第十二章 大蛙の湖

第一話 バイグォ・ハサム

 船旅にはだいぶ慣れた。

 最初の頃に比べても吐かなくなったし、飲食もある程度は平気になった。まったくいつも通りとはいかないけど、それでもぐったりと何もできなかった頃を考えたら、かなり元気だ。

 シルは心配そうに俺の様子を伺って、水やお茶を飲むか聞いてきたり、ラハル・クビーラを取り出して渡してくれたり、歌ってくれたりした。俺は大人しく「ありがとう」と言ってシルの世話を受け入れることにしていた。

 シルが「ユーヤ、お茶飲む?」と聞いてくるから、「飲むよ、ありがとう」と返せば、シルは嬉しそうな顔でお茶の水筒を渡してくれる。俺がお茶を飲む様子をじっと見て、それからほっとした顔をする。

 それから、二人で海を眺めて、どこかへ飛んでゆく鳥や大きな魚の影なんかを見付けたりもしていた。ちょっと疲れて目を閉じると、シルが歌う。あの雪の歌だ。

 いつだったか、シルが歌っていたら船の人が何人かやってきて、しばらくシルの歌を聞いて、その後どうしてだかクァーダンという果物をくれた。親指と人差し指で作った丸くらいの大きさの、黄色い硬い果物だ。

 シルはどうして自分が物をもらったのかわからない様子で、瞬きをして俺を見た。

 代わりに俺がお礼の言葉カムンダン・ハイフイを言えば、集まった人たちはなぜか俺にもクァーダンをくれた。なんだかねだったみたいに思われたのだろうかと不安になったけど、みんな笑っていたからきっと大丈夫だと思いたい。


「もらっちゃった、どうして?」

「シルの歌が綺麗だったからじゃないかな」

「歌が綺麗だと食べ物がもらえる?」


 シルの疑問にうまく答えられなくて、俺はしばらく悩んでしまった。


「そういうわけじゃなくて……そういう仕事の人もいるとは思うけど、でもこれは、多分そういうことじゃなくて」


 よくわからない、と言うようにシルが首を傾ける。銀色の髪の毛が潮風に揺れる。


「俺がシルと食べ物を分けたりとか、シルが俺にお茶を渡してくれたりとか、そういうものに近いんじゃないかな」


 ちっともうまく説明できなかったけど、シルは小さな果物クァーダンを見詰めて何か考えているみたいだった。しばらくして、顔を上げる。


「一緒にいたいってこと?」


 シルのアイスブルーの瞳が、じっと、まっすぐに俺に向けられていた。俺はちょっとためらってから、それに応える。


「一緒にいて楽しい、とか」


 シルは俺の言葉に納得したのか、笑って頷いた。それから二人でクァーダンを食べた。

 クァーダンは皮ごと食べる。噛むとかりっとした強い歯ごたえがあって、酸っぱい。噛んでいるとほんのりと甘い。さっぱりと爽やかで、かりかりと噛むのが心地良い。




 ハイフイダズを通り過ぎて、地図をさらに下へ。次のバツ印は、海に細長く切り込んだ湾、そこから川を遡った先にある大きな湖にあった。バイグォ・ハサムというのがその湖の名前で、その周囲の地域もバイグォ・ハサムと呼ばれているみたいだった。

 ルキエーにあったオール・ディエンも大きな湖だったけれど、バイグォ・ハサムはそれよりもさらに大きいような気がする。眺めても大きさを比べることができないくらいに大きいし、地図で見てもやっぱり大きい。曲がりくねった不思議な形をしているので、ぐるりと周囲を歩いたら一周するのに何日もかかるんだろうなと思う。

 海水が逆流して流れ込んでくるらしく、川とその近くは塩水らしい。そして海のように波があって、ますます湖なのか海なのかわからなくなってくる。

 あとで知ったことだけど「ハサム」というのは海に対しても使っていたので、そもそも海なのか湖なのかという区別にあまり意味はないのかもしれない。


 船は細長い湾から広い川幅を遡ってバイグォ・ハサムに向かった。バイグォ・チャーンというのが川の名前で、「チャーン」というのは道という意味らしい。川沿いに広がる街並みと、その中を流れる川を行き来する船を眺めていると、本当に道なんだなと思う。

 そうして、バイグォ・ハサムから川が流れ出すその境目までやってきた。その街はバイグォ・パクという名前。パクというのは口の意味、だと思う。

 船の人に案内してもらった宿──多分、宿だと思う──で部屋を借りる。床には敷物が敷き詰められていて、靴を脱いで裸足で過ごすらしい。部屋の奥の方には厚い布が敷かれていて──多分、布団なんだろうなと思った。

 到着したのは昼過ぎで、船旅の疲労感に布団に寝転がって少し眠って、夕方に目が覚めた。


 起きたら、シルは敷物の上にぺたりと座って大きく開いた窓から外を見ていた。

 俺が寝ている間、シルは一人でいたんだなと気付いた。待っててくれたとか、待たせてしまったとか、そんな気持ちが湧き上がってくる。

 起き出して伸びをして、シルの隣に並んで窓の外に目をやった。

 ほとんど目の前にバイグォ・ハサムの景色が見える。バイグォ・ハサムの水面が傾いた陽の光を映して赤く輝いていた。湖面の向こうはもう夜で、暗く霞んでいる。

 日が沈むというのに、外にはまだずいぶんと人が出歩いていて、賑やかだ。ぽつりぽつりと灯りも見える。それに、湖の近くには露店が並んで良いにおいが漂ってきていた。

 シルは隣に座った俺の方を振り向いた。その瞳は、期待にきらきらと輝いている。


「ユーヤ、さっきから良いにおいがする! それに、水がきらきらして綺麗!」


 油のにおい、肉の焼けるにおい、甘いにおい。一眠りしたら、気分の悪さもだいぶなくなった気がする。においに刺激されて、ぎゅっと胃が動いたのも感じた。


「何か食べに行こうか」


 シルは俺をじっと見る。なんの沈黙だろうかとシルのアイスブルーの瞳を見返すと、シルは不安そうに口を開いた。


「ユーヤは、もう気分悪くない?」


 俺はシルのその言葉に瞬きをしてから、頷いてみせた。


「寝たから大丈夫。お腹すいたし、何か食べたいくらい」


 俺の言葉に、シルは嬉しそうに目を細めた。それから俺の手を握って立ち上がる。もう片方の手で窓の外を指差す。


「行こう! みんな美味しそう! 食べたい!」


 その勢いに笑って、引っ張られるままに立ち上がった。

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