第8話 女神様の住んでいた屋敷

 女神様はもとの家に帰れないという。

 本当だったら、俺はその事情を聞くべきなのかもしれない。


 けれど、水琴さんはその綺麗な碧い目を伏せて、怯えたように震えている。


 そんなつらそうな表情の子に、無神経に問いただすことはできない。

 俺たちは遠い親戚というだけの、他人なんだから。


 俺はなんて言葉をかけていいかわからず、一瞬、その場を沈黙が支配した。


 そのとき、給湯器の自動湯張り完了の音が部屋に鳴り響いた。

 風呂の湯の準備ができたらしい。


 俺はほっとして、水琴さんに微笑みかけた。


「さきに風呂に入ってきなよ」


「でも、わたし……」


「事情の説明とかは後でいいからさ。ともかく身体を温めることが一番大事だよ。ああ、そうだ。着替えが必要だったっけ」


 俺は押入れの上の方から、紺色のジャージ一式を取り出した。

 それから、俺は水琴さんを振り返ってちらりと見た。


 改めて見ると、水琴さんはスタイルもかなり良くて、背も女子としては高いほうだ。

 それでもさすがに男の俺の服では、かなりだぶだぶになってしまうと思う。

 

 まあ、仕方ない。

 下着をどうするつもりなのかは知らないけれど、そんなことは当然、聞かない。


 水琴さんはジャージとを受け取ると、「ありがと」と小さく言い、それを見つめた。


「これって秋原くんの?」


「そのとおり。この部屋には俺の服と、あと父さんの古い服しかないからね。我慢してよ」


「洗ってある?」


「もちろん。俺はけっこう几帳面なんだよ」


 水琴さんは部屋をくるっと見回し、そして、納得したようにうなずいた。


 高校生の男一人で暮らしている部屋としては、かなり片付いているほうだと思う。

 洗濯や料理だって手抜きはしていない。


 湯船につかってもらう前に、一つだけ聞いておくことがあった。


「水琴さんさ、夜ご飯はもう食べた?」


「食べてない」


 夜になってから、荷物をまったく持たずにここまでやってきたらしいから、たぶん夕食はまだだろうと思っていた。

 財布すら持っているのか怪しいものだと思う。

 

 そして、俺もまだ夕飯は食べていなかった。

 俺は微笑した。


「食欲はある?」


「わたし? お腹は空いてるけど、それがどうかしたの?」


「いや、なんでもないよ」


 俺の言葉に、水琴さんは不思議そうな顔をしたが、やがてふらふらとした足取りで風呂場に消えていった。


 俺は食卓の椅子に座った。

 そして、ため息をついた。

 いったいどうなっているんだろう?


 今後はともかく、水琴さんが今日ここに泊まっていくことはほぼ確実だ。

 けれど、それはいろいろな意味でまずいような気がした。


 年頃の男女が同じ部屋に寝ることを勧める大人がいたら、俺はその良識を疑うと思う。

 まあ、雨音姉さんのことなんだけど。

 俺はスマートフォンを取り出して、すべての元凶である雨音姉さんの携帯に電話した。


 アメリカにいる雨音姉さんにかけるわけだから国際電話になるけれど、料金プランの関係上、そんな大した金額にはならないはずだ。


 問題は、時差を考えると向こうは早朝だということだ。

 起きているかどうかが心配だけど、さっき水琴さんのところに雨音姉さんから電話があったらしい。

 それなら、たぶん大丈夫だ。


 ワンコールもしないうちに電話がつながった。


「Hello? This is Amane Akihara.」


 綺麗な発音だった。

 電話をかけて、こういう応答があると、雨音姉さんが留学しているんだなってことを実感する。


 アメリカの、しかも名門大学に留学している雨音姉さんは、俺なんかと違ってものすごく優秀だった。


 ただ、良識は欠けているかもしれないけれど。


「晴人です。秋原晴人。朝早くからごめん。もう起きてるんだね」


 と俺が言うと、「ああ!」とはずんだ明るい声が返ってきた。

 

