怖いのは幽霊、危ないのは人間

脇役筆頭

偶然が傘無って締った話

今日はとてもついていた。驚くほどに。


人気のない真っ暗な道路をにやつかないように気を張りながら歩く。一万円の紳士傘は使っていても特に使いやすさは感じさせないが、安物ビニール傘は使いにくさを感じさせてくるから不思議だ。いなくなって初めて気がつく何か、とはこのことだろう。


開けた視界に不安を覚えつつ最低限濡れないようにし、自分がこれから歩く道を注視する。深夜の黒い道路は穴のようで、歩道から足を滑らせたら真っ逆さまに落ちていってしまいそうだった。


遠くに白い光が見えた。ぎょっとして、足を止めて目を凝らすと、正面から歩いてくる人影がぼんやり確認できた。傘をさしつつ片手で器用にスマホをいじっているようだ。


思わずため息がでる。驚かせないでくれ。車やほかの人がいないことを確認した後、通行人の邪魔にならないよう車道側ギリギリを隠れるように歩く。足を滑らせるな、落ちたら死ぬ。


少し歩き、やっとのことで家についた。マンションの階段の近くにある部屋の傘立てに、ビニール傘を勝手に刺す。しばしお別れだ。


誰かに見つからないようその場を去り、階段を静かに上る。息を殺しながら近隣住民に気づかれないように…。そして上りすぎた階段をゆっくりと下る。誰もいない。…雨なのに何やっているんだか。


玄関に辿り着き、周りに人の気配がないか確認した後、からの傘立ての下からこっそり家の鍵を拾い上げる。誰にも見られてないよな?鍵を落とさなければこんなことしなくて済んだのに…。本当に今日はとても運がいいな。


夜遅くに申し訳なく思いながら、鍵をゆっくり刺して物音立てずに家に上がる。重い脚から生暖かい靴を脱がし、私の気持ちのようにぐっしょり濡れた上着とともに手に持つ。


さすがに1駅分歩くのはきつかった。靴から湯気がたち、その距離を物語っている。雨ということもあり、後悔がより強くなる。気づくのが遅かった自分と終電が憎い。


電気がついて近隣の人に気付かれまいと、真っ暗のまま部屋を移動できるようになっていた。慣れとは恐ろしいもので、まるで忍者やスパイのようだ。コツは静かに歩こうとしないこと。変に力が入り不自然な物音がでる。体の力を抜くことを意識するといい。


私の疲れ切った体は癒しを求めている。心身ともに削れ、今にも死んでしまいそう。極上の癒しが必要なのだから、これはしょうがないこと。そう言い聞かせながら少し濡れたズボンを脱ぎ捨て靴と上着も脇に置き、湿った服を着たままベッドにダイブする。


体を受け止めるのは低反発の敷布団と自我が飛びそうなほどのいい匂い。私はこのために生きてきたんだろう。枕に顔をうずめ大きく息を吸い、疲れが吹っ飛ぶのを実感する。意識が飛ばなくてよかった。枕元にいる機械仕掛けのぬいぐるみの頭を撫で、ゆっくりと目を閉じる。


風の音と雨の音が聞こえる。窓が開いている?まあいいか。自然たちが静かに奏でる音楽に耳を澄ませる。車の走行音が聞こえ、水溜まりで独特の音を出す。この音は好きだ。


ああ、寝てはだめだ。深い…ベッドが。とても…深い。だめだ…。あ…そうだ…歯を磨こう……。そしたら……。意識とともに体が沈み込む。


まるで黒い道路に落ちていくかのように。


意識が飛びかけたところで、パキッと家が音を立てた。心霊現象ともいわれているのを聞いたことがあったが、家の内外の気圧差によるものとか、その辺の科学的何かが原因だろうとぼんやり考える。


思考は睡眠の敵だ。…敵の敵は味方。疲れた頭で思考を巡らせていく。


幽霊。


こんな真っ暗な家を歩き回っているのだから、案外出くわしたりして。先ほどの遠くに見えた白い光を思い出し、幽霊がでたら多分道を譲るのだろうなと珍しく笑みがこぼれる。幽霊も歩きスマホをするのだろうか。


瞬間。


とても小さな音だ。普段なら気にも留めないような。しかし、明らかな音が部屋の外から聞こえ、体がこわばる。部屋の扉にゆっくりと視線を移す。鼻を…すすった?


