第39話 遠見の妹、そして暗転

「デート中のところ申し訳ないのですが、少し姉をお借りしてもよろしいでしょうか? 五分もお話したら、すぐにお返ししますから」


 遠見のお嬢様は、穏やかに言った。


 俺たちの町に本社を置く巨大企業グループ「遠見グループ」。

 その経営者一族が遠見家だ。


 町の川向うにある大豪邸が遠見の屋敷で、水琴さんは少し前までそこに住んでいた。

 俺にとっても、遠見家は本家筋にあたる。


 水琴さんをちらりと見ると、怯えたように後ずさっていた。

 大丈夫だろうか?

 

 水琴さんは遠見の屋敷にいられなくなったと言っていた。

 俺の父は、遠見家が水琴さんをひどく扱ったとも語っていた。


 この水琴さんの妹だという子は、信用できるんだろうか?


「俺は君と水琴さんが少し話すぐらいかまわないけど……」


 慎重に俺が言うと、遠見さんは綺麗に微笑んだ。

 けれど、その表情はどこか作り物めいていた。


 俺の内心を見透かしたように、遠見さんは言う。


「姉と妹が語り合うのを、それほど警戒なさらなくてもよいと思いますよ」


 遠見さんは水琴さんの手をとった。

 びくっと水琴さんが震える。


「さあ、姉さん。お話しましょう。電話にも出てくれないから困っていたんですよ?」


 あっという間に、遠見さんは水琴さんを連れて、俺から離れた場所へと行ってしまった。

 駅構内のちょうど正反対側の壁のあたりで、通行人の間から姿は見えるけど、騒音のせいで、二人が何を話しているかはまったく聞こえない。


 二人が話し始めると、遠見さんはとても楽しそうで、それだけを見ると微笑ましい姉妹の会話にも見えなくもない。

 けれど、反対に、水琴さんの顔はどんどん暗くなっていく。


 しばらくして、こちらに戻ってきた水琴さんの顔を見て、俺はぞっとした。

 水琴さんの顔は何か怖ろしいものを見たように、恐怖に引きつっていた。


「だ、大丈夫? 水琴さん?」


「平気……だけど」


「だけど?」


「ごめんなさい。秋原くんには悪いけど、今日はもう、わたしは帰るから。」


 いま、水琴さんはなんて言った?

 あれほど行きたがっていた水族館へのデートはやめるという。


 それに、呼び方も「晴人くん」から「秋原くん」に戻っている。

 

「それと、恋人のフリも……終わりにしましょう」


「え?」


「だって、秋原くんはわたしのことを好きじゃないし、わたしも秋原くんのことを好きじゃないのに、馴れ馴れしくするのって、やっぱり変だなって」


「それは水琴さんの本心?」


 俺がまっすぐに水琴さんを見つめると、水琴さんは苦しそうに目をそらした。

 その青い瞳にはうっすら涙が浮かんでいる。


 恋人のフリをやめたいというのは、きっと水琴さんの意思じゃない。

 遠見さんにきっと何か言われたのだ。


 そして、遠見さんが言ったのは、これだけ水琴さんの様子を変えさせてしまうぐらい、ひどいことなんだろうと思う。


 俺は水琴さんの肩を軽くつかんで、こちらに引き寄せた。

 あっ、と水琴さんはつぶやくと、そして顔を赤くした。


「あの子に何を言われた?」


「それは……言えないの」


「言えなくてもいいけど、でも、たとえひどいことを言われても、気にする必要はないよ。俺は水琴さんの味方だから」


 水琴さんが大きく目を見開き、嬉しそうに微笑んで、でも、首を横に振った。


「秋原くんが心配することじゃないよ。大丈夫。わたし、やっぱり東京の女子寮に行くことにしたから」


 俺は呆然とした。

 すべてがひっくり返った。


 本当にどうしたんだろう?

 いったい遠見さんは何を言って、これほど水琴さんを変えてしまったのだろう?

