お化け電車の夜

尾八原ジュージ

お化け電車の夜

 真矢さんの娘が亡くなったのは、秋の終わりの寒い日のことだった。


 私が真矢さんとその娘の風佳ちゃんと知り合ったのは、近所の児童公園だった。私はそこを、自分の息子を遊ばせるために度々訪れていた。

 真矢さんは私よりも五歳上の、はきはきしたスタイルのいい女性だった。

 風佳ちゃんは生まれつき体が弱く、一生を病院で過ごすことになるだろうと言われたことさえあるという。その彼女が退院して公園をお散歩できるようになるまでには、真矢さん達家族の多大な献身があった。

 息子の拓と風佳ちゃんは、年齢こそ同じだったけれど、さほど仲がよかったわけではない。自分の体が弱いことをちゃんと知っていて、いつもベンチに大人しく座って日向ぼっこをしていた彼女が、拓のような力一杯遊ぶ男の子たちについていくはずはなかった。

 それでも私と真矢さんが仲良くなったのは、単にウマがあったからだ。私たちはいわゆるママ友である以前に、普通の友達だったのだ。

 風佳ちゃんはいつも可愛い服を着て、さらさらのストレートヘアーを華奢な肩に垂らしていた。テレビに出てきそうな整った顔をしていて、児童公園に集まるママ達の間では評判の美少女だった。

 その傍ではいつも真矢さんがニコニコしていた。並んで座る彼女たちは、平穏という言葉を絵に描いてそこに飾ったように見えた。

 噂の美少女が公園に現れなくなり、真矢さんともなかなか会えなくなってから三ヵ月ほどが経ったある日、私の元に訃報が届いた。

 突然公園に来なくなった病弱な女の子。どこかで予想できていたはずの死だったのに、それでもその知らせはとても私を驚かせた。風佳ちゃんはまだ四歳だった。


 私が通夜に駆け付けたとき、真矢さんは泣いてはいなかった。表情というものがすべて死に絶えてしまったような顔をしていた。

「もうずっと悪かったから。ようやくしんどいのが終わったなって感じ」

 ひさしぶりに会った真矢さんは、カサカサした声で言った。急に体重が落ちて、なんだか半透明になったみたいに存在感が薄くなっていた。喪服のジャケットのボタンをかけ違えている。私はそのことを指摘しそこねた。

「真矢さん、大丈夫?」

「うん」

「ちゃんとご飯食べてる?」

「うん」

 彼女に何と声をかけたらよかったのだろう。その日、私は逃げるように家に帰った。玄関のドアを開けると、廊下の奥から拓が顔を出したところだった。

「ママ、へんな顔してる」

 不思議そうな顔をしてそう言った。

 そうするまいと決めていたのに、私は息子の前で泣いた。自分の子供が元気に生きているということは何と尊いんだろう。真矢さんはどんなに辛いだろうか。

 次の日、私は拓と一緒に葬儀に参列した。拓は普段の様子とはうって変わって大人しく、大人の真似をして焼香をした。

 真矢さんは水を飲む鳥のおもちゃみたいに、弔問客にお辞儀を繰り返していた。

 風佳ちゃんはお気に入りの熊さんのぬいぐるみと、フードにウサギの耳がついた白いコートと一緒に、小さな棺に収まっていた。コートはまだ新品のようだった。きっと真矢さんが、「冬になったらこれを着ようね」と言って、愛娘を励ましたものだろう。記憶の中にいる風佳ちゃんよりも、ワンサイズ大きなコートだった。

 それらの愛らしい品物と一緒に、彼女は小さなお骨になって、ちんまりとした骨壺に入った。よく晴れた日曜の正午だった。


 葬儀が終わってからも、私は真矢さんに会わなかった。

 正直に言えば、会わないように心がけていたのだ。拓は日に日に成長して元気に跳ね回っていた。私たち親子の平和な姿を見せることが、もしかすると彼女を傷つけはしないだろうかと思うと怖かった。

 とはいえ、私たちの住む小さな町では、買い物をする場所にも限りがある。いくら会わないようにしていても、一度くらいは見かけてもよさそうなものだ。だけど、真矢さんの姿を見ることはなかった。家に閉じ籠っているのかもしれなかった。

 夜中、「真矢さんの家に行ってみた方がいいかな」と考え出すと、その度に私は眠れなくなった。

 私たちはママ友を超えた友達のはずだった。はずだったのに、いざとなると私が何の役にも立てないのはどうしてだろう。もしかすると「役に立つ」と思っていること自体が思い上がりではないだろうか。

 思いきって休日の夫か、近くに住む姑に拓を預けて、彼女の家を訪ねることを何度かイメージしたこともあった。だけど、それを実行に移すための勇気は、やっぱり私にはないのだった。

