書名だけの白紙の本

@J2130

第1話

「白紙の本があるの…中身のない書名だけの本が…」


名前はKさんとしよう、数年前に少しだけつきあった本好きの彼女はそう言った。


「もちろん…ここにね」

 とまどう僕の目をみながら、Kさんは自分の頭のあたりをきれいな人差し指でさした。


「この中にね、白紙の本がたくさんあるの‥きっと堀さんの“そこ”にもあるよ…」

「そう…そうなの…?」

「うん、そこにはね、書名も中身もある本もたくさんたくさんある…」

「そう…?」

 僕はまだよくわからなかった。


「例えば『小学校の運動会』とか『家族旅行Ⅱ』とか書名がついた本がね、もう中身も書いてあって本棚に入っているの…」


「……」

「それでね、たまにちょっとしたときに開いて読み返すの。本を開くきっかけは人それぞれ、いろいろだけれどもね…」


「それって思い出ってこと?」

 なんとなく理解して僕はKさんに訊いてみた。おそらく当たっているだろう。


「中身のあるほうの本はね、そう」

「それじゃ書名だけの白紙の本って…?」

「ないの? 堀さんには…。私にはあるよ、たくさんたくさん」


「たくさん?」

「そう…『転職大作戦』とか『アロマセラピスト物語』とか、『海外移住計画とか…」


 今度もなんとなく理解して僕はKさんに訊いてみる。おそらく当たっているだろう

「それって夢とか、予定なんかかな?」

 小首をかしげてにっこり笑いながらKさんは頷いた。


「うん、だから私のここには本がたくさんたくさんあるの…、すでに書かれたものも、これから書くものもね…」


 ここで彼女は言葉を切った。すこし眉間にしわをよせて考えるしぐさをした。僕にはKさんが今まさに、彼女の頭の中の本棚をざっと眺めているように見えた。


「ただね、みんなそうかもしれないけれどサブストーリーが多いいの…、その多さに圧倒されて大抵の人はメインストーリーを書かない。書かないどころかその本を開きもしない。書名だっていつのまにか薄くなって、今では何という本だか、どこの本棚にしまったのか忘れてしまうくらい…」


 あいかわらずの厳しい表情のまま、彼女は話した。

 声のトーンも少し低い感じがした。

「私はね、もう自分のメインストーリーに集中しようって思うんだ…、その本を久しぶりに本棚からひっぱりだして開いて書き進めるって決めたの…」

“決めたの…”と言った彼女はすでに元の明るい笑顔だった。


「ねえ、堀さんのメインストーリーは何?」

「え?」

 応えられなかった。でもKさんはかまわず続けた。

「いつかその本を読み返すんだよ。その時なんであの時こう書かなかったんだって思いたい? まだ書いてあればいいほうだよ、作者に開かれもせず書かれてもいない、そんな書名だけの白紙の本、読みたいと思う?」


「私はね、それが挫折やなんであろうと自分のメインストーリー、自分が主役の本がいつか読みたいし、読み返したい!」


「自分のストーリーは自分しか書けないんだよ。どんなに不器用で、もどかしくて、切ない物語だとしても自分でしか書けない…。

それに、決して他人に書かせてもいけない…、だってその本の主役も作者も自分なんだから…」。


 そんな会話をしてしばらく後、Kさんは会社と僕との付き合いをほぼ同時にやめた。


 彼女の本棚のどの本に僕のことが書かれているのか気になるが、これからの彼女のメインストーリーに僕は入れなかったようだ。

 でも、その時以来、僕の頭の中にもたくさんの本が並ぶようになった。

 いいことなのかどうかわからないけれど…。


 そしてKさんに訊かれて応えられなかったあの問いもまた本と同じように残った。

「ねえ、堀さんのメインストーリーは何?」


 メインストーリー…


 子供のころ夢見、憧れたもの。だけど無理とわかりあきらめたもの。大人になり世の中を知り、また別のそれを持ったが忙しさや怠惰のために一歩も踏み出せていないもの…。

でもね、あったよKさん、書名も薄くて本棚の奥に隠れていたけれど…。書くよ自分でね、まだ今は数行しか書いていないけれど。


 どこにいるのかわからない、見えない彼女に僕はあのときの応えを返す。

「Kさん、僕のメインストーリーはね…」

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