「久しぶり! 私は言葉にするまでもなく当然のように元気だけど、晴人君は元気してる?」


 そんなに自分が元気なことを強調しなくてもよいのに、と俺は思って苦笑した。

 でも、雨音姉さんと話していると、自分も少し元気になるような気がする。


 俺は雨音姉さんの問いかけに答えた。

 

「おかげさまで元気だよ。それよりさ、俺の電話番号は登録してなかったの?」


「してるけど、誰からか確認せず応答ボタン押しちゃった」


「そこは確認しようよ……」


「そろそろ晴人君が電話してくるころだと思ってたよ」


 電話の向こうで、にやりと雨音姉さんが笑みを浮かべる姿が想像できた。


 この人はいつも変なことを考えて、なんでも自分の思い通りにしたがり、人の迷惑を考えずに好き勝手に行動する人だった。


 でも、俺は雨音姉さんのそういう自由なところが嫌いじゃなかった。


「雨音姉さんさ、うちの鍵のことなんだけど、俺のクラスメイトに渡したんだって?」


「渡したよ。あなたとわたしのはとこの、水琴玲衣さんにね」


「なんでそんなことしたの?」


「だって、もったいないでしょ?」


「へ?」


「私が留学したら、その鍵、誰も使わずに余っちゃうじゃない。だったら、使うかもしれない人に渡しておいたほうが良いかなって」


「うちの鍵をそんな賞味期限切れ間近のプリンみたいな扱いをしないでよ……」


「いいでしょう? 私の家の鍵でもあるんだから」


「いまは俺しか住んでいないよ。だいたい、高校生の男女が二人きりで同じ家っていうのもまずいと思わない?」


「あ、いやらしいことを考えてるんだ? でも、それを言ったら、私と晴人君だって、ちょっと前まで二人きりでその家に住んでたでしょ?」


 まあ、たしかに父さんが単身赴任してから、俺と雨音さんはこの家に二人きりだった。

 でも、それとこれとは問題が違う。

 雨音姉さんが楽しげな弾んだ声で続ける。

 

