第56話 晴人くんの味がする

 その日の夜、話し合いの結論どおりに俺と雨音姉さんが隣同士の布団で寝ることになった。


 いまは十二時を超えたぐらいで、帰国して間もない雨音姉さんはかなり疲れていたのか。ぐっすりと寝てしまっている。

 もう雨音姉さんはすっかり大人の女性といった雰囲気だけれど、パジャマは可愛らしいくまの柄の入ったシャツだった。


 ギャップで微笑ましくなるけど、俺が隣にいるのに、こんなに無防備でいいのかなとも思う。

 留学に行く前だって、俺たちは別々の部屋で寝ていたのに。


 俺は隣の布団に寝転がりながら、雨音姉さんの寝顔を眺める。

 

 こっちの部屋も隣の部屋も、寝るために明かりは消しているけど、いちおう常夜灯だけはつけている。


 雨音姉さんが寝返りを打つ。

 そして、「晴人君」と幸せそうな寝言をつぶやいた。


 俺も寝ることにしよう。

 

 頭から毛布にくるまり、俺は目をつぶった。

 けど、寝付けない。


 玲衣さんのこと、夏帆のこと、雨音姉さんのこと、そして、俺の父や、秋穂さん、そして遠見の家のこと。


 いろいろと考え、目が冴えてしまう。


 そのまま過ごすうちに、がさっと何かが動く音がした。

 誰か起きて、水でも飲みに行こうとしてるのかな?


 けれど、俺の想像は外れた。

 俺が毛布から顔を出すと、その人影は俺に覆いかぶさった。


 それは玲衣さんだった。

 俺がびっくりして動こうとすると、玲衣さんが俺の口に人差し指を当てた。


「騒がないで」


 俺は玲衣さんの人差し指の感触に心を乱されながら、その青い瞳を見つめた。

 玲衣さんは視線をそらすと、そっと俺に抱きついた。


「ど、どうしたの?」


 俺は玲衣さんに言いながら、気が気でなかった。

 雨音姉さんや夏帆が起きてくるかもしれない。


 それに、布団に仰向けになっている俺に対し、玲衣さんはうつ伏せになって、俺に密着している。


 玲衣さんはぴったりと俺の上に乗っていて、そのしなやかな脚の感触も、柔らかい胸の質感も、甘い吐息の熱さも、すべてそのまま伝わってくる。


 玲衣さんは瞳を潤ませていた。


「最近、晴人くんと話せてなくてさみしかったの」


「ええと、いつも一緒にいたような気がするけど」


「でも、佐々木さんもいるもの。だから、二人きりになれなくてさみしかったの」


 玲衣さんは俺の耳元でささやいた。

 そう言われると、たしかにそうかもしれない。


 夏帆がこの家に来てから、学校へ行くときや、食事をするときは、夏帆もだいたい一緒だった。


「だから、来ちゃった」


 恥ずかしそうに、玲衣さんが頬を染めた。

 いじらしく玲衣さんは俺を見つめた。


「良かったね。佐々木さんがお姉さんじゃないってわかって」


「うん」


「これで、晴人くんと佐々木さんは本物の彼氏彼女にもなれるんだよね?」


 不安そうに玲衣さんが目を伏せた。

 玲衣さんは俺のことを好きだと言ってくれた。


 俺が夏帆と付き合うんじゃないかと心配なんだと思う。


「いいと思うよ、わたしは」


「え?」


「晴人くんが佐々木さんのことを選ぶのは自然だもの。二人は幼馴染で、お互いのことをずっと知ってて、両思いなんでしょう? なら、そこにわたしが入りこむことなんてできないから」


「それは……どうなんだろう」


「きっとそうだよ。でもね、それでも、わたしは晴人くんのことが好きなの」


 玲衣さんは俺にすばやく顔を近づけ、そして俺の唇をそっと舐めた。

 自分の頬が赤くなるのを俺は感じた。


 玲衣さんはえへへと、泣きそうな顔で笑った。


「晴人くんの味がする」


「俺の味?」


「そう。わたしの好きな晴人くんの味がする。晴人くんも、わたしのことを舐めて」


「な、舐めるって、どこを?」


「どこでも。晴人くんの好きなところでいいよ」


 玲衣さんはいたずらっぽく、でも少し悲しそうに俺を見つめた。

 頬を真っ赤にしたまま、玲衣さんは「してくれないと、このままずっとこの布団にいるから」と言った。


 俺はしばらくためらい、それから玲衣さんにそっと顔を近づけた。

 びくっと、玲衣さんが震える。

 俺も同じように玲衣さんの唇を舐めると思ったのかもしれない。

 

 けれど、俺は玲衣さんの頬に舌で触れ。そのまま軽く舐めた。

 

「ひゃうっ」


 玲衣さんが甲高い嬌声をあげ、びくんとその身体がはねた。

 雨音姉さんや夏帆が起きてくるんじゃないかと心配になり、俺は慌てて玲衣さんの口を手で塞いだ。


 玲衣さんは苦しげに「んんっー!」とあえぎ、身をよじる。

 密着したままの俺と玲衣さんの身体がこすれ、俺も変な気分になってきた。

 

 幸い、二人は起きてこなかった。

 俺が手を離すと、玲衣さんが恨めしそうに俺を見る。


「晴人くんの意地悪……」


「ごめん。二人が起きてくるかもしれないと思ったから」


「許してあげない」


 玲衣さんは甘えるように、俺に頬を寄せる。


「わたし、晴人くんと一緒に寝たかったのに。晴人くんにとっては、雨音さんは家族なのかもしれないけど……。わたしも、晴人くんの家族になりたいの」


「ここは玲衣さんの家だし……玲衣さんはもう俺の家族だよ」


 俺は小さな声で言った。

 小声なのは恥ずかしかったからだけど、嘘を言ったつもりはなかった。


 玲衣さんが大きく青い瞳を見開き、そして嬉しそうに微笑んだ。


「ありがと」


「だから、遠見の家の問題も解決しよう」


 玲衣さんはこくりと小さくうなずいた。

 残された問題は、玲衣さんとその実家の遠見家との関係だった。


 玲衣さんの異母妹の遠見琴音をはじめ、遠見本家の人たちは玲衣さんのことを憎んでいる。


 だから、俺の家にいる玲衣さんを狙おうとするだろう。

 そうである限り、玲衣さんが安心してこの家を居場所だと思うことができない。


 夏帆が抱えていた問題は解決した。

 次は玲衣さんの番だ。


 俺が玲衣さんの手をそっと握ると、玲衣さんはぎゅっと力をこめて俺の手を握り返した。

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