第58話 琴音
アパートの玄関から外に出てみると、冬空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。
「いい天気」
玲衣さんは嬉しそうにつぶやいて、大きく伸びをした。
外出用の私服に着替えた玲衣さんは、上半身は白いタートルネックのセーターで、それにプリーツスカートを合わせている。
俺の視線に気づいたのか、玲衣さんはくすっと笑った。
「晴人くん……いま、わたしの胸をエッチな目で見てたよね?」
「見てないよ」
「ホントに?」
玲衣さんは面白がるように、もう一度わざとらしく伸びをしてみせた。
思わず俺は赤面する。
タートルネックを着ていると、どうしても玲衣さんの胸の柔らかな膨らみが目立ってしまう。
後ろ手を組んで背をそらすと、なおさら身体のラインが強調されるのだ。
「嘘つき」
玲衣さんは軽やかな声で言い、青い瞳をいたずらっぽく輝かせた。
そして、手をおろすと、そっと俺に近寄り、俺の耳に口を近づけてささやく。
「一緒にお風呂だって入ったんだから、いまさら恥ずかしがらなくてもいいのに」
「そういう問題じゃないと思う……。それに、玲衣さんだって、変な目で見られるのは嫌かなって」
「ううん。他の人なら嫌かもしれないけど、晴人くんにならぜんぜん平気。ちょっと恥ずかしいけど……」
「ほら。やっぱり玲衣さんだって恥ずかしいんだよね」
「でも、晴人くんがわたしのことを女の子として意識してくれているんだって思えて、嬉しいの。だから、はっきりわたしの胸を見てたって言ってくれていいんだよ?」
上目遣いに玲衣さんが俺を見つめる。
そんなふうに純粋な目で見られると、嘘をつくのも罪悪感を感じてしまう。
結局、俺は正直に「すみません。見ていました」と白状した。
玲衣さんは「そっか」とつぶやき、綺麗に微笑んだ。
「なら、今度出かける時はもっと大胆な格好をしてあげる」
「いや、今日みたいな感じでいいよ。もう十分可愛いから」
「か、可愛い? ほんと?」
「嘘のわけがないよ」
十人の人に尋ねれば十人とも、今の玲衣さんのことを素晴らしい美少女だというだろう。
もともと玲衣さんは学校でも女神と呼ばれるぐらい有名な美人だ。
しかも今日はすごく気合を入れて服装を選び、外見に気を使っているみたいだった。
「だって、晴人くんがデートに誘ってくれたんだもの」
恥ずかしそうに玲衣さんは頬を染めて言った。
玲衣さんは俺とのデートなんかをこんなに喜んでくれて、こんなに大事にしてくれている。
なら、俺もその期待に応えるようにしないといけない。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
玲衣さんは勢いよくうなずいた。
今度こそ、目的の水族館に行けるはずだ。
夏帆は「水琴さんだけずるい」と悔しそうにしていたけれど、前からの約束だったということで最終的には納得してくれた。
雨音姉さんは「頑張ってね」とにやにやしながら言い、むしろ俺たちを積極的に出かけさせようとしていた。
俺がアパートの階段を降りようとすると、玲衣さんが俺を引き止めた。
「待って」
「どうしたの? 玲衣さん?」
「その……手をつないでほしいの」
「今から」
「ダメ?」
「ダメじゃないけど、水族館につくまではだいぶあるけど……」
「我慢できないもの。だから、ずっと手をつないでいたいの」
そう言うと、玲衣さんが甘えるように俺の手をとり、その白い指を絡めた。
玲衣さんのぬくもりが直接、手に伝わってくる。
このまま駅まで行って電車に乗るんだろうか?
ちょっと恥ずかしいけど、でも玲衣さんがそれで満足してくれるなら、全然問題ない。
それに、俺にとっても、こうして玲衣さんに甘えてもらえるのは嬉しいことだった。
俺がうなずくと、玲衣さんもこくりとうなずいた。
そして、俺たちは階段を降りていく。
これから俺たちは隣町まで二人で出かけるのだ
「本当に楽しみ」
玲衣さんが弾んだ声で言う。
それは俺も同じ気持ちだった。
一階に降りると、人影があった。
下の階の住人かなと思って、俺は気にせず通り過ぎようとする。
けれど、よく見ると、そこにいたのは、コートを羽織った少女だった。
コートの下には緑色のブレザーを着ている。
その制服は、川向うにある女子中学の制服だ。
俺も玲衣さんも足を止め、固まった。
黒いストレートの綺麗な髪を払い、少女は俺たちを見つめた。
「仲が良さそうですね。あれほど忠告したのに、姉さんはこの人にまだ未練があるのですか?」
少女は、玲衣さんに似た端正な顔に、不思議な雰囲気の微笑を浮かべた。
それは、誰もが心を惹かれるような素敵な表情だった。
けれど、その黒い大きな瞳には、かすかだけれど、俺たちに対する憎悪が混じっている。
彼女は玲衣さんの異母妹、遠見琴音だった。
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