第3話
息を切らし肩を上下させながら教室へと駆け込んだ。遅刻しているかもしれない、そう危惧していたのだがまだマヌエラ女史は来ていなかった。同年の学友たちは仲の良い者同士で集まり雑談に興じていた。
見慣れた朝の光景と遅刻しなかったことに安堵しながらアラム少年は席に座る。ようやく日常へと戻ってこれたような気がしていたが、それは錯覚に過ぎなかった。雑談に興じている学友の姿は普段と変わらぬもの、けれど聞こえてくる内容は普段と違う。
他愛のない世間話は毒にも薬にもならない冗談が飛び交うのがいつものこと、でも今日は違う。当然といえば当然のことなのだけれども、教室の到る所で昨晩の話が繰り広げられていた。
嘘か真か定かではないデュヴァル夫人の悪行を話す者、魔女の恐ろしさを語る者、火あぶりの光景を思い出しているもの。それぞれ内容は違えど、魔女シュリー・デュヴァルについて話していることは変わりがない。それらを種にしている学友たちの顔はいつもと変わらないのだ、あぁやっぱりここもなのか。
けどそれも教師がやってくるまでの事の筈だ、その時までは耐えるしかない。アラムは周りを見ないように机に突っ伏し、声が聞こえないように両手で耳を覆った。少し、ほんの少しだけ楽になる。
でもいつまでこうしていれば良いんだろうか、早く授業が始まってくれないだろうか。時間が早く流れてくれればよいのに、きつく瞼を閉じてただ時が過ぎるのを待っていると誰かが正面からアラムの肩を叩いた。
無視するわけにもいかず憂鬱になりながらも顔を上げる、そこにいたのは同い年のスタンレーである。彼とアラムは家が近いわけではないが、スタンレーもデュヴァル夫人に目をかけって貰っておりそういう共通点もあってか妙に気が合う仲だった。
肩を叩いたのがスタンレーだと分かるとアラムの肩からは少し力が抜ける。
「どうしたんだよ、元気に駆け込んできたと思ったら調子悪そうじゃないか。風邪引いたんだったら話しておくから早く帰ってくれよ、うつされたら堪ったもんじゃないからね」
「違う、違うんだよスタンレー。僕は風邪を引いてるわけじゃない、体は到って健康さ。でもね、そう……何ていったらいいのかな。あぁうん、そうだ。僕は気味が悪いんだ」
「気味が悪いって何がだい? 今日は天気も良いし風も強くない、教室のみんなも元気だ。気味が悪いだとかそんな風に感じることなんてなぁんにもないじゃないか」
スタンレーのこの言葉は本心ではないようだった、証拠にその声に抑揚は無かったし肩を竦めながらも教室を見渡して周囲の視線に注意を払っている。釣られてアラムも教室を眺めてみたが、誰も二人を気に掛けている様子は無かった。
するとスタンレーはアラムと視線を合わせるように上体を曲げて机に両肘を突く。けどもアラムの顔は見ていない、変わらず教室全体を注視していた。
「昨日のことだろ……シュリーおばさんの……。あれは、嫌だよな……俺も気持ち悪かった……」
アラムはハッとしたように顔を上げた。スタンレーはそれに気付いた様子は無い、というよりもアラムを見ていなかった。彼は変わらず教室全体を気に掛けていたのである。
そんなスタンレーに対しアラムは安心と、同時に喜びを感じて知らずのうちに彼の右手を両手で握ると小声ながらに神に対しての祈りを捧げた。スタンレーにとっては予想の斜め上を行く反応であり、苦笑を浮かべるしかない。
「止してくれよ、そういうのじゃないだろう。俺も、あれは気持ち悪かった。お前もなんだよな?」
小声で尋ねられアラムは無言のまま小さく頷いた。大げさに動いたら人目を引く、たとえ同年の学友であろうとデュヴァル夫人の処刑に不審を念の抱いていることが知られてはならない。
仲間がいた喜びの興奮に大きくなりそうな声を抑えつつ、アラムは友人にそっと尋ねる。
「僕はシュリーおばさんが悪い人だとは思えないんだ……君も――」
そうなんだろう? そう続けたかったがスタンレーは突如立ち上がり腹を抱えて大きな声で笑い出す。当然、周囲の耳目が二人に集まる。アラムの心臓が跳ね上がった。