 

「わたし……秋原くんに、迷惑をかけたくない」


「水琴さんはそれでいいの?」


「……わたしだって、秋原くんと一緒にいたい! ずっと一緒にいたいの……。でも、それはできないの」


 水琴さんは途切れ途切れにそう言うと、そっと俺から離れた。

 そして、俺を青い瞳でじっと見つめた。


「秋原くん、今日はありがとう。わたし、ここから家に一人で帰るから。さよなら。たぶん、本当のお別れもすぐだと思う」


 そう言うと水琴さんは人混みのなかへと駆け出した。

 しまった。


 俺は追いかけようとしたが、通行する人たちに阻まれて追いつけない。

 このままだと見失いそうだ。


 そのとき、俺は誰かに袖を引っ張られた。


 振り返ると、遠見さんがそこにはいた。

 遠見さんはにっこりと笑った。


「不作法ですみません」


「ごめん。急いでいるんだ」


「姉を追いかけるんですか? 無駄だと思いますよ。もうあの人は先輩の恋人ではいられないんですから」


 俺は思わずきつく遠見さんを睨んだが、遠見さんはまったく気にした風もなく肩をすくめた。


「先輩は何も知らないんですよ。私の姉のことも、佐々木夏帆さんのことも」


「夏帆?」


 どうしてここで夏帆が出てくるんだ?

 俺が混乱した隙をついて、遠見さんはさっと姿を消した。


 たぶん、遠見さんが俺に話しかけた理由は一つ。

 俺に水琴さんを追わせないようにしたかったんだろう。

 

 実際に俺は水琴さんの姿を完全に見失った。


 俺は後悔した。

 水琴さんを離すべきではなかった。


 でも、さすがに今日明日で家からいなくなったりはしないだろうし、水琴さんと話し合う時間はあるはずだ。


 俺は町へ戻る路線のホームへと急いだ。

 けれど、俺がホームに着くと、ちょうど白い電車の扉が閉まり、出発するところだった。

 

 きっとあれに水琴さんは乗っている。

 運が良ければ、車内で合流できると思っていたのだけれど。


 俺は天を仰いだ。


 いつのまにか、外は土砂降りの雨だった。

 みんな傘を持っている。


 俺も傘を買わないと。


 そして、次の電車が来るのを待つ間、電車に乗っている最中、そして降りて家へと向かうまで、ずっと水琴さんのことを考えていた。


 水琴さんは俺とずっと一緒にいたいと言った。でも、それはできない、と。

 なぜだろう?


 それに、遠見琴音さんというお嬢様。

 遠見さんはいったい何者なのだろう?

 もし遠見さんが水琴さんを苦しめているなら、彼女は俺の敵だ。


 そして、水琴さん自身の問題。


 どうして水琴さんが遠見の屋敷にいられなくなったのか、俺は知らない。 

 そして、自分が遠見の「偽物のお嬢様」だとも水琴さんは言っていた。

 他の兄妹とは母親が違う、とも。


 遠見さんの言っていたことは正しい。

 結局、俺は水琴さんのことを何も知らないのだ。

 だから、知ろうとしないといけない。


 俺は水琴さんに一緒の家にいてほしいと言い、それは正直な気持ちだった。

 だから、水琴さんが本心から望んでいないなら、東京の女子寮に引っ越すなんて話は止めてしまいたい。


 俺は水琴さんとどう話し合おうかと、頭の中でシミュレーションを繰り返した。


 心は水琴さんのことでいっぱいになっていて、俺は他のことを考える余裕がなくなっていた。

 俺は、家に帰れば水琴さんが先に戻っているものだと思いこんでいたけれど、期待を裏切られた。


 玄関の前で、一人のセーラ服の女の子が待っていた。

 短めの綺麗な髪をしたその子は、元気がなさそうに扉を背にして、廊下に座り込んでいた。


 俺が戻ってきたのに気づいたのか、その子は顔を上げた。


「お帰り、晴人」


 俺を待っていたのは夏帆だった。

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