 もどかしいまま、一ヵ月以上が経った。真矢さんからは何の連絡もなかった。

 季節はいつのまにか冬になっていた。私はクローゼットの奥からコートを引っ張り出し、リビングの床にホットカーペットを敷いた。

 リビングのテーブルの上には、昨日買ったばかりの小説があった。真矢さんと私は本の趣味が似ている。その小説は真矢さんの好きな作家の最新作だから、もしも彼女が自己申告した通りの「大丈夫」な状態なら、きっと私と同じ本を買っただろう。

 本の表紙を見ながら、ふとひさしぶりに、真矢さんに連絡をしてみようかなと思った。

「あの作家の新しい本出てたよ! もう読んだ?」と言ってみたら、真矢さんは何と返事をくれるだろう?

「知ってる! もう読んじゃったよ」

 と言われるだろうか。

「そんな場合じゃないって知ってるくせに。無神経なこと言わないでよ」

 なんて言われてしまったらどうしよう。

 結局、その日も何もしないうちに夜になった。寝息を立てている拓と夫に挟まれて、私はまた眠れずに考え事をしていた。いつまでもグズグズと悩んでいる自分に、いい加減嫌気がさしていた。

 気分を変えようとして、私はふたりを起こさないように起き上がった。部屋着の分厚いパーカーを羽織ってベランダに出ると、冷たい夜の空気があっという間に私の頬を冷やした。何となく、前よりもスッキリした頭でものを考えられるような気持ちになった。

 家の前の道路を歩いていく真矢さんを見つけたのは、その時だった。

 田舎町は静まり返って、人通りもまったくない。こんな時間に、彼女に急ぎ足で向かう行き先があるとは思えなかった。

 そのとき遠くの方で、踏切の音がした。私の胸に、ふと不吉な予感が芽生えた。

 私はストールを首に巻き付けると、携帯と家の鍵をパーカーのポケットに入れ、こっそりと家を出た。


 真矢さんは足早に、どんどん町外れへと歩いていった。やがて足を止めたところには、とっくに廃線になった、朽ちかけた無人駅と線路があった。

 真矢さんは真っ暗なプラットホームに立って、右手の方を眺めていた。街灯がひとつ、白く寒々しい光を駅の廃墟に投げかけていた。

「真矢さん!」

 私はようやく彼女に声をかけた。真矢さんはぱっとこちらを振り向いた。一ヵ月ぶりに見る彼女の顔は、やけに青白く見えた。

「えーっ、葵ちゃん? 何やってるの?」

 思いの外、普段と変わらないトーンの声が返ってきた。

 プラットホームの彼女に歩み寄りながら、私は同じことを聞き返した。

「真矢さんこそ、何やってるの?」

「いや、まず何? そのカッコ」

 こちらを見て、真矢さんはちょっと笑った。私は寝間着のスウェットの上下に、毛玉だらけのパーカーを着て、大判のストールをぐるぐると首に巻いただけで、言われてみれば恥ずかしくなるような格好だった。

「待って。寒いでしょ」

 真矢さんは身軽に走り去ると、近くの自動販売機で買ったらしいホットコーヒーの缶をふたつ持って帰ってきた。

「はい」

 そう言って温かい缶を差し出した彼女の顔を改めて近くで見たとき、その変わりように私は息を飲んだ。元々ほっそりしていた頬がげっそりとこけて、目の下に濃いクマが染み付いている。明るい口調からは思いもよらないその姿は、一気に十歳ほども老けたように見えた。

「……ありがとう」

「葵ちゃん、私を追いかけてきてくれたの?」

 真矢さんはそう言いながら、缶コーヒーの蓋を開けた。

「うん。うちのベランダから真矢さんが見えたから。どこに行くのかと思ったよ」

「そう。実は私ねぇ、お化けを見に来たの。お化け電車」

 あんまり真矢さんが何気なく言うので、私は「嘘だぁ」と笑うことも「何? それ」 と尋ねることもタイミングを逃して、ただ彼女の形のいい横顔を見つめていた。

「葵ちゃん、よそから引っ越してきたから知らないよね。この廃線ね、こっちにセレモニーホールがあって、こっちに大きなお寺があるの」

 真矢さんは右から左に、ほっそりした指を動かした。

「もうずいぶん昔……私が子供の頃に廃線になっちゃってそのままなんだけど、その頃から噂があったの。真夜中に、火葬場からお寺まで、死んだ人を乗せた電車が通るっていう……へへへ、嘘みたいでしょう」

