第5話

 魔女シュリー・デュヴァルの浄化、もとい処刑が行われてから二週の月日が経とうとしていた。グランタスの街は平和そのものだった、住民は苦しみを覚えることは無かったし食べ物に困ることもない。

 今のところは。


 それというのも街に呪いを掛けていたはずの魔女がいなくなったというのに、作物は不作だった。実がならないわけではないのだが、例年に比べると麦の粒は小さくそして少ない。

 他も同様、芋も小ぶりなものしか収穫できず中は水っぽい出来だった。葉野菜も変わらない、瑞々しさはなく色も悪い。これに農家が不満を覚えないわけがない、呪いは去ったはずなのにどうしてこんなことになるのだ、と彼らは教会に詰め寄った。


 しかし教会の司祭ペトロスは一切取り乱すことなく、ゆっくりと落ち着いた口調で彼らにこう語ったのである。


「量が少なく実が小さくとも、実は成りました。これは神の愛が私達に向けられた証拠であります。麦だけではなく植物というものは大地から活力を得ることで花を咲かせ、実を付けるものです。


今の今までは巧妙に親愛なる隣人の皮を被った悪しき魔女、シュリー・デュヴァルの呪いにより私達の作物は地から活力を得ることが出来ずに育てなかったのです。そのままでは実を付けることはおろか、枯れることは必然でしたでしょう。ところが魔女が浄化されてからの二週間、良いですか? たったの二週間ですよ。このたったの、二週間で作物は実をつけたのです。


私は学校で作物についても学んでおりました。二週前まで、魔女がまだ居た頃はとてもではないですが実を付けられるような状態では無かったことを見ております。それが実をつけたとなれば正に神の御業という他ありません」


 殆どの農家は司祭の言葉に納得し、大きく首を縦に振っていた。中には疑問を抱く者もいたのだが、司祭ペトロスは中央の神学校を卒業しておりこの街で最も学のある人間である。

 その彼がこう言い切るのだから、疑いを持った少数も納得せざるを得なかった。


 さらに二週の時が過ぎ、魔女が火に清められてから一ヶ月が経った。

 不作不漁は変わらず続いていたが、年が明ければ良くなるだろうと根拠のない希望を人々は抱いていたためさして気に留められることはなくなっていた。

 しかし街を襲っていた疫病は沈静の気配を見せないどころか、拡大の一途を辿り始めたのである。咳や熱にうなされる者の数が増え、老人や乳児などの体力のないものは天に召されてゆく。


 年老いたものや幼いものは少しの風邪でも死んでしまうものだということは皆知っており、それらの人々が亡くなってしまっても悲しくはあったが恐怖はなかったのである。

 これも度々やってくるちょっとした流行り病に過ぎず、魔女がいなくなったのだからそのうち治まるだろう。誰もがそうやって楽観していた。


 ところがついに健康なものまで帰らぬ人となってしまった。彼は若い大工で肌は日に焼けて筋骨逞しく、病とは無縁に思われたものである。そんな者まで倒れてしまったとなれば街の人々の間にある疑念が生じてしまうのも無理はないことだ。

 魔女はまだいるのではないか。シュリー・デュヴァルは死んだ、清められた。しかし彼女の残した悪しき魔力はまだ街の中に漂って、我々を苦しめているのではないだろうか。


 この若い大工の死を切欠とし、二週前と同じく街の人々は教会へと押しかけた。住人がやってくる度にペトロス司祭は経典に記された教えを説き、人々に祈りを捧げる様に伝えて忍耐を求めた。

 けれども疫病は治まる気配を見せようともしない。一人また一人と病に臥せってゆく、教会に寄せる人々の顔色も一日また一日と過ぎる度に鬼気迫るものへと変わっていく。


 当初は平静でいられたペトロス司祭もこうなってくると冷静ではいられない。住民たちが安寧を得られるよう、変わらずに教えを説きはするのだが額には汗が滲んで瞳の焦点も合わなくなる事が増えた。

 グランタスの街にもはや平穏はない、日常は戻ってこなかった。デュヴァル夫人が火刑に処される以前の狂奔の影が舞い戻りつつある。


 そんな最中の休校日にアラム少年は親に行き先も告げずに出掛けると、教師のマヌエラの家へと訪れる。事前に約束もせずにやって来たアラムだったが、戸を叩くと彼女は用を訊く前に少年を招き入れていまや貴重となりつつある茶を淹れてくれたのだった。

 カップから漂う芳醇な香りに鼻腔を擽られながらも、アラムは手を伸ばそうとしなかった。椅子に座りながら俯いている。時折、顔を上げては何かを言おうとして唇を開くのだがそこまでで、何も言わないままにまた口を閉じては俯くということばかりを繰り返す。


 マヌエラ女史はそんなアラムをただ黙って見ていた。促すこともせず、彼に付き合って彼女も茶には手を付けない。そのうちカップを漂っていた湯気は消えて、中の茶は水と同じ程度に冷たくなる。

