第2話
翌日の朝、アラム少年は鳥の囀りにパチリと目を覚ました。頭は寝ぼけておらず明瞭だったが、スッキリとしない。悪夢を見ていたわけではないが、脳裏には焼かれて黒焦げになったデュヴァル夫人の姿がこびりついてしまって離れてくれなかった。
空腹ということもあってか気持ち悪さを感じてはいたけれども、いつものようにベッドから降りて窓の鎧戸を開けた。街の空には雲ひとつ浮かんでいない快晴、爽やかな朝の空気を堪能しようと息を吸い込んでみたのだが逆に気分を滅入らせることになってしまった。
一夜明けたとはいえ、街の空気には今も肉の焼けた臭いが残っている。
けれども街はいつもと変わらぬ活気に溢れていた。商人たちの馬車が石畳の上を行き交い、露天商はまだ朝も早いというのに客を呼び込もうと声を張り上げている。部屋の窓から覗いただけでも街の住人は明るく、希望に満ち溢れているように思えた。
でもそれは、デュヴァル夫人の犠牲があったからである。
一晩経っても少年には夫人が魔女であったとは思えないし、ましてや殺される謂れがあるようには思えなかった。
浮かない気分のまま部屋を出ると、食卓には朝食のパンとスープが並べられていた。母は台所で何かしているようだったが、父の気配はない。もう仕事に出かけてしまったのだろう。
「おはようアラム。早く食事を済ませておくれ、でないといつまで経っても片付かないからね」
少年に気付いた母だったが、アラムの方を見ることは無く手を動かし続けている。急かす口調も、いつもと変わらない日常なのだがそれが帰って気味が悪い。
俯きながらも普段と同じように席に着き、祈りを捧げてからパンを千切りスープに浸して口に運ぶ。味はしなかった、それでも食べれば元気を取り戻せるだろうと食べ続けたが胃が膨れるだけだった。
普段以上の時間を使ってしまったが、アラム少年は食事を終えると食器を重ねて台所の母へと持ってゆく。いつもは食器を渡したらすぐに出かける準備をするのだが、アラム少年はじっと母を見る。
「もしかしてまだ不安なのかい? 安心しなさいな、あんたも見たとおり魔女は炎で清められたんだよ。心配することなんてなーんもありゃしない、マヌエラ先生のところに行って勉学に励むと良いんだよ」
頭を撫でる母の手は固く分厚くそして暖かい。変わらぬ温もりに安堵を覚えながらも、少年は母の目から視線を外さずに問う。
「ねぇ……シュリーおばさんは本当に魔女だったの……?」
母の顔が見る間に引きつり怒りの形相を覚えたかと思えば今にも泣きそうになり、冷たい床に膝を突くと少年の体を抱きしめる。あまりの強さに少年は痛みを感じると共に母を理解できずに困惑するしかない。
「どうしたの……? だ、だってシュリーおばさんが悪人には思えないんだ。おばさんはお金持ちで人にお金を貸していて、それをありがたがってる人がいるじゃないか。鍛冶屋のおじさんもシュリーおばさんにはお世話になってる、って言ってたのを聞いたことがあるんだよ」
少年の胸元に顔を埋めていた母だったが、この言葉に顔を上げた。少しばかり泣いたらしく目元が赤くなっていたが、今はもう安心したらしくいつもとそう変わらぬ顔に戻っている。
「そうだね、アラムの言うとおりだよ。デュヴァル夫人のおかげで助かったという人はいるかもしれない。けれどね、それ以上に苦しめられた人のほうが多いんだよ。借金の取立てが厳しくて、大事な道具を売った挙句に路頭を迷う羽目になった人も大勢いるんだ。金貸しをしているからって神の教えを本当に信じている善人がそこまでするわけないじゃないか、あの人は魔女さ」
「でも――」と口に仕掛けたがアラムは喉まで出掛かっていた言葉を飲み込んだ。
母の目が怖かった。大きく見開かれて瞬き一つしない、瞳の奥には小さく暗い光がある。はじめてみる母のその目に驚いたということもあり、少年は節目がちに「うん」と頷くしかなかった。
「よしよし、いい子だ。さぁ早く行かないとみんなの迷惑になってしまうからね、先生のところにいってらっしゃい。今日もあなたに神の加護がありますように」
母は目を閉じて祈りを捧げると少年の頬に口付けを一つ落とした。出かける前のいつもの儀式、何でもない行為のはずなのに背筋が粟立つようだった。
「わかった、それじゃあいってくる」
顔を上げて母を見るのが怖かった、母と同じ場所にいるのも怖かった。母の顔を見ないよう俯いたまま背を向けて、アラム少年は鞄を掴んで飛び出すように家の外へと出た。
朝の柔らかな光が全身に当たる、駆けるたびに石畳が音を鳴らす。擦れ違う街の人たちに挨拶を交わしながら学び屋へと向かう。