「そんな……」

 うん、嘘みたい、と素直に言えず、私はコーヒーを飲んだ。ついさっき開けたばかりなのにもう冷め始めている。もう一本ずつ買えるよう、私も小銭入れくらい持ってくればよかった、と思った。

 真矢さんは私の顔をちらっと見ると、線路の方に向き直って話を続けた。

「でも私ね、昔一回だけ、姉と一緒に見たことがあるの。高校生の時、お祭りがあった夜に、ふたりでこの辺をぶらぶら歩いてたのね。そしたら、ぱっと線路の向こうの方が明るくなって、二両しかない、すごく古いデザインの電車が、ばーっと通り過ぎて行ったの。窓のところに私と同じ学校の制服着た女の子がいて、一瞬だけど妙に目に焼き付いたのね。ちょうどそのちょっと前に、私と同じ学校に通ってた女の子が、原付で事故って亡くなったんだけど、きっとその子だって思ったの」

 私は相槌も打たずに、バカみたいに真矢さんの顔を見ているだけだった。彼女は私の方を向いて急に寂しそうな表情になると、「ほんとに見たんだよ」と笑い混じりに呟いた。

 私は慌てて「疑ってないよ。びっくりしただけ」と言った。

「じゃあ真矢さん、そのお化け電車を見に来たの?」

 私が尋ねると、彼女は思い切ったようにうなずいた。

「うん。実は、風佳が死んじゃってから何度も来たの。一回も見えなかったけど」

「そうなんだ……」

「今日、四十九日だったから。今日見られなかったらもうやめようと思って、最後のつもりで来たの」

「そっか……」

 それからしばらく、私は真矢さんと並んでコーヒーを啜りながら、廃駅のプラットホームに立っていた。辺りには誰の姿もなく、近くを通りすぎる車もなかった。しばらくして携帯の画面を見ると、日付が変わっていた。

「もうこんな時間」

「ほんと。終わっちゃったな、四十九日。もう一回風佳に会いたかった」

 真矢さんが寂しそうに呟いたその時だった。

 右手の奥、線路の続く向こうに、ぽつりと明かりがふたつ灯った。

「ねぇ、真矢さん。あれ……」

「あ」

 見る間に電車は近づいてきた。もう今はどこでも見られないような古めかしい車体は、カタンカタンと思いの外軽やかな音を立てて、確かに実体をもって線路を走ってくるように思えた。

 真矢さんの手から落ちたコーヒーの空き缶が、ホームに当たってはっとするような音を立てた。彼女は電車に向かって両手を振り回していた。

「ふうちゃーん! ふうちゃーん!」

 プラットホームに、真矢さんの声が響き渡った。

 私も慌てて缶を置くと、夢中で両手を振りながら電車に向かって叫んだ。

「ふうかちゃーん! ママがいるよー!」

 私たちの前を、二両編成の電車はあっという間に通りすぎた。その一瞬のうちに、私はその車窓から手を振る、とても可愛い小さな女の子を、確かに見た。

 電車は見る間に遠ざかり、やがてテールランプも見えなくなったその方向を、私たちは呆けたように見つめて立ち尽くしていた。

 突然、真矢さんが私に抱きついた。

「葵ちゃん! 風佳がいたよ! ウサちゃんのコート着てた! 私に手を振ってたよ! ねぇ、見たよね!?」

 彼女は私にしがみついたまま、すごく嬉しいことがあった子供みたいにぴょんぴょん跳ねた。

「楽しそうだった! 全然苦しそうじゃなかったよ! ニコニコしてた! よかったぁ!」

 そう言うと突然、真矢さんは子供みたいに大声をあげて泣き始めた。風佳ちゃんが亡くなってから、初めて見た真矢さんの涙だった。

 私も彼女と一緒に泣いた。コートの下の真矢さんの体には確かに厚みがあって、とても暖かかった。


 私たちは涙をふきふき、鼻水を啜りながら家路についた。妙に晴れやかな気持ちになっていたのは、どうやら私だけではないらしかった。

「あー、よかった。今夜、葵ちゃんが一緒にいてくれて」

 真矢さんは憑き物が落ちたような顔でそう言った。

「そう?」

「うん! 追っかけてきてくれて嬉しかった。ありがとね」

 別にいいよ、友達だもんと言いかけたけれど、さすがに気恥ずかしくなってやめた。

 次の日、私は熱を出した。明らかに夜、いい加減な格好で出歩いたのが原因だった。真矢さんがお見舞いに来て、拓の面倒を見てくれた。

「葵ちゃん、大丈夫? ご飯食べてる?」

「何とか。真矢さんもご飯食べてる?」

「うん。食べてる」

 ほんの少し暖かみの戻ってきた顔で、真矢さんは笑った。


 廃線は不思議と撤去されず、まだ町外れにある。

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