第4話
嘔吐した後の事をアラムは良く覚えていなかった。マヌエラ女史が背中を撫でてくれたのは覚えていた、スタンレーを初めとした仲の良い友人が心配してくれた事も覚えている。なのだが、どこか夢の中にいるような非現実感が肌に纏わりついていた。
気分の悪さも長くは続かず、胃液で焼かれた喉の痛みと口内の酸味は尾を引いていたが然したるものではない。ただ本調子には戻れない、教卓に戻るマヌエラ女史の背を眺めているときもぼんやりとしていた。
授業が始まり、内容は頭に入ってきてくれたし受け答えにも問題はなかった。問いを投げかけられればすぐに答えることはできたし、わからないことはわからないと素直に言うことができた。
普段と同じのはずなのだ。いつもと変わらぬ日常を送れているはずなのだ、アラム自身の振る舞いは変わらない。自覚もある。なのに何かが違っていた、その違いについて考えるたびに鼻腔の奥で肉が焼けるにおいが蘇った。
結局、その日は一日に渡ってそんな調子だった。ただ体に染み付いている習慣があるのだろうか、半ば夢のようだったとはいえ周囲のアラムへの態度は日頃と大きな違いはない。もちろん朝一番に教室で嘔吐してしまっているので気遣われることはあったが、非難する者はいなかったし冗談の種にされることもなかった。
一日中アラム少年に纏わりついていた非現実感が消失したのは帰る頃になってから。マヌエラ女史が生徒たちより一足早く、教室を後にすると共に嘘のように消えてしまった。それが不思議だったのけれど、アラムは一日を終えたことからくる一種の開放感がそうさせたのだと考えた。
そして帰り道、アラムは友人スタンレーと肩を並べて当て所なく街を歩く。昨夜の出来事、デュヴァル夫人が火刑に処されたことについて話すためだ。もちろん誰にも聞かれてはならない、だから人気のない場所を探していたのだがそんな場所は中々見つからない。
少年たちの一日はほぼほぼ終わっていたが、大人は違う。街の人々が家路に着くには時間があり、街のどこにいっても日々の営みが行われていた。ある者は精力的にある者は気だるそうに、時に話を交わしながら大人たちは働いている。
アラムとスタンレーの二人は耳に入ってくる大人たちの話に注意していたわけではないが、誰も昨晩の話をしていないことに気が付いた。衝撃的な大事件の直後だというのに、まるで無かった事かのように過ごしている彼らがアラムには不思議でならない。
「魔女だからだろ」
そんなアラムの内心を見透かしたスタンレーはぽつりと零すように言った。アラムは苛立ちを隠せずについスタンレーを睨み付けてしまう。彼だって本当はわかっている筈なのに、そんな事を言うのが許せなかった。
「本当はそんなこと思ってないくせに、口にするのはやめろよ」
このアラムの非難にスタンレーは「悪い」と一言呟くと友人から視線を逸らした。
「そんなことは……思ってないよ。けど口にしないのはそう、タブーなんだよ。きっと、ね。もう終わったけれど魔女の話をするのは怖いのさ」
スタンレーはアラムを向こうとしなかった、彼の言葉を聞きながらアラムは俯いて自分の足先を見ながらとぼとぼと歩く。
「でも僕らみたいな人は他にもいるはずだ、そんな人なら……シュリーおばさんの話ぐらいしたって良いと思う」
「できるわけないだろ」
スタンレーの返事は早かった。アラムが顔を上げるとスタンレーが足を止めたので、アラムも合わせて歩みを止める。スタンレーは辺りを見渡して、誰も自分たちに注意を向けていないのを知ってから続きを口にした。
「もしおばさんの話をしてみろよ、魔女に誘われたって決めつけらるに違いないぜ。そしたら次に炙られるのはそいつだ、お前だってあんな風に黒焦げになりたくなんてないだろう?」
同意の頷きをするしかなかった。スタンレーの言う事はもっともで、その通りなのだろうとと思いもしている。だからといって納得できるかどうか、というのは別の話だった。
そこから二人の会話はなかった、どこを目指すわけでもなくかといって帰路に着く気も起きない。友人という間柄ではあるけれども無言の間が続くのは辛い、互いに話題を出そうとして口を開きかけはするものの喉から出てくることはない。