アラム少年の家から学校へと向かうためには街の広場を通る必要があった。昨日の今日だ、広場に一歩近づくたびに焼かれる夫人の姿が鮮明に思い出されていく。自然、足取りは重たく遅く。家を出てすぐは駆け足だったのに、いまや牛の歩みと化していた。
空を見上げた、まだ時間はありそうな気がする。遠回りになるが女史の家には必ずしも広場を通る必要はない、ぐるりと迂回すれば広場は通らなくて済む。
早足ならきっと時間には間に合うだろう。そう考えたアラム少年は広場に続く道から脇に逸れて別の路地へと入っていった。けれどもそれはそれで気が滅入ることになってしまった、もしかしたら広場を通り抜けたほうが気持ちは楽だったかもしれない。
火刑の現場を通りたくない一心でつい忘れてしまったが、回り道をするとデュヴァル家の前を通ることになる。そこに辿り着くまでそのことが頭から抜けてしまっていた。
裕福なだけあって夫人の邸宅は他の家よりか一回り大きなもので、今その玄関前には大人達が集まっていた。ほとんどが野次馬で、彼等は役人が邸宅から夫人の私物を運び出すのを興味深げに眺めている。魔女がどんな品物を持っていたのかが気になるのだろう。
早く通り過ぎてしまいたかったが気が重たく、足取りも重い。歩こうという気持ちだけはあるのだが、アラム少年は野次馬の作る人垣の一番外側でついに足を止めてしまった。見たい訳でもないのに視線は夫人の邸宅へと向かう。
玄関は大きく開け放たれたままで、何人もの役人が出入りをしあらゆる品を運び出していた。夫人の愛用していた衣服や装飾品や家財道具など、何もかもが持ち出されて馬車の荷台へと載せてゆく。嵩張るものも多く、役人たちは息を切らせながら作業を進めていて何故かそれを教会の司祭が満足げに眺めていたのが印象的だった。
どうして運び出してしまうのだろう、シュリーおばさんにだって親戚はいる。理由は何であれ、彼女が亡くなったのなら彼女の持ち物は親族のものになるはずではないのだろうか。遺産はどこへ行くのだろうか、少年の中に疑問が湧き上がった。
けれども答えを導き出せそうにない、それでも考えられるのを止められずかといって視線を逸らすことも出来ずに少年は野次馬の中に紛れる。
一人の役人がそんな少年の姿に気付くと親しげに片手を挙げながら近づいてきた。彼の名はニコルソンといってアラムのご近所さんだった。少年とは一〇ほど歳が離れており、ニコルソンが役人になる前までアラムはよく彼と遊んでもらっていた。
「よぉアラムじゃないか、お前こんな所で道草くってちゃダメじゃないか。お前は勉強しなきゃならん時期だ、寄り道する時間はないだろう」
口ではそう言いながらもニコルソンの口調に咎める様子はない。いつものアラムなら元気良く挨拶を返すのだが、とてもできずにただ会釈するに留まった。これにニコルソンは小首を傾げる。
「どうしたアラム? 元気ないじゃないか、もしかして友達にでもいじめられたのかぁ? だったら遠慮なく俺の言えよ、なんたって俺ぁこの街の警邏だからな。可愛いお前をいじめるやつがいたら代わりにぶちのめしてやる」
軽く笑いながら握り拳を作ったニコルソンを見て、アラムは違うそうじゃないと首を振る。これにニコルソンは小首を傾げたが、すぐに合点がいったとばかりに手を叩いてからアラムの髪型が崩れるほどに強く撫でた。
「昨日のアレは刺激が強かったんだなぁ、けれど心配するようなことはなぁんにもない。魔女はいなくなったんだ、もう良くない事が起きることはない。安心しろアラム、呪いはなくなったしお前に悪さするヤツがいたら俺がとっちめてやるからな」
アラムの背筋が震えた。ニコルソンも心の底から、本当にそう思っているのだ。自分一人だけが取り残されてしまったような感覚、自分が間違っているのではないかという気さえする。
二本の足は確かに地面の上に立っている、その地面は石畳に覆われた強固なもの。けれどアラムは泥の中に沈み込んでいくような錯覚を覚えていた。胃が揺さぶられて食べたばかりのパンとスープがこみ上げて来るようで手で口元を覆う。
「おい、どうしたアラム? 大丈夫か? 何なら家まで送ってやるぞ」
ニコルソンの広い手がアラムの背中をさするが、少年はこれを拒否するように一歩前に出て首を横に振る。
「違います、そうじゃないんです……。大丈夫、です……」
これを言うだけで精一杯だった、ニコルソンに振り向くことなくアラムは真っ直ぐに駆け出した。向かった先は自宅ではなく、学校だ。気分の悪さはあったが、不思議と走っているうちに楽になっていた。
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