第42話 告白
秋原くんが好きかもしれない人って誰なんだろう、と水琴さんはかすれるような声でつぶやいた。
「どっちにしても、わたしの居場所はないんだよね。ううん。わたしは、もうこの町からいなくなるし、関係ないか」
「水琴さん、本当に東京の寮へ行くの?」
「もう決めたの。今日の夜に秋原くんのお父さんに電話するから」
「本当にそれでいいの?」
俺が見つめると、水琴さんは目をそらした。
水琴さんは首を横に振った。
「わたしだって、本当は秋原くんの家にずっといたいよ」
「なら、そうすればいいのに」
「でも、それはダメなの。秋原くんに迷惑をかけちゃう。遠見の人たちが、わたしが秋原との家にいることを許さないから」
「迷惑なんて気にしない」
「それは秋原くんが遠見の家の怖さを知らないから、そう言えるんだよ。あの人たちは、わたしと親しいってだけで、秋原くんのことも傷つけようとしてる」
「そんなの、全然、怖くないよ」
「ダメだよ。わたしのせいで、秋原くんが傷つくところなんて見たくない!」
「俺は……」
「だから、わたしに優しくしないで……!」
水琴さんはそう言うと、力いっぱい暴れて俺を振り払った。
まずい。
水琴さんは雨の中、坂道を駆け出した。
俺が慌てて追いかけると、水琴さんは交差点を左に曲がった。
そっちは交通量の多い国道だ。
しかも、冷静さを失った水琴さんは、信号が赤のままのことも確認していないみたいだった。
俺は顔を青くした。
土砂降りの雨の向こうから、タンクローリーが勢いよく走ってくる。
ちょうど道を渡ろうとしていた水琴さんはそれを見て、固まった。
恐怖で動けなくなっているのかもしれない。
水琴さんの震える身体に、タンクローリーは確実に迫っていた。
俺は反射的に飛び出した。
水琴さんを抱きかかえると、俺は反対側の歩道へと倒れ込んだ。
間一髪のところで、タンクローリーはそのまま道路を走り去っていった。
俺はほっとため息をつくと、真下の水琴さんを見下ろした。
俺も水琴さんも雨と泥でびしょびしょになっていてひどい格好だった。
俺は膝をついていて、仰向けの水琴さんを組み敷く形になっていた。
水琴さんが小さく嗚咽をもらしていた。
その瞳からは涙が流れている。
「どうして、わたしを助けたの?」
「助けないわけがないよ」
「晴人くんだって危なかったんだよ! ……わたし、あのまま死んじゃってもよかったのに」
「そんなこと言わないでよ」
「わたしは秋原くんに優しくされる価値なんてないの。わたしがいなければ、わたしのお父さんもお母さんも死ななかった」
水琴さんは泣きながらそう言った。
俺はゆっくりと水琴さんに尋ねた。
「どういうことか、教えてもらってもいい?」
俺は水琴さんの事情に立ち入らないようにしてきた。
他人だから、と思ってそうしてきた。
でも、もう水琴さんは他人じゃない。
俺の……大事な存在だ。
水琴さんはちょっとためらってから、ぽつぽつと話し始めた。
「わたしのお母さんはね、イギリス人とのハーフで、すごく美人だったの」
「まあ、水琴さんのお母さんなんだから、そうだろうね」
俺の言葉を聞いて、水琴さんは頬を赤らめた。
「秋原くん……そういうことを無自覚に言うの、良くないよ」
「無自覚じゃないよ。水琴さんが可愛いと思って、わざと言ってる」
水琴さんはますます顔を赤くして、視線をそらした。
恥ずかしがってる水琴さんは、ちょっとだけ元気を取り戻したみたいだった。
「えっと、あの、その、そうじゃなくて! ……わたしのお母さんは遠見家の当時の当主の愛人で、わたしはいわゆる私生児なの」
それで、水琴さんは母親の名字を使っているのか。
やっと事情が理解できた。
偽物のお嬢様、というのも、そういうことなんだろう。
愛人の娘であれば遠見家で歓迎される存在でなかったというのも想像がつく。
それでも、遠見家の令嬢であることは間違いないのだ。
「でもね、わたしのお父さんは奥さんより、わたしのお母さんのことのほうが好きだったみたい。わたしが小学生のときに、わたしとお母さんを連れて香港に行こうとしたの」
「駆け落ちってことだね」
「そういうことだと思う。だけど……」
香港行きの船が沈んだ。
たしか当時はかなりニュースになっていたはずだ。
俺も思い出した。
