第三話 花を食べる
細長く切った木の板を繋げたものを敷いて、その上に厚手の織物を重ねて敷く。上に掛けるのは柔らかな布。寝床を整えて寝て起きて──正直まだ「揺れている」という感覚はあったけど、それもだいぶ慣れたと思う。
寝起きに自分の髪の毛を結ぶ。自分の髪が長いことにもだいぶ慣れてきた。どうやって切って良いかわからないので、伸ばしっ放しだ。
起き出したもののまだぼんやりしているシルの髪も梳かして
シルと二人で外に出てみると、いろんな舟が行き交っていた。良いにおいを漂わせている舟が多いので、きっと朝ご飯なんだろう。
呼び掛けられて、「
舟のお兄さんはコインを受け取ると、器を二つ出した。それに、大きな入れ物からスープのようなものをよそう。今度は平ったいところにその器を二つ置いて、それを差し出してきた。
器を持ち上げると、するすると棒が引っ込んで、舟が動き出す。この器はどうするんだろうと思って、慌てて呼び掛ける。
「
舟の動きが止まって、お兄さんが振り返る。けれど、言葉が出てこない。困って、手にした器を指差すと、お兄さんは笑った。
「
そう言われたけれど、「トゥハプ」という言葉の意味がわからない。「
どうしようかと思っている間に、お兄さんは舟を漕いで行ってしまった。ぱちゃぱちゃぱちゃ、と櫂が水面を軽く叩いて、それからその姿がするりと小さくなる。
行ってしまったものは仕方ないので、シルと二人で舟の端っこに座って、行き交う小舟を眺めながら、買ったスープを食べる。
そのスープは冷たくて、うっすらと白く濁るスープの上に、柔らかな赤い色の花びらが浮かんでいた。顔を近づけるとほんのりと甘いにおいがする。
スプーンで掬い上げれば、花びらの下には溶き卵のようなものが漂っていた。それから、小さな魚と何かの野菜っぽいものも。
指先に乗るような小さな魚に、とろみのあるスープと溶き卵が絡む。そのままつるりと喉を通ってゆくのが美味しい。細長く切られた野菜も、花びらも、柔らかな噛み応えで口の中を通ってゆく。
シルが花びらを掬い上げて、不思議そうに見ている。
「どうして花を食べるの?」
「どうしてだろう。良いにおいだからとかかな。味はあんまりしないよね」
シルはちょっと首を傾けた。
「花も食べ物なの?」
「全部じゃないよ。毒がある花もあると思うし」
「毒?」
「気分が悪くなったり……ひどい場合には死んじゃったりとか」
シルはぱちぱちと瞬きをして、それから掬い上げた花びらを見た。
「これは、食べ物の花? 昨日の甘いのも?」
「みたいだね」
納得したのかどうか、シルは掬い上げた花びらをぱくりと食べた。噛みもせずに顎を持ち上げて飲み込むと、また俺の方を見る。
「食べ物の花も好き」
そう言ったシルの顔は楽しそうに笑っていて、花びらを食べるのが気に入ったんだろうなと思った。
スープを飲みながら、通りかかる舟をたまに呼び止めて、クァラ・ダチェンや
このままだと、何かを買う度に入れ物が増えてしまう。
さっきもそう言われたことを思い出す。けれどやっぱりどうして良いかはわからなくて、困っている間におじさんは櫂で水面を叩いて行ってしまった。
結局のところよくはわからなかったけど、きっと誰かに渡すのだろうと、空になった器は家の中にまとめておいた。
朝ご飯を食べ終えてお茶を飲んでいたら、隣の家から昨日の子が出てきた。その子は俺とシルの姿を見付けると、大声で「カムンダン」と挨拶してくる。俺も「カムンダン」と返した。
家畜──昨日の、うさぎに似た生き物──が入っているらしき小屋の扉を開けると、中から何匹かのその生き物が姿を見せる。その生き物は船の上を跳び回るけど、周りは水なのでいなくなる心配がないみたいだ。
その子は小舟に乗ると、その小舟を器用に俺とシルのすぐ近くまで寄せてきた。乗りこめてしまう距離だ。
そこで、何事かを言われる。何を言われているのかわからないけれど、どうやら
呼ばれて、促されて、その小舟に乗り込む。振り向いて、シルに向かって手を差し伸べると、シルは俺の手を握って、小舟に飛び移ってきた。
小舟が進むのに任せながら、どうやらゼントーというのがその子の名前だとわかった。何をしにどこに行くのかは、さっぱりわからない。
いや、どうやら目的地は「デイチャン」とか「ダーボイ」とかいう場所らしい。それがどんなところかはさっぱりわからないけど。
ゼントーくんは、慣れた手つきで小舟を操って、岩が切り立ったような半島までやってきた。小さな桟橋のようなところに舟をつけて、そこから降りる。桟橋の先は岩場だ。
岩場のすぐ向こうは、砂浜のようなものはなくて海。反対側は岩壁がそそり立っている。ごつごつとした感触が足裏に当たって、少し歩きにくい。転んだら海に落ちそうだ。
ゼントーくんは背中に籠を背負って、その岩場をひょいひょいと跳んで歩いている。船の上を跳び回る家畜のように身軽だ。俺は遅れないようにと少し焦るけど、でも落ちるよりはマシだろうと、慎重に足を進める。
「ユーヤ、大丈夫?」
シルが二歩先で俺を振り向く。シルの心配が嬉しくて「ありがとう、大丈夫」と応えはしたけど、内心では自分もあんなふうに身軽に動けたら、なんて思っていた。
そうやって辿り着いたのは、洞窟の入り口だった。岩壁が崩れ落ちたような形の、ぽっかりと開いた穴。中は薄暗くて、少し覗き込んだくらいだとどうなっているのかわからない。
ゼントーくんは、その穴を指し示して「ダーボイ」と言った。ダーボイというのは、洞窟のことだろうか。それとも、この洞窟の名前がダーボイなのか。
洞窟の入り口で、ゼントーくんは籠から何か取り出した。細長い棒の先に、円柱のようなものがぶら下がっている。その円柱は、薄い布で覆われていた。
ゼントーくんがしゃがみこんで手元で何かしている。それをぼんやりと見ているうちに、ゼントーくんは立ち上がった。手に持った細長い棒、その先で揺れている円柱形のものが、ゆらりと光っているのを見て、提灯という言葉を思い出した。
「ナオ・ダイ」
籠を背負い直したゼントーくんは、俺とシルにそう呼びかけて歩き出す。俺とシルは顔を見合わせて、ゼントーくんの後を追いかけた。
シルと手を繋ぐのは、なんだかもう当たり前のようになってしまった。どちらからともなく、気付けば繋いでいる。
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