第70話(下) 雨音姉さんとも?

 雨音姉さんが布団の上の俺の目を覗き込んだ。

 ストレートのきれいな黒髪がふわりと垂れて、俺の頭にかすかに触れる。


 白っぽいワンピース姿をしている。


「体調は良くなったみたいだけど、でも、念のため誰かが晴人君のそばについていてあげないとね」


 玲衣さんと夏帆がびくっと震える。

 そして、身を乗り出して、「わたしが看病します!」「あたしが晴人と一緒にいる!」と勢い込んで言った。


 その様子を見て、雨音姉さんは首を横に振った。


「二人とも失格」


「ど、どうしてですか?」


 玲衣さんの問いかけに、雨音姉さんはふふっと笑った。


「だって、あなたたち二人とも晴人を寝かさないでしょ? ちゃんと休ませてあげないといけないのに、逆効果になっちゃうもの」


「そ、そんなこと……ありません」


 と言いながらも、玲衣さんの声はちょっと小さかった。


 もともと俺が倒れたのも、玲衣さんと夏帆が風呂場で裸になって俺にくっついてきたことが原因だった。


 二人が俺の部屋に残れば、きっとまた騒動になる気がする。


「だから、晴人君の面倒は私が見るから」


「ええっ。そんなぁ」


 夏帆が残念そうにしていたけれど、雨音姉さんは気にしたふうもなく「こういうのは、晴人君のお姉さん役の私の特権だから」と言って、にやりと笑った。


 しぶしぶといった感じで玲衣さんと夏帆の二人が退場すると、雨音姉さんはくすっと笑って俺を見つめると、静かに俺の横に腰を下ろした。


 そして、カバンからペーパーバックの洋書を取り出して読み始めた。


 その本の表紙には外国の王様風の絵が書かれていて、"The Daughter of Time"というタイトルが白色の文字で綴られている。


「それ、何の本?」


「イギリスの推理小説。歴史ミステリの傑作なんだそうだけど、知らない?」


 俺は首を横に振った。


 俺もそれなりに推理小説には詳しいほうだと思っていたけれど、それほど海外作品をたくさん読んでいるわけでもない。


「晴人君もまだまだね」

 

 そう言って雨音姉さんは微笑むと、ふたたび本に目を落とした。

 俺が安静に休めるように気をつかってくれているのだろう。


 普段の雨音姉さんは夏帆たち以上にハイテンションだったりする。

 けれど、こうして静かに本を読んでいると、大人の女性っぽいというか、とても清楚な雰囲気だ。


 俺が思わず見とれていると、雨音姉さんが「なに?」とくすっと笑って、こちらを振り向いた。


「私に見とれてた?」


「そういうわけじゃ……ないよ」


「ホントかな?」


 俺は何も言わず、布団の毛布にくるまり、目をそらした。


「そういえば、私も晴人君と一緒にお風呂に入ったことあるよね?」


「あったっけ?」


「覚えているくせに」


 雨音姉さんの言うとおり、俺ははっきりと覚えていた。

 俺が十一歳で、雨音姉さんが十六歳の女子高生のときだ。


 あの頃の雨音姉さんは火事で両親を亡くしたばかりで、その心の傷を埋めるように俺にかまっていた。

 地元のお祭に行くときも、カラオケに行くときも、廃墟に探検しに行くときも、いつも雨音姉さんは俺を引き連れていた。

 だから、雨音姉さんの友達からもかなりかまわれ、からかわれた気がする。


 そうした頃に、雨音姉さんは俺と一緒に風呂にまで入ろうとしたのだ。

 十六歳の美少女だった雨音姉さんはもう十分に大人びた体つきをしていた。


 俺が顔を真っ赤にするのを見て、雨音姉さんは楽しそうに笑い、俺の身体を洗っていた。

 

「また一緒に入ってみる?」


「えっ、そんなわけにはいかないよ」


 俺がびっくりして言うと、雨音姉さんは「冗談。晴人君にはもう水琴さんと夏帆がいるものね。私なんかがいなくても」と言い、目を伏せて、寂しそうに笑った。


 なんだか悪いことを言ったような気がしてきた。

 俺は戸惑いながら、小声で言った。


「えっと、一緒に入りたくないというわけじゃなくて……」


「私と一緒にお風呂に入りたいの?」


「まあ、うん。雨音姉さんがよければ……俺は一緒に入りたい……と思う」


 その瞬間、雨音姉さんが表情をころっと変え、目を輝かせた。


「そっか。晴人君は私と身体の洗いっこをしたいんだ!」


「え? いや、そんなことは言ってないけど……」


「じゃあ、今度、一緒にここの大浴場に入ろう!」


 雨音姉さんはとてもいい笑顔で、布団の俺の肩を軽く叩いた。

 なんだか、はめられたような気がする。


「晴人君は優しいよね」


「雨音姉さん……俺をからかってる?」


「晴人君が優しいと思うのは本当だよ? 晴人君の優しさがなかったら、高校生の私は壊れちゃってたと思うから」


 そう言って、雨音姉さんは昔を懐かしむように瞳を閉じた。

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