第三話 ドラーン・ヤークとカリコ

 大きな雲トウム・ウルと呼ばれるこの空を飛ぶクジラは、何頭もいるらしい。

 クジラたちトウム・ウルは、空を泳いでいる。個体によって、いつも泳いでいる範囲──縄張りをイメージしたけど、合っているかはわからない──があるらしい。

 そして、そのクジラの背を渡り歩いて暮らしているのが、トウム・ウル・ネイと名乗る人たちだ。


 遊牧民族に似てるのだろうかと、クジラの背に並ぶ、テントのような布の家を見て思う。

 厚い布で覆われた家の中は意外と暖かい。床にもふかふかとした羽毛布団のような敷物が敷き詰められている。

 仕切りのない大きな一部屋で、真ん中には台のようなものが置かれていて、その上に箱のようなものが置かれている。そこからは、柱のようなものが上に長く突き出していて──多分それは煙突で、箱の中に火が焚かれているようだった。

 中に入ると、空気の暖かさと、人の暮らしが生み出す湿度にほっとする。


 俺とシルは、ルー・ドゥーさんに案内料を払っているからだと思うけど、客として迎え入れられた。

 手袋を外して、腕や足に着けた革を外して、分厚い防寒具を脱いでも、家の中はまだ暖かい。

 家の中にある布はどれも鮮やかな色で染められいて、きらきらと輝く糸で刺繍が施されている。色合いはすごく賑やかで目がちかちかするくらいなのに、全体では不思議と調和がとれていて落ち着いた気分になる。

 この暖かさの中にいると守られているような気持ちになる。だから、落ち着くのかもしれない。




 女の人が飲み物を持ってきてくれた。この人は「モーン・ザー」という名前だそうだ。

 軽い器に入った飲み物は暖かく、両手で包むように持つだけで、ほっとした気分になる。器の中身は茶色で、温めた牛乳に似たにおいと、それから少しスパイシーなにおい。表面に、何か黒っぽい粒が浮いていた。

 ドラーン・ヤークという飲み物らしい。

 ウル・ヤークという言葉が聞こえて、自分たちが今クジラトウム・ウルの上にいることを思い出す。もしかして、このクジラの乳なのだろうか。

 まさかと思うような、でも、あるかもしれないと思ったりもする。この答えは、結局わからないままだ。


 シルは、器を持って不思議そうに中を覗き込んでいたけれど、そのうちに俺の方を見た。

 俺は器に口をつけて、一口飲む。とろりと粘性のある、程よくぬるい液体が口の中を通ってゆく。味わいはこってりと濃くて、あまりに濃いので甘いような気がしてくるけど、ほんのりと塩っぱい。飲み込むと、スパイスの風味が後味に残る。

 そして、お腹の中に落ちた液体が、じんわりと暖かい。そこから熱が広がって、体の緊張が溶けるみたいだった。

 一口飲んだ後、シルに向かって「美味しいよ」と伝えると、シルは小さく頷いて自分も飲み始めた。


 鮮やかな色に囲まれて、シルの淡さはなんだか色を失くしてしまったみたいだった。

 シルの白い睫毛に湯気が纏わり付いて、さっき空から落ちてきた氷の粒のように、このまま溶けて消えてしまうんじゃないかと、そんな気持ちになってしまう。

 ルーを見た時からシルの不機嫌がなんだかずっと続いている気がして──それが気になっているせいで、そんなふうに思うのかもしれない。


 シルは、ドラーン・ヤークが気に入ったらしい。こくこくと、あっという間に全部飲んでしまった。そういうところはいつもの通りで、ほっとする。

 モーン・ザーさんが、おかわりのドラーン・ヤークを注いでくれた。




 ドラーン・ヤークのスパイシーなにおいを楽しんでいると、賑やかな声と共に外から子供たちが入ってきた。

 みんなふかふかの服で着膨れして、ころころとした子犬のようだ。

 小学生に上がるか上がらないかくらいの子、それより少し大きい子が二人、中学生にはなっていなさそうな子、それから中学生くらいの子。一番大きいその子が面倒を見ているらしい、何か言いながら、小さい子たちの防寒着を脱がせたり、手や顔を拭いたりしている。

 そうして身ぎれいになったところで、小さい方の四人は、家の中に見知らぬ顔──俺とシルを見付けて、好奇心のままに駆け寄ってきた。ルー・ドゥーさんが、まるでルーにするみたいに小さく「シッ」と言うと、子供たちは動きを止めて、でも好奇心は隠さずに俺とシルを見る。


 ルー・ドゥーさんも、モーン・ザーさんも、その子供たちも、濃い茶色や黒の髪の毛をしていた。

 そんな子供にとって、シルの色素の薄い色合いは珍しいらしい。口々に何かを言って──「ノース」という言葉が聞こえた──シルを見ている。

 やいやいと騒がしい子供たちをルー・ドゥーさんが宥め、さっきの一番大きい子がさらに何かを言うと、子供たちはまたころころと移動を始めた。


 そしてすぐに、皿を持って戻ってくる。落としたり引っくり返したりしないように気を使って、さっきまでと違って、そろそろと歩いている。

 俺とシルの前に皿を置くと、子供たちは少し離れたところに寄り集まって自分たちで運んできた皿の上のものを掴んで食べ始める。


 皿の上に置かれているのは、ころんとした丸い形で──揚げ菓子みたいだった。表面が白っぽく覆われている。砂糖でコーティングされたドーナツみたいな見た目だ。

 一つ摘んで口に入れる。表面がざらりと甘い。噛むとカリカリと良い音がして、歯ごたえが心地良い。表面の甘さが唾液で溶けてジャリジャリと舌の上を転がる。そうやって噛んでいると、硬めに揚がった生地が少し柔らかくなって、口の中でジャリジャリした甘さと混ざり合ってほろほろになる。


 隣を見ると、シルも一つ摘んで口に入れたところだった。


 シルの背中がぴんと伸びて、瞳孔が膨らむ。

 目を大きく開いたまま、また次の一つを摘んで口に入れる。嬉しそうに頬が緩んで、大きく開いていた目が次第に細くなってゆく。

 そして、また一つ摘んで口に入れる。もぐもぐと動かす口元が嬉しそうに緩んでいる。

 シルの不機嫌な雰囲気も、少し和らいだ気がする。


 シルの様子に安心して、俺も次の一つを口に入れる。カリカリとした歯ごたえが良い。

 二つ三つ食べると、口の中が砂糖だらけで甘くなる。そんな時にドラーン・ヤークを飲むと、口の中に残る甘さとスパイシーな塩気が混ざって美味しい。


 これはカリコというお菓子らしい。カリカリ、ころころ、そのままの名前だと思った。

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