スタンレーが突然に笑い出したこともそうだし、何より注目を浴びたことで全身から汗が吹き出る。今の発言を誰かに聞かれていたら、そう思うだけで心臓は一拍するごとに音を大きくしていった。
けれどもスタンレーはおぼえるアラムを余所に、笑いながら肩を強く何度も何度も叩くのである。焦りもあって友人の行為の意図を考えることが出来ない、それがまたさらなる焦りを呼んだ。
「おいアラム、そんな冗談を言うならもうちょっと素振りを見せてくれよ。こっちだって笑う準備がいるじゃないか、いきなりそんな笑わされたら腹が痛くなるじゃないか」
もちろんアラムは冗談を言ったつもりは無い、真剣そのものだ。焦りと恐怖はあるけれど、友人には理解して欲しい。だから反論しようとするのだが、口を開こうとするとスタンレーは背中を叩いてきて声を出させてくれない。
眉間に皺を寄せながらスタンレーを睨みつけたが、彼の目は決して笑っていない。そこでようやく彼の意図に気付いたアラムは同じように笑ってみせた。
「冗談を言うのに前振りなんてする訳無いじゃないか、こっちは笑わせようとしてるのに。準備されたら笑えない、そうだろう?」
「だけどさアラム、さっきも言ったけどお腹が痛くなるじゃないか。そのことも少しは考えてくれたっていいじゃないか」
スタンレーはアラムの正面から横に回って肩を組み、その勢いのまま軽く髪を触れ合わせる。一度は集まった周囲の視線だが、よくある友達同士の馴れ合いに誰も興味を抱くことは無く誰も二人を見なくなっていた。
それを目ざとく確認した二人はほぼ同じく胸を撫で下ろす。
「おいアラム……ここでそんな事を言うんじゃない。みんなは昨日の事を良い事だと思ってるんだ、もしそう思ってないなんてことが知られたら今度は俺たちが魔女ってことになっちゃうだろ」
「あぁそうだ、そうだねスタンレー。僕の注意が足りなかった、今日はじめて自分と同じ人に出会えて少し舞い上がってしまったみたいだ」
「実を言うと俺もなんだ、本当はもっと話したい。だけど今ここじゃない、ここは場所も時間も悪すぎるよ。だから今日、一緒に帰らないか? 歩きながらだったら多分だけれど、俺たちの話に耳を傾ける人はいないと思うんだ」
「うん、そうだね。僕もそう思うよ、それが良いよ。ぜひそうしよう」
二人はまた室内をざっと見渡した後、真正面から向かい合って無言のまま頷きあった。そこで教室の外から足音が聞こえてきたのでスタンレーは自分の椅子に座り、扉が開かれてマヌエラ女史が入ってくる。
彼女は背筋を伸ばし教師の到来を告げるように足音を鳴らしながら教壇に立つ。そして教卓の上に両手を付きながら目を細め、教室全体を根目回した。厳しい視線にアラムだけでなく、教室全員の生徒の背筋が正される。
女史はこれを見ると満足げに頷くと肩から力を抜いた。それと共に教室全体の空気が張り詰めたものから柔らかなものに変わる。昨日の出来事、デュヴァル夫人の火刑が行われた翌日ではあるが教師の様子が変わらないことにアラムは胸を撫で下ろした。
しかし、それは早とちりに過ぎない。
「皆さん、おはようございます」
女史の挨拶に生徒一同が返事を返す、ここまでは日常だった。けれどここからは日常ではない、非日常が始まった。普段ならば女史による訓示が始まるところなのだが、彼女は教卓に手を付けたまま顔を俯けてしまう。
様子がおかしいことに生徒達はさざめき立ち、落ち着いていたアラムの胸中もざわめき始めた。女史は教室のどこにいても聞こえるほどの大きなため息を吐くと、重い頭を上げる。小声で話していた生徒たちが慌てて背筋を正して椅子に座りなおした。
「知らない者はいないと思いますが昨夜、デュヴァル夫人が火刑に処されました」
誰も声を上げることはしない。ただ黙って、居住まいを正したままマヌエラ女史へと視線を注ぐ。それを一身に受けながら、彼女は首を縦に動かしてから話を続けた。
「彼女は社交的な方でした、私もそうでしたが皆さんの中にもお付き合いをしていた方がおられると思います。ですが、彼女が火炙りになったことに対し疑問を抱く必要もなければ一片の哀れみを感じる必要もありません。