アラムもスタンレーも、頭の中に浮かんでくるのはデュヴァル夫人に関することだ。その話をするために今こうして歩いているのではあるが、一時的に暗い話題は避けたい気分になっている。とはいえ二人して沈んでしまっている現状であり、上向きになれる話題は思い浮かばない。
時間と歩く距離だけが増えて行き、気づけばデュヴァル夫人の邸宅へと来てしまっていた。アラムもスタンレーもここを目指していたわけではなくむしろ逆で避けたい場所だったのだが、かえってそのために意識してしまった結果、足はこの場所へと向かっていたのだった。
嫌な所に来てしまったわけだが、二人はそのまま通り過ぎるべきだった。だが陰鬱に覆われていた二人は歩みを止めてしまった。離れたい、素直にそう思ったのだが鉛と化した足は重い。
朝は夫人の私財を運び出す役人と、その作業を眺める野次馬とで賑わっていたが今は閑散としてしまっていた。アラム達が学業に励んでいる間に役人達は仕事を追えたらしく、屋敷から漂う雰囲気も空虚なものとなっている。
また役人達の仕事は丁寧と呼べるものではなく、家財道具等を運び出すときに付いたと見られる傷もあり、何があったのか幾つかの窓も壊れている。こういったこともあり、デュヴァル邸宅はうら寂しい廃墟の様相を呈していた。
「まだ一日だっていうのに、こんなになっちまうんだなぁ」
感慨を覚えたかのように呟くスタンレーに、自分もそうだとアラムは頷いた。昨日、夫人が裁判に掛けられたその足で焼かれた時はこうではなかったはずだ。
主がいなくなってしまっただろうか、それとも家人でない者が無遠慮に上がりこみ収められていた数々の品を法と教会の権威の下に運び出してしまったせいだろうか。往年の優美さは今や見る影もない。
口にこそ出しはしなかったが二人は肩を並べてかつてのデュヴァル邸を想起していた。屋敷の姿だけではない、そこに住む人のことも。何かにつけて気にかけてくれ、ちょっとした手伝いを頼んだからという理由でお菓子を渡してくる夫人の事を思い出していた。
その夫人はもういない。悲痛の叫びと共に炭となったのを見ていた、黒い燃え滓同然の亡骸は墓地に納められてすらいないのだろう。何故ならば彼女は魔女の烙印を押されてしまった。
墓で眠るのを許されるのは神に敬虔な祈りを捧げ続けた信徒のみと定められている。魔女に天上での安息は許されない、きっとその亡骸は誰の目にも触れられないようにして、清めるために砕いて川へと流されたに違いなかった。
こうして夫人の事を思い出していると二人の胸中には寂しさと悲しさそして無力さが湧き上がってくる。胸の内にだけ留めようとはしても、抑え切れない感情は涙となって溢れて目尻に溜まってゆく。
溜まった涙を拭うのと、屋敷の扉が開くのはほぼ同時のことだった。無人と思い込んでいた屋敷から人が出てきたという驚きもあったが、それ以上に今の涙を見られやしなかっただろうかという恐れから体が跳ね上がる。
中から出てきたのは司祭だった、彼は屋敷の前に二人の少年がいることに気づくとにこやかに笑みを投げかけるとともに穏やかな足取りで近づいてくる。司祭はこの街の男の中では背丈は低い方だし、肩幅も広いとはいえない小柄な男だ。髪は整髪料で総髪に整えてはいるが、全体的に丸みを帯びた体型で決して威圧感を与える風貌はしていない。
けれども二人は彼が恐ろしかった、笑みを浮かべているのがそれに拍車をかけている。この司祭は夫人を火あぶりにした張本人であり、街の人々にデュヴァル夫人が魔女だと喧伝したその人でもある。
だが幾ら恐ろしくたって相手は街一番の有力者だ。笑みを投げかけられたのならそれに返すよう、こちらも笑顔で返礼をしなければならないのだが二人はそれが出来なかった。
「こんにちはお二人さん。魔女の屋敷の前で何をしているんですか? 男の子ですからね、度胸試しでもしていたのではないですか?」
二人の前までやって来た司祭は首を傾げながら問いを投げかける。アラムもスタンレーも度胸試しでやって来たわけではないのだが、そういう事にしておいた方が良さそうだと二人して頷いた。
これに司祭は困ったように眉間に皺を寄せたが、怒っている風は無い。
「そうですね、私もあなた達ぐらいの年の頃には良くそうしていたものです。友達やちょっと気になる女の子に格好良い所を見せたい、そう思ってお化けをとっ捕まえてやるんだ、なんて言って廃屋の探検をしたものですよ。