「もしかして晴人君、私と二人きりでいるときも、エッチなことができるかもしれないって想像してたんだ?」


「してないよ! だいたいこんなこと、父さんが聞いたらどう思うか……」


「心配しなくても、鍵を水琴さんに渡したことは叔父様もご存知だから」


 俺は思わず電話を手から落しそうになった。

 雨音姉さんによれば、雨音姉さんの叔父、つまり俺の父の了承済みらしい。


 ますますわけがわからない。

 雨音姉さんと違って、父さんは常識人のはずだ。


 俺は雨音姉さんに尋ねた。


「水琴さんは前の家に住めなくなったらしい。だから、うちに住むっていってる。それも雨音姉さんの提案なんだって?」


「そのとおり。あの子は遠見の屋敷のお嬢様なの」


 さらっと雨音姉さんは言った。


 ああ、なるほど。

 水琴さんが大企業の社長令嬢だって噂は聞いていたけど、ある程度は本当だったわけだ。


 遠見家はこの地方都市で最も大きい企業グループのオーナー一族だった。

 遠見グループは建設・通信・不動産・小売など多くの事業を手掛け、グループ連結で数千億もの売上高を誇る。


 そして、遠見家は秋原家の本家筋にあたる家だった。


 秋原家は江戸時代後半に遠見家から分かれた家だという。それに加えて、俺たちの祖父の妻、つまり祖母も遠見家の出身だった。


 ただ、非常に残念なことに、秋原家は、遠見家と違って何の財産も持っていない。

 だから、俺の父は普通の公務員だし、俺はこんな安いアパートに住んでいるわけだ。


 いまどき本家や分家なんて言葉は死語になりつつあるし、俺自身、遠見家とは疎遠でほとんど足を運んだことはない。


 それにしても変だ。


「名字が違うよ。水琴さんが遠見の家の人なら、どうして遠見姓じゃないのさ?」


「複雑な事情があるの。いまは説明できないけど」


 俺はもういっぺんため息をついた。


「ただの親子喧嘩で家出したとかだったら、今からでも水琴さんを遠見の屋敷に送り届けてくるつもりだった。けど、そういうわけじゃないんだね?」


「普通の家出なんかじゃないわ。あの子は本当にお屋敷には戻れないの。だから、守ってあげなさい」


「水琴さんを守る? 俺が?」


「大丈夫。晴人君ならできるよ。あなたは優しいから」


 そして、「忙しいから」と言って、雨音姉さんは電話を切った。

 早朝から勉強しなければならないほど学業が大変なのはわかるけれど、こちらの事情も考えてほしい。


 雨音姉さんは俺のことを「優しい」と言い、だから水琴さんを守れるのだと言った。

 けれど、優しいことなんて何の役にも立たない。


 夏帆は俺のことをいつも優しい人だと言ってくれていた。

 けれど、それでも夏帆は俺を振った。


 俺は父さんに電話をしたけれど、つながらない。

 残業中なのかもしれない。


 シャワーが流れる音がする。

 水琴さんが身体を洗っているんだろう。


「……きゃあああああああっ!」


 突然、水琴さんの悲鳴が聞こえた。

 俺は慌てて、浴室の方へと行く。

 いったいどうしたんだろう?


「た……たすけて!」


 短くあえぐような声で水琴さんが助けを求めていた。

 中の水琴さんは裸だけど、でも、もしなにか取り返しのつかないような事態が起こっていたら――。

 俺は一瞬ためらい、結局、浴室の扉を開けた。

 水琴さんは震える手で、壁を指差していた。


 そこには黒色の大きな虫がものすごい速さで疾走していた。

 俺は浴室隣の洗面台の下から殺虫剤を素早く取り出して、吹きかける。

 

 そうすると虫は死んで、ぼとりと床に落ちた。

 水琴さんは安心したように、ほっと息をついた。


 どうやら虫が怖くて悲鳴をあげていたみたいだ。

 

「ありがと……」


 水琴さんは小さくつぶやき、そして、自分がいまどんな状態か気づいたみたいだった。

 

 水琴さんの一糸まとわぬ体の肌は、おそろしく白かった。イギリス人とのハーフだという噂を思い出す。

 そして、シャワーを浴びていたから、銀色の髪はしっとりと濡れていた。

 その髪が柔らかな胸の膨らみにかかり、扇情的な様子になっていた。


 俺は慌てて目をそらしたが、遅かった。


「きゃあああああああっ!」


 水琴さんが綺麗な悲鳴を上げ、そして白い手で俺の頬を平手打ちしようとする。

 ただ、俺はそれなりに喧嘩慣れしていたから、反射的に水琴さんの手首をつかんで防いでしまった。


「あっ……」

 

 水琴さんは体を震わせ、無抵抗になった。

 そして、怯えたように、青い瞳で俺を上目遣いに見つめた。 


 水琴さんからしてみれば、この状況は恐ろしいだろう。

 自分は全裸で、よく知りもしない男と二人きり。

 しかも手をつかまれていて、抵抗しても力では決して敵わない。


 俺は肩をすくめて、「ごめん」とつぶやき、虫の死骸を拾った。

 そして、回れ右をして浴室から出る。


 不可抗力とはいえ、悪いことをしてしまった。

 これから水琴さんはこの家に住まないといけないのに、不安だろう。


 それにしても、水琴さんがもともと住んでいたのは、遠見の屋敷……か。

 中心市街地から西へ川を渡り、山のふもとにあるのが、遠見の屋敷だった。

 川向うの屋敷といえば、この町の住民なら、誰でも遠見家の屋敷のことを思い浮かべる。


 小学生のときに、遠見の家を訪れたときのことを思い出す。

 

 大きな古めかしい門の向こうには、純和風の大きな日本家屋と庭園が広がっていた。

 大豪邸だったけれど、なんとなく暗く、沈み込むような雰囲気に覆われた屋敷だった。


 俺はまとまらない考えを打ち切った。

 お腹が減った。


 帰ってきたらさっそく夕飯を食べるつもりだったのに、かなり時間が経ってしまった。

 さて、簡単にだけれど、食事の用意をしよう。


 もちろん、水琴さんの分もだ。

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