いや、疲れていたし、聞き間違いだろう。


うん、きっとそうだ。


…。


私は音を立てないように深く、深く深呼吸をし、別のことを考える。


相変わらず、いい匂いだ。


…。


深く深呼吸って頭痛が痛いみたいだよな。


…。


幽霊も雨で風邪をひくのだろうか?


…。


あ、雨だから体温が下がって鼻をすすった?


ん、いや、これは別のことじゃない、関連することだ。


動揺している。


落ち着け、私。私以外が真っ暗なままのこの部屋を動けるわけがない…幽霊以外。


重い体を起こし、怯えるなんてらしくもないと気持ちを切り替える。そうだ、歯でも磨こうか。


ゆっくり、ゆっくりと立ち上がりながらも音を聞き逃さないよう、何も見逃さないよう神経をとがらせる。


『もし、おばけに会ったらどうする?』

『もし?機会があったらフレ申でもしてログイン状況を共有してもらうわ!』

『いやお化けはずっとログアウトしてるだろw』


くだらない友人の会話。面白くもないが、その場にいたならば手をたたいて笑うだろう。実際に一人になってみて、自分はこの程度で怖気づいてしまう人間だったのかと恥ずかしく思う。


いや、もし居たとしても、フレンド申請してしまえば後で笑い話に、会話に自然と入ることができ…。できない、そう、いるはずがないんだ。


気持ちが落ち着いたので体から力を抜き洗面所に足を運ぶ。トイレと洗面所は外に光が漏れない場所だ。そこなら電気をつけられる。


割り切ったような口ぶりなのに、なんだかんだ言って怖がっている自分が少し情けなく思えた。


静かに息をのむ。


正面から誰も来ないよう願いながら廊下に顔を出す。


…。


実際は出そうとして思いとどまった。振り返り、ズボンをはく。濡れたズボン。そして何が来てもいいようにネクタイをほどき端を両手に巻く。幽霊など素早く絞め殺してやる。


廊下には誰もいない。玄関の方も。


ではこのまま洗面所…うぅ、なぜトイレが半開きなのだ。というかなぜ水回りはこうも恐怖を駆り立てるのだろうか。運の悪い?ことに、いや、運のいいことに、洗面所の正面にトイレがある。覚悟を決め、呼吸で音を立てないよう浅く息をする。ゆっくりとのぞき込んでいく。そう、自分が幽霊かのようにだ。


よし、誰もいない。鏡には薄気味悪く風呂場が映っているのみで他は何も映っていないかった。鏡は心霊現象が起こりやすいイメージがあるが、暗闇だとそのことを本能的に感じ取ってしまう。今だけは見慣れた自分の不細工な顔に安堵する。


よし、じゃあ…と、電気をつけようとしたが思いとどまる。暗闇に目が慣れている状態で先にキッチンも見ておかなければ。誰もいないことを願いつつ、廊下の突き当り、玄関とは反対側のキッチンをのぞき込む。冷蔵庫がヴ―っと音を立てる。


ん?引き出しがすべて開いている。心霊現象?いや、ただの閉め忘れだろう。引き出しを開けていく幽霊なんて、むしろかわいいものだ。何かなくなっていたりして。


引き出しをのぞき込んでいると、背後で何かが動く気配がした。ぎょっとして振り返るが特に何も感じない。ネクタイを巻いた両手に力が入る。


後は…半開きのトイレ。


ここにきてトイレと洗面所が別々にあることを呪いたくなる。というかさっきよりドア開いてないか?いや気のせい?


