第12話 女神様をおんぶする

 茶髪の高校生の男は下卑た笑いを浮かべ、水琴さんの胸を触ろうとした。

 水琴さんは後ずさり逃げ出そうとしていた。

 でも、背後には壁があり、すぐに行き止まりになってしまう。


 水琴さんは迫る男の手を見て、首を横に振った。

 そして、美しい顔を恐怖に歪め、両手で顔を覆った。


「嫌だ……こんなの、嫌。誰か……助けて!」


 水琴さんが叫ぶのと同時に、男はさらに一歩、水琴さんのほうに踏み込んだ。

 しかし、男の手は水琴さんに届かなかった。


「へ?」


 男は間の抜けた声を上げると、その場に崩れ落ちた。

 俺が足を軽く払ったら、あっさりと男は態勢を崩したのだ。


 まったく警戒心が足りないな、と俺は思う、

 

 残りの男子生徒二人はいきなり俺が現れたことに呆然としていたが、やがて片方の男が血相を変えて俺に殴りかかってきた。


 でも、ただ力任せに手を振るっているだけだ。


 俺はそれをかわして、その男の腹を蹴り上げた。

 男はぐふっと声を上げて悶絶した。

 悪いが、そちらから殴りかかってきたんだから、これぐらいは我慢してほしい。


 最後の男も同じように殴りかかってきたので、その腕をつかんで投げ飛ばす。投げられた男は、最初に足を払った男の上に落ちて、二人仲良く行動不能になった。


 さて、次にやることは一つ。


「逃げるよ、水琴さん」


 水琴さんは何が起こったのかわからないという顔で呆然としていた。


 男たちは怪我をしたわけじゃないし、すぐにまた行動できるようになる。

 そのときはさっきみたいに油断しているわけじゃないし、三人まとめてかかってこられたら、困ったことになる。


 水琴さんがまったく動く様子がなく、こちらに来ないので、仕方なく俺は水琴さんの手をとった。

 

 温かい感触がする。

 女の子の手を握る機会なんて、俺にはあまりない。

 これが夏帆の手だったら、もっといいんだけれど。


 水琴さんが顔を赤くしたが、そんなことを気にしている場合じゃない。

 俺は水琴さんの手を引いて、走り出した。

 廃墟を出て、細い路地に出る。


「表通りにさえ出れば安全だから、とりあえずそこを目指そう」


「……うん」


 水琴さんは走りながら、小さく返事をした。

 古いアパートと廃ビルだらけのエリアを走り抜ける。

 まだ、男たちが追ってくる気配はない。


 まあ、これなら楽勝で逃げられるだろうな、と俺が思っていた。

 そのとき。


「きゃっ!」

 

 水琴さんが可愛らしい悲鳴を上げて転んだ。

 アスファルトの地面に勢いよく転倒した水琴さんは「痛い……」と言い、涙目になっていた。

 俺は慌てて腰をかがめ、水琴さんに声をかけた。


「大丈夫? ごめん、急ぎすぎたかな」


「秋原くんが謝ることじゃないと思う。でも……」


 水琴さんは立ち上がろうとすると、「……っ」と短く痛みにうめいた。

 足をひねっているみたいだ。

 かなり痛むみたいで、一歩も歩けなさそうだった。


「秋原くん、先に行っていいから」


「先に行くって、このまま水琴さんを置いていくわけにはいかないよ。またあいつらに捕まってしまう」


「わたし、秋原くんに助けてほしいなんて言ってない」


「さっき廃墟で『助けて』って叫んでたよね?」


「あれは、その……。ともかく! 秋原くんだけでも逃げたほうがいいと思うの」


 俺は肩をすくめた。

 そう言われて逃げるぐらいなら、最初から助けに入っていない。

 俺は腰をかがめ、水琴さんに背中を向けた。


「……なに?」


 水琴さんの不思議そうな声が背後からかけられる。

 俺はその姿勢のまま答えた。


「背負っていくから、つかまってよ」


「おんぶしてくれるの?」


 俺はくすりと笑った。


「なにかおかしい?」


「おんぶって、水琴さんも可愛らしい言葉を使うんだなって思って」


「普通の言い方でしょ」


 水琴さんがちょっと恥ずかしそうに言った。

 微笑ましくて、俺はつい頬を緩めたけど、先を急がないといけない。

 俺が水琴さんを急かすと、ちょっとためらったみたいだけれど、結局、水琴さんは俺の背中に抱きついた。

 

 水琴さんの柔らかい部分が、俺の身体に押し当てられる。

 俺は思わず赤面しそうになり、邪念を振り払った。

 今は逃げることが先決だ。


 俺は水琴さんを背負うと、ふたたび走り始めた。


 けど、水琴さんにも俺の考えたことが伝わっていたのか、背中から照れたような小さな声が聞こえた。


「秋原くん……変なこと、考えていない?」


「考えてないよ」


「嘘つき。どうせ、わたしの胸が柔らかいな、とかそんな事考えてくるくせに」


 たしかにセーラー服ごしから感じる水琴さんの胸はかなりの質感があるような気もする。

 比較対象がないからわからないんだけど。


 水琴さんは俺の耳元でささやいた。


「でも、今だけ、秋原くんには変なことを考えるのを許してあげる」


「それって……」


「ご、誤解しないで。べつにわたしは……」


 と言って、水琴さんが体を動かそうとし、俺の背中と水琴さんの柔らかい胸がこすれる。


「あっ、ひゃうっ」


 水琴さんが甘いような、変な声を上げて、俺はますます水琴さんのことを意識し、赤面した。


「し、しっかりつかまっててよ」


「う、うん……そうする」


「ええと、ありがとう。ともかく、家につくまで、我慢してよ」


 そんなことを話しながら、俺は路地の交差する場所で右折と左折を繰り返した。

 こうしていれば、連中をまくことができるかもしれない。

 ここは俺の地元だから、俺のほうが詳しい。 


 そして、路地が歪んで通っていて物陰に隠れやすい場所が出てきた。

 俺はそこで立ち止まり、いったん水琴さんをおろした。


「ここでいったん奴らをやり過ごそう」


「わかった。それにしても、秋原くんってけっこう力が強いのね。わたしを楽々背負って走れてしまうし」


「まあ、男だからね。それに水琴さん、かなり軽いから」


「そう?」


「そう」


「それにしても、さっきの男たちを簡単に倒したのも驚いちゃった」


「まあ、昔、いろいろあって慣れているんだよ」


 水琴さんがちょっと俺を見直したという目で見つめてくるので、俺はむずがゆかった。

 喧嘩に強いなんて、何の自慢にもならない。


 しばらくして、俺は水琴さんをふたたび背負った。

 今度は水琴さんは抵抗もためらいもせず、俺の背中に身体を預けた。

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