第3話 傘
窓の外、雪が舞っている。
もう、春だというのに…
積もることのない雪が、どんよりとした空から、静かに静かに落ちてくる。
決して積もることのない雪が静かに舞い降りてくる。
アスファルトに落ちて…
溶けてゆく雪。
溶けてしまうのなら…
結局溶けてしまうのなら、意味ないよね。
雪として舞い降りてくる意味ないよね。
美しい結晶も、溶けてしまえば…
意味、無いよね。
結局こういうことになるのなら、僕らの結婚も…
この雪と同じ。
この雪と同じこと。
黒い大きなカバンを持って、彼女がアパートの外階段を降りていく。
僕は二階の自分の部屋からそんな彼女を見ている。
雪は静かに舞っている。
彼女は一度上がって来て、自分のシルバー色の傘を持って再び外へ。
カバンが雪で濡れないように、傘を広げて、置く。
このくらいの雪なら、ああしていれば、カバンは大して濡れることは無いだろう。
そして、またこの部屋に戻って来る。
二人、しばらく窓の外の雪を見ている。
彼女のケイタイが鳴る。
「…分かった…うん…じゃあ、よろしくね」
彼女はケイタイを切ると、伏し目がちに僕に近づいてくる。
そして、何かを吹っ切ったように顔を上げ、僕の目を見て、右手を差し出す。
別れの握手。
その目は、もう、僕への怒りは消えていた。
そこには、もう、かつての優しさも消えていた。
それは、他人の顔。
出会った頃よりもずっとずっと遠い他人の顔。
その彼女が差し出した手。
まだ何か吹っ切れていない僕は、その手を見つめたまま動けない。
外の雪は、いつの間にか小雨に変わっていた。
僕は、一つため息をついて、彼女の手を握る。
「痛いッ」
と、彼女が手を引く。
昨日、荷造りの時に痛めた手だ。
ぼくもすぐに気づいたが、もう、“ごめん”って言葉すら、言えない。
彼女のケイタイが鳴る。
「…うん、すぐ行く」
窓から下を見ると、アパートの前に黒い軽の乗用車が停まっている。
彼女は、小さなバックを小脇に抱えると、振り向きもせず部屋を出てゆく。
部屋を出てゆく彼女の後ろ姿。
僕は、どんな奴が迎えに来たのか見たくなって、
「送るよ」
と、そばにあったビニール傘を手に彼女を追う。
迎えに来ていた車に乗っていたのは、彼女より2,3歳年下の仕事仲間の女性。
この子は、すべての事情を分かったいるのだろう。
僕の顔なんか見ようともしない。
僕が下りてくるとは思っていなかった彼女は、少し慌てていて、
「アッ、荷物ッ!」
大きな黒いバックは、アパートの軒先でシルバーの傘の下、雪から変わった雨のせいで少し濡れている。
僕は、ビニール傘を雨で濡れている彼女に渡すと、雨で濡れている大きな黒いバックを取りに駆け出す。
僕は、シルバーの傘をさし、バックを持って戻って来る。
彼女は礼も言うことなく、むしろ、余計な事をする僕に苛立っている様子で、迎えに来た車に乗り込む。
僕は、車のバックドアを開けてもらい、黒いバックを中に押し込む。
そして、助手席側の方へ廻り、何も言わずに車に乗り込んでいる彼女に、
「落ち着いたら、連絡くれよ」
と、言うと、
「いやよッ!」
彼女の即答に、僕は戸惑う。
「…そうだなあ…それじゃ、届けは、そっちが書いて、こっちに送ってくれ。出しとくから」
彼女は僕の目を見ず、ただ頷く。
その頷きが何かの合図かのように、彼女を乗せた車が走り出す。
「アッ」
と、僕は、彼女のシルバーの傘を持っているのに気付く。
彼女を乗せた車は、呼び止めようとする僕に構わず走り去って行った…
彼女が残したシルバーの傘を持って、僕は、部屋へと戻る。
なんだか、部屋から色彩が消えている。
ほとんどの物を彼女は処分していた。
全ての思い出を消してしまいたかったのか…
それとも、自分が使っていた物を僕に使われるのが、よぽど嫌だったのか…
見事なまでに彼女は、彼女の気配を消し去って行った。
殺風景過ぎる部屋は、やたらと広く感じる。
なんとか、気を取り直してトイレに入ろうとして驚いた。
女性は別れる時には全ての物を持ち去って行くと聞いたことがあるけど、まさか、トイレのスリッパまでとは。
仕方がないので、古新聞を敷いて…
悲しみと虚しさが増してくる。
シルバーの傘だけが、彼女の残し物。
部屋の入口に立て掛けてあるシルバーの傘。
そのシルバーの傘が、何やら僕を睨んでいるように見える。
灰色の冷たい色と鋭利なフォルムが、僕を責めているように見える。
済まなかったなとは思うけど、僕だけが悪い訳じゃないだろう。
いつの間にか、すれ違った僕たち。
小さな不満が積み重なり、そして、崩落。
僕らは、生き埋めになり、息苦しくなり、罵り合い。
どちらかが浮気したとかなら、仕方ないかと思うかもしれないけど…
そんなことすら無いのに、すれ違っていった二人。
あんなに好き合って一緒になったと思っていたのに…
”こんな日って来るんだな…”
数日後、彼女からの手紙が届く。
白い封筒。
裏を返すと、差出人の名前だけ。
苗字のない、名前だけ。
外は相変わらずの春の長雨。
冷たい雨が降っている。
僕は、彼女のシルバーの傘をさして市役所へ。
少し古びた建物。
敷地内には小さな庭があり、その庭の片隅に桜の木が一本ある。
冷たい雨に耐えるように、桜の木が佇んでいる。
市役所の中に入る。
その係までの通路は…
なんだか、やたらと長く感じる。
係のカウンターで、
「あの…これ…」
と、僕が離婚届を差し出す。
係の女性は、サッと、それを受け取ると、
「しばらく、お待ちください」
何やらパソコンに打ち込むと、
「はい。受理致しました」
「あの…」
「他に何か?」
「いえ…別に…」
見事なまでに事務的に受理された離婚届。
あっけないものである。
それもそうだなあ…
係の人が、いちいち同情するわけにもいかないだろう。
余りの呆気なさに、僕は思わず笑った。
すると…
僕の中で、何かが吹っ切れた。
僕の背後にあった、何かぬるっとした得体の知れない何かを、事務員さんの無機質的で事務的対応が、その得体の知れない何かを、まるで、大きなナタのような物でバッサリと切り落としてくれたような…
そんな不思議な感覚。
何か、取りつかれていた物から解き放たれたかのような…
この瞬間…
これは…
きっと…
終わりじゃなく、始まりなんだ。
市役所の玄関。
外は冷たい雨。
来た時よりも強くなっている。
シルバーの傘を取ろうとするが、その手を止める。
僕は、覚悟を決め、思いっきり、降りしきる雨の中に飛び出した。
市役所の玄関の傘立てに残されたシルバーの傘。
残されたシルバーの傘。
ガラス越しに、庭に佇む桜の木が見える。
春の長雨の中、静かに佇む桜の木。
昨日まで固かった花の蕾が、今日は少しほころび始めている。
冷たい春の雨の中…
ほころび始めている…
木洩れ陽の詩 @halunatuakihuyu
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