てる。ぎゅっと押さえつけたり、ぐいと拭ったり──正直、力加減が強すぎると思ったのだけど、目の前のシルは真面目な顔をしている。

 それに、実のところさっき拭いていたんだけど、それも言い出せなかった。他にどうすることもできなくて、大人しく拭かれるままになっていた。

 満足したのか、シルは俺の口元からハンカチを離して、それで大きく頷いた。


「はい、できたよ」


 シルが差し出してくるハンカチを受け取って、「ありがとう」と応えると、シルは嬉しそうに目を細めた。




 甘いものが食べたい気分になって、シルと二人でにおいを頼りに露店を見て回る。

 もうずいぶんと暗くなったというのに、出歩いている人の数は少なくならない。それどころか、増えているような気がしていた。

 タザーヘル・ガニュンのように、夜に出歩く理由が何かあるのかもしれない。それともやっぱりお祭りなんだろうか。なんて考えていたときに、それは始まった。

 広い湖は暗い。空気なのか水なのか、遠目にはわからないくらいの夜の暗さが広がっている。

 その、暗い湖面がぼうっと青白く光った。


 その光は、ふわりと湖面から浮き上がった。湖面を照らす小さな丸い光になって、ふわりふわりとと浮き上がる。

 暗い中、ぼんやりとした光を投げかけながら、空に向かって昇ってゆく。


 シルと二人、道端に立ち止まってぼんやりとその光を眺める。あの、ぎこぎこと何かを擦り合わせるような音は、一層大きく響いている。


「ユーヤ、あれは何?」


 だいぶ高くまで昇っていった光を指差して、シルが言う。俺はその光から視線を外せないまま、応えた。


「わからない。なんだろう」


 そしてまた、湖面が青白く光る。光ったかと思うと、それは空に昇ってゆく。ヘリウムの風船が空に昇ってゆくみたいに。

 二つ、三つ。気付けばいくつもの光が湖の上に浮いていた。そうやって昇っていって──どこまで昇ってゆくんだろう。昇って、空高くまで昇って、どこかで消えてしまうんだろうか。


「綺麗」


 たくさんのまるい光を見上げて、シルがそう声を漏らす。繋いでいる手が、ぎゅっと握られる。

 気付けば、俺とシル以外にも、立ち止まって空を見上げている人たちがいた。夜に出歩いているのは、この光景を見るためなんだろうか。


「不思議だね。なんだろう。虫にしては大きいし」

「虫?」

「うん、俺のいたところだと光る虫がいて……多分、その虫の光はもっと小さいんだけど」

「それ見てみたい」


 シルはそう言って笑った。


「俺も見たことないんだよね……見てみたいな、俺も」


 この世界に蛍がいるかはわからない。でも、そういえばルキエーの森には光る羽虫はいたな、とその光景を思い出す。この先、他にも光る虫を見ることがあるかもしれない。あるいは、他にももっと見ているけど気付いていないだけなのかも。


 シルが俺の方を見る。視界の端で、青白いぼうっとした光がふわりと浮き上がるのが見えた。

 提灯クンバウの柔らかな少し赤い光に照らされて、白い頬に赤みが差しているように見える。シルの睫毛がゆっくりと動いて、その頬に影を落とす。

 ゆっくりと瞬きをしてから、シルは俺をじっと見て口を開いた。


「ユーヤは、楽しい?」


 シルの言葉に、俺も瞬きをする。それから、これもシルの「お世話」なんだと気付いて、くすぐったい気持ちで笑った。


「楽しいよ」


 俺の言葉に、シルも笑った。きっとシルも、くすぐったい気持ちなんじゃないかって思う。そうだと良いなと思う。


「わたしも楽しい」


 シルは笑ったまま、また空に昇ってゆく光を指差す。「綺麗」と声を上げる。俺もシルの視線の先を見て、「綺麗」と言葉にする。

 そのまましばらく、光が空に昇ってゆくその光景を、二人で眺めていた。




 その光の名前は、バイルッアーというらしい。というのは、近くの店で通じない会話を試みた結果、なんとかわかったことだ。

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