私たちの住むこの街、この地域は不運に見舞われ続けていました。愛をもってしても作物は実ることはなく、疫病が私たちを襲っていました。ですがそれも昨日で終わったのです。全ては魔女の仕業、呪いによるものだったのです。その魔女というのがデュヴァル夫人だったのです
彼女に良くしてもらっていた、という人もこの中にいるでしょう。もしかすると憤りを感じているかもしれません、悲しんでいるかもしれません。ですがそれは魔女の罠なのです、魔女は少年少女の肉体を材料に悪魔を呼ぶ秘薬を作ると書にあります。
そう、魔女シュリー・デュヴァルはあなた達のような少年少女を殺して薬にするために近づいていただけなのです。けれども悪い魔女はその正体を司祭様に看破され、神の力により清められた火により浄化されました。
魔女の脅威は去りました、不作も疫病もこの街を去るでしょう。苦しいことは過去となり、楽しく明るい未来が私たちを待っているのです。そしてこの未来は魔女を見破った司祭様、私たちの神の御業によるものです。ですので皆さん、司祭様へ感謝を神へ祈りを捧げましょう」
女史は胸の前で手を組むとゆっくりと目を閉じた、教室の皆はマヌエラ女史に続くように手を組んで目を閉じる。だがアラムはすぐにそれが出来ないでいた。
マヌエラ女史の言葉が信じられなかったのである。彼女の話は、彼女の本音とは到底思えなかった。どうようするあまり体まで震えそうだったが、理性の力で押さえつける。今、ここでそのような反応を見せればどうなるか、脳裏には真っ黒の人の形をした炭の映像が浮かび上がっていた。
不安に駆られたアラムは可能な限り最小の動きで首と瞳を動かしてスタンレーの様子を伺う。友人は生徒のほとんどがそうであるように、そうするのが当たり前といった風に目を瞑り祈りを捧げていた。
これを見たアラムは早鐘を打つ心臓に対し、静かにしろと語りかけながら皆の真似をしてぎゅっと目を瞑って手を組む。頭の中に浮かんでくるのは、落ち着け、という言葉だけで慣れ親しんだ祈りの文句は何一つとして浮かんでこなかった。
教卓に立つマヌエラ女史が祈りの言葉を紡ぎ始めた。大いなる神に対し日々の感謝を告げる言葉だ、彼女に続き教室中の生徒が祈りを唱える。安堵を覚えながらアラムも続けた。けれども安息は訪れない。
四方八方から見えない槍の穂先が突きつけられているような気がした。学友たちはそうだし、敬愛するマヌエラ女史に対してもスタンレーに対しても、見せ掛けだけかもしれないが平然と祈りを捧げられることに怖気を覚える。
デュヴァル夫人の事を考えてしまったせいだろうか、頭の中に昨夜の光景が再現された。石畳の上に真っ直ぐと立てられた丸太、そこに縛り付けられた夫人の姿。彼女の足元に堆く積み上げられた薪、立ち上る赤と黒に包まれて絶叫というには生ぬるい叫び声を思い出す。
映像だけでなく音と臭いも思い出すと耐えられなかった。肋骨の内が締め付けられる、腹の奥から酸味が込み上げて来る喉が焼ける。組んでいた手で口元を押さえた、吐いてはなるものかと喉に力を入れるが効果はない。
机の上に朝食が広がった。原型は無い、パンとスープと消化液が一体になったペースト状のものが酸い臭いを立ち上らせる。誰かが気づいて声を上げたが、アラムには遠いものに聞こえていたし音の輪郭もぼやけていて言葉として捉えられなかった。
耳だけでなく、目に見える景色も曇っている。嘔吐してしまった自身に呆然視ながらアラムは教室を見渡した。スタンレーは心配そうな視線を向けながら、何かできることはないかと探して首を左右に振っている。他の学友は種々様々だった。
近寄りはしないものの嘔吐したアラムを気遣う者もいたし、気遣いながらもそれとなく離れようとする者もいた、魔女の呪いだとわめきたてる者もいた。マヌエラ女史は騒然を収めるために声を荒げながらアラムの隣にやってくるとその背をさする。
アラムの頭は真っ白で、背中を撫でる女史の手にひやりとした冷たいものを感じながら、喉を遡ってきた半液体状の吐瀉物に視線を落としていた。
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