第四話 ナーナン
魚や貝や海藻を手に、ウリングモラの人たちが舟を出し始める。
その舟に乗せてもらうために、波打ち際でしゃがみ込んでいたシルに声を掛ける。シルは俺の声にぱっと顔を上げて、立ち上がった。
朝の涼しい空気は、登り始めた日射しがあっという間に温めてしまった。蒸し暑い空気の中でも、シルの瞳はひんやりとした湖のように涼しげに輝いている。
「ユーヤ、これ! これって、持っていっても良い?」
シルはそう言って、手の中のものを持ち上げて見せてくれた。白い腕を伝った海水が、雫になって肘から落ちて砂浜に落ちる。スカートも海水に浸かっていたのか、ぽたぽたと水が
シルの手のひらに乗っているのは、石のようなものだった。色は様々で、不透明な白っぽいものもあったし、透き通っているものもあった。滑らかに磨かれた曲線で、丸かったり楕円だったり平べったかったりしている。
まるで、ガラスの破片のような──そして、シーグラスという言葉を思い出した。
海の中を漂って角が取れたガラス片。シルの拾ったこれの材質はわからないけど、でもきっと、滑らかな曲線になった理由はシーグラスと同じなんだろうなと想像した。
拾って持っていっても大丈夫だと思うけど、少し心配もあって、俺はウワドゥさんの方を見る。
「
そう言っては見たものの、それ以上の言葉が出てこない。仕方なく、シルの手のひらを指差す。その指先をシルのポシェットに向ける。
それを三回繰り返したところで、ウワドゥさんが笑った。
「アー・
いつものように、明るく気楽な調子でウワドゥさんは言った。きっと通じたし、きっと持っていっても大丈夫ってことだ、多分。
俺はシルに頷く。
「持っていっても大丈夫みたい」
俺の言葉に、シルは目を細めて、手のひらをぎゅっと握り締めた。
舟に乗り込む前に、シルのスカートの裾をぎゅっと絞る。ぽたぽたと落ちた雫が砂を暗く濡らす。
そうして手漕ぎの舟でウリングラスの森にやってきて、焚き火を始めたばかりの人たちを見付けて、そこで朝ご飯の準備に加わる。
みんなが準備をしている中、何もしないのはやっぱり落ち着かなくて、そわそわしていたらウワドゥさんが笑って森の中に連れていってくれた。
シルは、手のひらの上で眺めたり転がしたりしていた石を、布に包んでポシェットに入れた。
森の中は開けた砂浜と比べてさらに湿気が高い。湿った土のにおいも、植物の青くさいにおいも、湿気に混ざって空気の重さになっている。
海岸から離れると、もちろんそこは地面の上だ。足元に海水はないのだけれど、それでも這い回る根っこの上を辿るように歩く。
根っこの隙間に覗く地面は水分を多く含んでいて、柔らかくて足を取られる。さらには、小さな穴がぽこぽこと開いていて、何かの生き物がそこにいるみたいだった。
落ち葉が重なって溜まっているところもある。ウワドゥさんには、落ち葉が溜まっているところには足を入れるなと注意されたみたいだった。言葉はわからなかったけど、身振りから、そういうことだろうと思った。
落ち葉溜まりの中にも、何かがいるのかもしれない。あるいは、足が沈んで危ないとか。
そんな風に想像して、根っこの上が一番歩きやすくて安全なんだろうな、と理解する。
「地面は危ないから、根っこの上だけを歩くみたい」
シルにも説明をして、手を繋ぐのは危ないだろうからと、根っこの上では手を離して別々に歩いていた。
相変わらずシルは身軽で、ひょいとなんでもないみたいに根っこを飛び移り、飛び越え、進んでゆく。俺はそれよりも遅れがちになるけど、それでもだいぶ慣れてきた、と思う。
そんな気持ちが油断になって、張り出した木の根っこを右足で大胆に跨いだら、思ったよりも高さがあって左足が引っ掛かる。これが平らな地面の上だったら踏み止まれるくらいの話だったのだけれど、でこぼことした狭い根っこの上で、俺は落ちることを覚悟した。