わからないが、ここまで来たらあとはトイレだけだと、気を張る。トイレならば逃げ場はないし大丈夫。きっと。


一度ネクタイを巻き直し呼吸を整えてから、ゆっくりではなくスッとドアを開けて中に誰かいないかを確認する。やっとのことで安堵の息を漏らした。


誰もいない。


私だけ。


よく考えればいるはずないのだ。何をこんなに焦っているのやら。


振り返り…いや、こういう時お決まりなのは落ち着いたところで後ろから…。そういえばさっきも背後で動く気配がした。再び全身に力が入る。


杞憂。


背後にも誰もいなかった。


私だけじゃないか。


ばかばかしくなり洗面所の電気をつける。違和感がないようネクタイをしっかりと締めなおす。しかし、久しぶりにこんなに肝を冷やした。自分で言うのもおかしな話だが、いつもどっしりと構えているためお化け屋敷でもこんなに緊張しない。


私は笑みをこぼしながら、白い歯ブラシを手に取る。歯磨き粉はつけない。


匂いを嗅ぐとほんのりと歯磨き粉のにおいがした。それを口に運んで歯を磨き始めた時だった。


私の後ろ。


視界の端。


風呂場に屈む黒い覆面をかぶった男と鏡越しに目が合った。


私だけじゃない。


手を止めて瞬きをするが、男も目を見開いたままピクリとも動かない。私はゆっくりと口から歯ブラシをとり、そのまま元の場所に戻す。口のつばを飲み込み、気づかれないほど自然にポケットのスマホに手を伸ばしつつ振り返る。


男がいなくなることはなかった。誰だこの男は。記憶にない。


私はスマホで素早く緊急連絡から「11」と打つと男に向けて見せた。


「声を出すな。大きな動きをした瞬間に0を押す。」


落ち着いた声で囁いた。男は全く動かない。少しは動揺すると思ったのだが…。もしかして本物の幽霊だったり?


「覆面をゆっくり外せ。くれぐれも音を立てるな。」


合点がいった。こいつは土日にここら辺を妙に歩き回っていた男だ。髪は洗っていないのかぼさぼさで髭は生え散らかしている。こんな男、一度見ただけでも忘れない。ホームレスか何かか?しかし今は完全に空き巣、泥棒である。家だけでなく人権も失いたいようだ。


そうか、こいつが引き出しを開けたのか。


男は見るからに不健康そうで、凶器になりそうなものを所持、または隠し持っていないようだった。私の指示には怯えながら静かに従う。


しかし妙だな。はじめ見たときは風呂場にはいなかった。不安に思い、身体検査と称して体を触ってみたが、実体があった。そうか、何かが動いた気配はトイレから洗面所に…。


男は私の指示に従っている間も、一度も私から視線を逸らすことはなかった。目をこれでもかと見開き、口を堅く結んでいる。静かな部屋に雨の音と車が走る音が妙に大きく聞こえてきた。


窓もいつもしまっているのに開いていた。侵入は窓からだろう。二階ではあるが、この時間帯ならば目撃者なく忍び込める。実際に私も人がいないことを確認している。たまたま鍵が開いている家を見つけたから入ってしまったという感じか。冷蔵庫の物もつまみ食いしていそうだ。


私は大きなため息をつく。


「特に何かしてやろうというつもりはない。私はここで何も見ていない。あなたもここでは何もしていないし見ていない。わかったな?」


「…。」


無言だ。頷きもしない。私はスマホをポケットにしまい、再び囁きかける。


「通報はしないから反応してくれないか。何も見ていない。わかったな?」


「お前はなんなんだ。」


ひどくかすれた声。


ガチャガチャ。


突然玄関から音がし、背筋が凍り付く。


男の方を振り返るが微動だにせずにこちらを凝視している。


玄関がガチャリと開くと、長い黒髪が印象的な女性が入ってきて電気をつけた。それを見て思わず声が出る。


「ああ、そんな…。」


白い服を着た色白な女性が荷物を落とし、腰を抜かしたのかその場にへたり込む。


「え…。」


私はさわやかに笑いながらネクタイを静かにほどいた。

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怖いのは幽霊、危ないのは人間 脇役筆頭 @ahw1401

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