 その頃になってようやくアラムはカップに口をつけ、その温度に意を決して押し留め続けていた問いを発した。


「本当に……魔女は、いるんですか?」


 誰かに問い続けたかった、けれど出してしまえばどうなるか。予測の付かない恐怖から出せずにいたものを、声だけでなく全身を小刻みに震わせながら今ようやく吐き出せた。

 問われたマヌエラは静かにそれを受け止めて、すぐに返事はしなかった。彼女もまた冷たくなった冷たくなってしまった茶に口をつけたっぷりと間を置いてから少年に問い返す。


「あなたはどう思うの?」


 アラムは言葉で答えない、首を振って彼女に答える。


「ここには他に誰もいない、外で聞き耳を立てる人もいません。そういう事はね、ちゃあんと言葉にして口に出さないといけません。胸がつかえているのでしょう? 苦しいのでしょう? ならそれをここで吐き出してしまいなさい」


 少年は唾を飲み込んだ。マヌエラを信じている、彼女はここでの事を決して他言しない確信もある。それでも難しい、胸の奥底に押し込んで蓋をし続けていた。取り出すのにも時間が掛かる。

 さらに数分の時間を使ってからアラムは肩の力を抜いて顔を上げ、そして首を横に振った。


「魔女なんてものはいないと思います。みんな怖いだけなんだ、悪いことしてないのに祈りを捧げているのに良くないことばかりが起きて、どうしようもなくて分からなくて。だから誰かのせいにして仕方なくて、全部そいつのせいだってことにして安心したいだけなんだ」


 長いこと押さえつけていたせいだろう、アラムの言葉は大きく早かった。言い終えた後で本人もそれに気づいて狼狽しかけたが、泰然としているマヌエラのおかげでそれは避けられた。

 出し終えるとマヌエラの言うとおり、苦しみは少なくなって胸中の重さもなくなっていた。けれど完全にではない、喉の奥に粘り気のあるものが引っかかっているような気がする。


 それも出してしまいたいのではあるが、言葉に出来るほど明確な形を持っているものでもなく、アラムにもまたそれを形にできるだけの語彙力を持ってはいなかった。

 マヌエラは瞬きもせずに真っ直ぐにアラムを見据えて、少年を否定するのではなくむしろ肯定しているのだと伝えるように頷く。


「そうね、あなたの言うとおりだと思います。前にも話したことをあなたは覚えていましたね、今も覚えていることだと思います。この街を襲う災厄と呼べるものは何てことのない自然の摂理なのです。

古代から今に至るまでの歴史を紐解いてゆけば、魔女などという迷信に寄るものなどでは決してなく、自然の流れだということはすぐにわかります。それが長く続かないことも――」

「でも先生!」


 まだ続けようとしていたマヌエラの話をアラムは遮った。それでもマヌエラは彼を咎めないし、遮られたまま話を中断すると少年に話すように促すのだった。


「街の人たちはみんなそんなこと知ってるはずです、だって僕が先生から教えてもらったみたいに誰かから教えられているはずですよ。なのにどうしてシュリーおばさんを殺して、今も教会に押し寄せ司祭様に詰め寄っているんですか?」

「それはね……」


 続けようとするマヌエラだったが、出しかけた言葉を飲み込んで目を伏せた。少年

は憤り嘆きながらも瞳には輝きがある、彼は未来への希望を信じ続けているのだ。

 それが分かっているからこそマヌエラは言葉を選ぼうとした、誤魔化そうとも考えた。だがこの少年はそんなことをしても喜びはしないし、いとも容易く看破しそして悲しむだろう。


 だからマヌエラは誤魔化さず、言葉を選ぶことも良しとしないことにした。アラム少年には包み隠すほうが害だろうと考えてのことだった。


「分かっていて目を背けているのですよ。自然が相手では人間など無力なのです、本能的に分かっているのです。けれどそうは思いたくない、何とかして事態を好転させたい。でもできない、だから人は意味など無いと心の奥底で知りながら魔女狩りを行うのです」

「違う、違う。そんなはずなんてないのです……」


 少年は必死になって首を横に振った。マヌエラの言う事を信じたくない、彼女はきっと己を試しているのだ、これは試験なのだ。肯定してはいけないものであり、肯定したくもない。

 だからアラムはただひたすらに、違う、と連呼し続けた。


「恐怖から逃げようとして道を踏み外す、恐怖は人の目を曇らせる。安心したから人は藁にもすがる思いで、有り得ないと知りながらも迷信などというものに飛びつくのですよ。あなたはまだ大人ではありませんから、受け入れたくないかもしれませんがこれが人というものなのです」

「そんな、そんなはずありません……。経典には目に見えない恐怖と戦う聖人のお話があります、これは人間は恐怖と立ち向かえるという証拠ではないのですか?」


 マヌエラは悲しみの青を帯びた溜息を吐き出して首を横に振る。


「それはね、多くの人々は恐怖と立ち向かえないというお話なのですよ。何故その方は聖人になれたのですか、目に見えない恐怖と立ち向かえたからです。普通の人はそれができない、だからこそ聖人に列せられたということなのですよ。それにねアラム、あなただって怖いことから逃げ出したくって楽になりたいから私を訪ねた。違いますか?」