それは決して良くないことです、でも大事な事でもあると私は思うのですね。だから二人がここにいる事を私は咎めません、ここまでは良いですね?」
司祭が二人の肩に手を置いた、アラムもスタンレーも頷くしかなかった。
これに司祭は満足を覚えたと見え笑顔を浮かべたのだが、その表情は人形のあるいは仮面のようであり、二人の背中に冷たいものが流れ落ちる。そのために肩がぶるりと震えてしまった。
「おや、震えてどうしましたか。あぁけど仕方ありませんね、昨日は遅くまで眠れなかったことでしょうしもしかしたら一睡も出来なかったとしてもおかしくない。どれ、顔を良く見せて下さいな。私の下には病に苦しむ方も来られますからね、医者ほどではなくとも多少は医術の心得を持っているのですよ」
司祭は二人の肩に手を置いたまま、少年達と視線の高さを合わせるために膝を曲げた。口元は相変わらず笑ったまま、目も細めた柔らかなものだがその向こう側にある眼光は鋭い。
僅かな異変、例えば嘘は決して見逃すまいとする審問官と全く同じ光り方をしていた。アラムもスタンレーもデュヴァル夫人に目を掛けてもらっていた、街ではそれなりに知られているはずだしこの司祭が知らないはずはない。
もしかして、もしかすると、疑われているのではないか。
掛けられる疑いを晴らすために少年二人は平静を装うと試みはしたものの、まだ未熟な彼らにそんな技量はない。普段通りに努めようとはしても、どうしたって顔は引き攣ってしまう。
司祭はそんな二人の顔の毛穴のひとつひとつまでをも観察するかのように眺め回した。顔を背けたくて仕方がない、だがここでそんな真似をしたならばどうなるか。異端あるいは魔女の烙印を押されてしまうのではないか。
そんな恐怖のために二人の足は小鹿のように震え始めたし、ズボンを濡らしてしまいそうな気さえした。
時間にすれば一分も無かった筈で、もしかすると一〇秒程度だったかもしれない。けれど司祭に見つめられている時間はもっと長く、一時間に及んだような気さえした。
「うん。二人とも病に触れられたわけではなさそうですね、足の震えや顔の強張りは場所が悪いからでしょう。何せここは魔女の住んでいた家の目の前、悪い魔女はいなくなってもまだまだ瘴気が漂うところですから当てられてしまったのでしょう」
少年達の肩から手が離れる、重みが無くなった事に安堵してつい息を漏らしてしまう。しまった、こんな事をすれば疑われるのではないか。二人は危惧したが、すぐに杞憂と知る。
司祭はそうとは取らなかったようで、腰の後ろで両手を組みながら満足げに頷いていた。
「まだ日が高いし遊び足りないとは思います、悪い魔女もいなくなって浮かれているでしょうけれど早く帰りなさい。魔女はいませんがその呪いはまだ悪さをしているかもしれませんからね、ご両親を安心させてあげるのも子供の大事な務めというものですよ」
司祭からこう言われてしまったからにはそうするしかない。それでも二人はすぐに足が動かず顔を見合わせた。まだ帰りたくはない、司祭が夫人の邸宅で何をしていたのかも気になる。
「あの……司祭様はここで何をされていたんですか?」
好奇心と突き動かしてくる何かに従いアラムは尋ねる、スタンレーは肘でアラムを小突いたが遅い。問われた司祭の表情は変わらなかった、目の色ひとつ変わりはしなかった。
けれども彼が纏う雰囲気だけが変わった、司祭に見られていると小さな針で肌を突かれているような気がする。
「聖職者としての務めを果たしていたのですよ。この家にはまだ呪いが残っているかもしれませんからね、お清めと呪物が残っていないか探していたのです」
神に仕える彼が嘘偽りを口にするとは思えないのだが、アラムは隠し事をされているような気がしてならない。だがこれ以上に問いを重ねるわけにもいかず、二人は司祭に礼を述べてから屋敷の前を離れた。
彼、司祭のことを話題に話したいアラムとスタンレーではあったが一言も発しはしなかった。後ろを振り返っても司祭の姿はないし、二人の話に聞き耳を立てているものがいるわけでもない。
それでも、話をすればバレてしまいそうな気がして二人は話せないのでいたのである。
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