二歩ほど先に行っていたシルが、振り向いて俺の手を掴む。そしてすぐ目の前にきて、俺の体を抱くように支えた。
不安定な根っこの上で、俺はシルに支えられて、引っかかっていた左足を降ろす。
「ユーヤ、大丈夫?」
俺の足が根っこを踏みしめるのを見て、シルはそっと俺の体を離した。それでもまだ、手は握ったまま。
「大丈夫。ありがとう。落ちるところだった」
俺の言葉に、シルは嬉しそうに目を細める。そして、手を繋いだまま、シルは一歩踏み出した。
シルは、俺の進みを気にしてくれて、俺が一歩一歩進むのを振り返って待ってくれた。
不安定なところで手を繋ぐのはバランスが取れなくて危ないかもしれないと思っていた。だから、手を離して歩いていた。
けれど、こうやって手を繋いでみたら、思ってたよりもずっと歩きやすかった。きっと、シルが俺に合わせて進んでくれているからだし、シルがこうやって支えてくれるからだ。
何より、シルと手を繋いで、とても安心してしまったことに気付いてしまった。
ヤパという名前の果物らしい。木の下に立つと、甘く熟したにおいが降ってくる。
下の方に成っているのは淡い黄緑色で、上の方の赤い実が、どうやら熟したものらしい。熟したものを採るのかと思ったけれど、ウワドゥさんは下に成っているものを一つ
ウワドゥさんは、たった今もぎとったそれを指差して、あれこれと説明してくれる。知らない単語が多かったけれど、どうやら調理して食べるらしい。
手の中の薄い黄緑の実は、見るからにまだ固そうだ。
高いところの赤く熟した実は、シルが登って採ってしまった。
ウワドゥさんが指を差して「
「上の方が甘い?」
シルの言葉に頷いた。
「多分」
「食べたい。取ってくる」
シルはそう言って、一番低い枝にぴょんと飛び付いて、そのまま足を持ち上げて幹を蹴り、その勢いでぐいと自分の体を持ち上げた。あっと言う間だった。
シルが乗った枝ががさがさと揺れる。シルは幹に手を付いて、その枝の上に立ち上がる。そのまま手を伸ばして、頭上にある赤い実をひょいと取った。
ウワドゥさんはシルを見上げて、声を上げて笑った。
「アーヤ・アーヤ」
俺は肩掛けのバッグから布袋を出して、下から手を伸ばしてシルからその赤い実を受け取る。真っ赤に熟した実の表面はつるりとしていて、力を入れたら潰してしまいそうに柔らかい。そして、手に持つとそれだけで甘いにおいがする。
潰さないように、そっと布袋の中に入れる。
最後にシルは、枝の上からひょいっと、危なげもなく飛び降りた。
ウワドゥさんが採った黄緑色のまだ硬い実をいくつかと、シルが採った赤い柔らかい実をたくさん。
帰り道、俺はせめてこれくらいはと、布袋を持って歩いた。落としたり、転んで潰したりしないように、足取りが慎重になる。
肩掛けのバッグに入れてしまえばそんな心配もないのだけれど、ウワドゥさんのいる前でそれをするのはやめた方が良いんだろうなと思って、自分の手で運んでいる。
「戻ったら食べる?」
「そうだね、朝ご飯も」
シルとそんなことを言い合いながら、ウワドゥさんの後に続いて、木の根っこを辿る。
歩きにくくて時間がかかるのは確かだけど、いつもの朝ご飯と同じなら、それほど急ぐこともないんだと思う。時間はたっぷりある。
こうやって何かできたことで、ただ待つだけだった時よりも、すっきりした気持ちで朝ご飯を食べられそうだった。俺はただ歩いただけだから、本当はただの自己満足なのかもしれないけど。
ウワドゥさんは、遅れがちになる俺を振り返る度に、笑って「
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