 胸に刺さった、氷のように冷たく薄い刃物に背から胸を貫かれたかのようだった。冷たさとも痛みにも似た感触が左胸を中心に、じわりじわりと全身に広がって血管の一本一本が縮んでゆく。

 言われて気づいたのだ、その通りだと気づいたのだ。おかしくなっていく周囲に耐え切れず、狂気に落ちてゆく近隣の人々が怖くて仕方ない。周りに合わせて流れてゆけば楽になるのだろう、けどそれは怖かった。


 かといって我慢し続けるだけの強さもアラムには備わっていなかった。どちらの道に進むこともできず、悩み葛藤する、その苦しみから逃げようとしてマヌエラのもとを訪ねたのだ。それが事実だ、しかしアラムは言われるまで無意識のうちに目を逸らして気づかないようにしていたのである。

 否定したかった、そんなことはないと答えたかった。僕はそんな弱い人間ではありません、声を大にして主張したいが出来るわけがなかった。少年を見つめる教師の瞳は透き通って、何もかもを映し出す鏡のよう。そこに写るアラムの姿のなんと小さなことか。


 強がりたい気持ちはあるが、己の中にそんな気持ちが存在するということが惨めに思えてくる。喉の渇きが急速に強くなっていくのを感じつつ、アラムは頷いた。

 その通りです、自分は怖くて仕方がないのです。楽になりたくてここに来たのです。

 何も言わずに立ち上がったマヌエラはアラムの隣へとやって来た。無言のまま、彼女は少年を見下ろす。アラム少年にはそんな彼女がとても大きなものに見え、ただ縮こまる。


「そうですよ、それで良いのです。どんなに素晴らしい聖人であったとしても最初はただの人として生まれてくるもの。自分のうちにある無意識の内に目を逸らし、隠していたものを自覚することが大事なのです」


 言葉と共にマヌエラはアラムの体を抱きしめた。少年の頭が谷間に埋まる、否が応にも彼女が女性であることを自覚させられ羞恥で顔が赤くなる。そんな意図は無いと知りつつ、マヌエラから離れようとするが彼女は離してくれなかった。

 母ではない女性の腕の中は母のものより柔らかく、そして熱い。彼女の体温が伝わり、体内へと染み入ってくるようだ。アラムは抵抗するのを止めて彼女に身を委ねる。

 抱きしめてくる腕の力が緩まって、彼女の手がアラムの頭を撫でた。


「怖いと感じるのを恥じることはありませんよ、誰だって怖いものは恐いのです。でもずっと怖がらなければならないようなこと、この世の中にはありません。楽しい時間がいつまでも続かないように、怖い時間だっていつまでも続くことはないのです」


 頭上から注がれる柔らかな言葉は耳からではなく、直に頭の中へと入ってくるようだった。アラムは黙って教師の言葉を受け入れ、腕の中で頷いた。


「先生は……聖女みたいだ」


 アラムの口から零れたそれは小さなものだったが、二人きりの静かな空間だ。マヌエラの耳ははっきりとこれを捕らえ、彼女は照れを隠すために小さく笑う。


「私は聖女とは程遠いですよ、ただの教師です」


 またもアラムは頷いた。

 マヌエラの体は熱いが心地がよい、彼女に抱きしめられていると元気が湧いてくる。恐怖が消え去るわけではないが、その恐怖に立ち向かおうという活力が生まれてくる。


 丸まっていた背筋は意識させずともに伸びてきて、マヌエラに何と言って話してもらおうかと考えているとカラスの鳴き声がした。大きい、距離は近い。

 これにマヌエラも驚き、アラムから腕を放す。二人は同時に鳴き声のしたところを見た。そこは台所の窓で、桟の所に一羽の真っ黒なカラスが止まっていた。


「ほらあっちにいけ! ここにはあんたのエサなんてないんだよ」


 マヌエラが駆け寄り手を振るとカラスは羽をひとつ残して飛び去った。

 カラスは特に警戒心が強い鳥のはず。なのに不思議なこともあるものだとアラムは首を傾げ、マヌエラは台所に出したままになっていたものを慌てて片付け始める。


「えーっと……あんまり長居しても迷惑なってしまうし、親を心配させてしまうので帰ろうと思います。ありがとうございました」


 椅子から立ち上がって頭を下げた、ほんとはもっと言うべきことがあるのだろう。けれど予期せぬ闖入者のおかげで口にしようとしていたことは吹き飛んでしまった。


「このぐらいならお安い御用よ。気をつけて帰りなさい、それではまた学校で会いましょう」


 最後にまた一礼してからアラムはマヌエラの家を後にした。

 帰り道、石畳を歩く足取りは軽かったし背筋もピンと伸びていた。すれ違う人々の浮かない顔を見ていると不安を感じてしまうところはやはりあったが、それもいつかは終わるのだ。

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