そして、水琴さんの両親は娘を助けようとして犠牲になった。
「だから、琴音は……わたしの妹は、すごくわたしのことを嫌ってる。ううん、琴音だけじゃない。遠見家の人はみんなわたしのことを憎んでるの。わたしとわたしのお母さんがいなければ、お父さんは死ななかったんだって」
「水琴さんのせいじゃないよ」
「でも、わたしが琴音の立場だったら、わたしのことを許せないって気持ち、わかる気がするの。わたしのお父さんは、琴音と琴音のお母さんじゃなくて、わたしとわたしのお母さんを選んだ。しかも、そのせいで死んじゃったんだから」
「俺は遠見家の人間じゃない。だから、俺は水琴さんの味方だよ。たとえ遠見家の人たちがどんなことを言おうと、どんなことをしようと」
水琴さんは首をふるふると横に振った。
「琴音は、わたしと秋原くんが一緒にいるのを許さないって言ってた。一人だけ幸せそうに、大事な人と一緒に住んでいるなんて、許せないって。だから、わたしがそばにいるかぎり、遠見家の力を使って、秋原くんのことも無茶苦茶に傷つけるって」
水琴さんはそう言うと、震えた。
俺たちは雨に打たれたまま、互いを見つめ合った。
そういうことか。
だから水琴さんは俺と恋人のフリをやめて、東京へ行くと言い始めていたのか。
俺はそんな脅迫をした遠見のお嬢様に怒りを感じたが、まずは目の前の水琴さんにどう言えば、説得できるかが問題だった。
水琴さんは小さな声で言う。
「遠見家は怖い。本当に怖いの。あんな怖い人たちが秋原くんのことを傷つけようとしているなんて、わたしは耐えられない。だから、わたしはいなくなるの。わたしはもう秋原くんと……」
「玲衣さん」
俺は水琴さんの下の名前を小さく呼んだ。
びくっと水琴さん……いや、玲衣さんが震える。
「どうして……こんなときに名前を呼ぶの? 秋原くんは、ずるいよ」
「晴人くん、って呼んでくれないと。俺たちは恋人のフリをしているんだから」
「それはやめにするって言ったよ」
「俺はやめたくないんだよ」
「わたしだって、やめたくないよ。晴人くんに恋人みたいに甘やかしてもらいたい。だけど……」
「俺が玲衣を遠見家から、いや、玲衣を脅かすあらゆるものから守るから。だから、俺は玲衣さんにうちにいてほしい」
玲衣さんが大きく目を見開いた。
それでも、なお玲衣さんは迷うようにしていた。
俺は玲衣さんに重ねて言った。
「遠見家が怖いなら、一緒に戦えばいいよ。玲衣さんも俺も一人じゃないんだから、きっとなんとかなる」
「でも……」
「夏帆以外に好きかもしれない人がいるって、俺は言ったよね。あれ、玲衣さんのことなんだよ」
玲衣さんは一瞬、きょとんとした。
それから、顔をかぁぁっと赤くし、恥ずかしそうに身をよじった。
「わ、わたし? ホントに、わたし?」
「他に誰がいると思う?」
「晴人くんが、わたしのことを好き……かもしれない。すごく嬉しいけど、『かもしれない』ってなに?」
「いろんなことがいっぺんに起こりすぎて、自分の考えがまとまらないんだよ」
玲衣さんのことも、夏帆のことも、ユキのことも。
あまりにも同時に複雑な事情が明らかになった。
夏帆が俺の姉かもしれなくて、でも、俺のことは好きだというのが一番の問題だった。
夏帆が俺の姉にしろ、そうでないにしろ、それを解決してからでないと、俺は玲衣さんに向き合えそうになかった。
玲衣さんが俺を睨む。
「晴人くんって……優柔不断」
「ごめん」
「でも、いい加減な気持ちで好きって言うより、その方が誠実だと思う。だから、わたし、晴人くんに好きって言ってもらえるように頑張るから」
「え?」
「晴人くんに、佐々木さんよりも、わたしのことを好きになってもらうの」
「それって、つまり……」
「こないだ、晴人くんはわたしに言ってくれたよね。わたしと晴人くんの関係は、わたしがしたいように決めていいんだって」
「もちろん。忘れるわけない」
「わたしはね、決めたの。晴人くんの恋人になって、甘やかしてもらうんだって。わたし、晴人くんのことが好きだから。ううん、大好きだから」
玲衣さんは顔をますます赤くしながらも、嬉しそうに微笑んだ。
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