第52話 夏帆の叔母

 準備室の扉が開き、俺たちはぎょっとした。

 鍵はかけておいたはずだ。


 慌てて夏帆が俺から唇を離す。

 相手が例えばユキであれば、まだ良かった。


 けど、そこにいたのは白衣を着た教師だった。


「なにをやっているのかしら? あなたたちは?」


 その女性教師は薄く笑っていた。

 化学の教師で、まだ二十代後半で若く、流れるような黒髪の清楚な容姿のため男子生徒たちから大人気だった。


 名前は……。


「佐々木先生」


 ぽつりと玲衣さんがつぶやく。

 そうだ。


 夏帆と同じ名字だ。

 といっても佐々木なんて名字、この町にも他にいくらでもいる。


 佐々木冬花。


 それがこの教師のフルネームだ。

 一学期にはこの教師がうちのクラスの化学の担当だったけれど、半年前から休職中だった。 

 だから名前を思い出すのに時間がかかった。 


「復職早々に、生徒が不純異性交遊をしているのを見てしまったわけね」


「久しぶりですね。佐々木先生」


「ええ。それにしても、水琴さんみたいに優秀な生徒が、秋原くんみたいな落ちこぼれと関わっているなんてね」


 佐々木先生の口ぶりは俺に非好意的だった。

 けど、俺は先生に嫌われるようなことを何もしていないどころか、ただ授業を受けていただけで接点がなかった。

 なのに、生徒のことをこんなふうに悪くいうだろうか?

 玲衣さんが口を尖らせる。


「晴人くんのことを悪く言わないでください!」


「……まあ、水琴さんのことはいいわ。それより問題は夏帆さんね」


 なんだかおかしな雰囲気だ。


 夏帆は瞳を曇らせ、さあっと顔を真っ青にしている。

 完全に怯えきっていた。


 どうしたんだろう?


 次の佐々木先生の言葉で、俺はその理由を理解した。


「まさか実の弟とキスをするなんてね。あれほど夏帆さんに、秋原くんはやめておきなさいって言ったのに」


 佐々木先生はさらりと言った。

 俺も玲衣さんも、そして夏帆も固まった。


 どうしてこの教師は、俺と夏帆の血縁疑惑を知っているんだろう?


「秋原くんたちは知らないでしょうけれど、私は夏帆さんの叔母なの」


「叔母?」


「ええ。夏帆さんの父親は、私の歳の離れた兄だったの。といっても、私の兄は、つまり死んでしまった信一兄さんは夏帆さんの実の父親ではないけれど」


 事態が飲み込めてきた。

 この人は夏帆の親戚なのだ。

 そして、俺の父と夏帆の母親の秋穂さんとの不倫を疑っている。


「誤解ですよ。俺の父は秋穂さんとそんなことをしていないって言ってます。だから、夏帆は俺の姉なんかじゃないです」


「動かぬ証拠があるわ。信一兄さんの血液型はO型なの。夏帆さんの血液型、知っているでしょう?」


 昔、小学生の夏帆が血液型占いにハマって、そのときに聞いたことがある。

 夏帆はAB型だったはずだ。


 そして、片親がO型なら、遺伝上、その子どもは決してAB型にはならないはずなのだ。


「それに、私は秋穂さんから聞いたの。夏帆さんの父親が、あなたのお父さんだってね」


 佐々木先生は端正な顔に薄笑いを浮かべていたが、その目は凍るように冷ややかだった。

 明らかに、佐々木先生は夏帆のことを憎悪のこもった目で見ていた。


 そして、先生は父さんの子どもである俺のことも、嫌っている。


「私は信一兄さんを裏切った人たちのことが許せないの。秋原和弥も佐々木秋穂も、信一兄さんの親友だったんでしょう? なのに兄さんを裏切って、子どもまで作ったわけ? それじゃ、死んじゃった信一兄さんがあまりに可哀想じゃない!」


「でも、仮にそれが真実だったとしても、それは俺たちの親のことで、俺たちの責任じゃないですよ」


「本当にそうかしら? 実の姉弟だって知りながら、キスをして身体を触れ合わせるあなたちも、似たようなものでしょう?」


 佐々木先生は激しい口調で言い切ったあと、はっと我にかえったように俺たちを見回した。

 そして、咳払いをする。


「今のは私個人の言葉。教師として、あなたたちに言えることはただ一つ。もう授業は始まっているわ。さっさと教室に戻りなさい!」


 佐々木先生はそう言うと、姿をさっと消した。

 短い時間だったけれど、佐々木先生の言葉が夏帆に与えた影響は、大きかった。


 夏帆はその場に崩れ落ちたのだ。


「夏帆!」


 慌てて俺が抱きとめると、夏帆が弱々しく微笑み、首を横に振った。


「わかったよね? あたしはやっぱり晴人のお姉さんなんだよ」


「佐々木先生が言ったとおりとは限らないよ」


「でも証拠があるもん。半年ぐらい前かな。あの人があたしに会いに来て、晴人があたしの弟だって教えてくれたの」


 だけど、俺の父は否定している。

 あとは最後の手段に出るしかない。


「夏帆のお母さんに聞いてみよう。本当のことを知っているのは、たぶん秋穂さんだけだから」


「そうだね。……でも、あたし、怖いの。本当のことを知るのが怖い」


 気持ちはわかる。

 もしかしたら、本当に夏帆の父親が俺の父かもしれないのだから。


 でも、怖がっていては進めない。


 問題の決着はこの一週間後になった。 

 秋原雨音が日本に戻ってきたのだ。

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