第7話 女神様が怯えている

 俺と水琴さんは「はとこ」らしい。

 つまり、俺の祖父母の誰かと、水琴さんのおじいさんかおばあさんが兄弟ということだ。


 そんなことは初耳だ。

 俺がそう言うと、水琴さんもこくりとうなずいた。


「わたしも、今日の夜に初めて知ったわ」


「それはまたずいぶんと最近だね」


「だって、今日この家に行くときになって初めて教えられたんだもの。親戚の家だから、ここに住みなさいって言われたの」


 震えがおさまってきたのか、水琴さんは落ち着いた綺麗な声で言った。


 しかし、まったく経緯がわからない。

 なんだかとても急な話だ。


 たしかに、はとこなんて会う機会もないし、知らなくても当然なんだけれど、それなら水琴さんがどうしてそんな遠縁の親戚の家に来たのかがわからない。


 そういえば、この家の鍵はどうしたんだろう?

 水琴さんが鍵を持っていたわけはない。

 なのに、俺が帰ってきたときにはすでに鍵が開いていた。


「秋原雨音さん、って人から鍵をもらったわ」


 ああ、なるほど。

 と一瞬、納得しかけて、おかしいなことに気づいた。


 このアパートの部屋の鍵を持っている人はたしかに俺以外にも三人いる。


 一人目はもちろん、北海道釧路市に単身赴任中の俺の父。この部屋の借り主である。

 二人目は、俺の幼馴染の佐々木夏帆だ。夏帆の持っているのは合鍵で、しかも最近ではほとんど使われていない。

 

 そして、最後の一人が雨音姉さんだ。

 雨音姉さんは俺の従姉で、女子大生。


 従姉ではあるけれど、五年前に雨音姉さんが両親を失ってうちに引き取られた日から、俺と雨音姉さんは家族同然だった。

 ずっと俺と父さんと雨音姉さんの三人は、このアパートで一緒に暮らしていたのだ。

 当然、雨音姉さんはこの部屋の住人だから、鍵を持っている。


 そういうわけで、父さんは単身赴任しても、なにかあったら雨音姉さんが俺のことを助けてくれると安心していたらしい。


 しかし、重大な問題が一つ生じた。

 その雨音姉さん自身がこの町からいなくなってしまったのだ。


 雨音姉さんはこのアパートを離れて、今年の秋からアメリカのペンシルヴァニア大学に留学してしまった。

 だから、雨音姉さんは日本にすらいない。


 つまり、今日、水琴さんが雨音姉さんから鍵をもらえたはずがない。

 俺がそう言うと、水琴さんは困ったような顔をして、スカートのポケットから銀色の鍵を取り出した。


 白猫のキャラクターキーホルダーがつけられたその鍵は、たしかに雨音姉さんが持っているのはずの鍵だった。


「雨音さんから鍵をもらったのは本当なの。でも、もらったのはかなり前。今年の八月だったと思う」


「雨音姉さんが海外に行く直前だね」


 たしかに雨音姉さんにこの部屋の鍵を留学中にどうするつもりかは確認しなかった。

 雨音姉さんは家族だし、雨音姉さんの荷物だってまだここに置いてある。


 だから、いつここに帰ってきてもいいように鍵は持っていてもらおう、と俺は考えていた。


 その鍵がまさか縁もゆかりもない女の子の手に渡っていたなんて、知らなかった。

 いや、まあ、クラスメイトで、はとこでもあるから、まったく縁がないわけでもないんだろうけれど。


 それでも、鍵を渡すような仲じゃない。


 俺は水琴さんに追加で質問した。


「水琴さんって雨音姉さんと知り合いなの?」


 と聞いたあと、水琴さんがマグカップに口をつけてミルクを飲んでいるのを見て、俺は少し後悔した。


 ちょっと立て続けに質問しすぎた。

 あんなに寒そうにしていたんだから、質問よりも、さきに温かい飲み物を飲んでもらうほうが大事だ。


「ごめん。ゆっくり飲みながら、答えてくれればいいよ」


「……なんで謝るの?」


「質問攻めにしすぎたなって思って」


「ふうん」


 水琴さんはちょっと変わったものを見るような目で俺を見た。

 そして、ふたたびマグカップを机に置いた。


「雨音さんとは一回しか会ったことはないの。わたしが前に住んでいた家にいきなり現れて、遠縁の親戚だって名乗って、いきなりこの鍵を渡してくれた」


「まあ、雨音さんは行動が突飛というか、いろいろ予想できない人だけど、それにしてもよくわからないな。それで、その鍵のこと、なんて言ってた?」


「この鍵をくれたときに何も説明はなかったの。どこの鍵なのかもわからなかった。ただ、『幸運のお守りみたいなものだから、大事に持っておいてね』って。それだけで」


「なんで俺の家の鍵がお守りになるの?」


「わからない。わからないけど、今日どこにも行けなくなって困っていたら、雨音さんから電話がかかってきて、秋原くんの家に住むようにって」


 水琴さんがマグカップに唇を触れさせたのを見て、俺は質問をいったん止めた。

 そして、ホットミルクを飲みきったのを確認して、尋ねた。


「昨日まで住んでいた家はどうしたの?」


 俺が尋ねると、水琴さんはびくりとし、毛布を引き寄せて小さく震えた。

 氷の女神様はなにかに怯えている。


 そして、水琴さんは俺を上目遣いに見て、首を横に振った。

 水琴さんの綺麗な銀色の髪がふわりと揺れる。


「わたしはあの家には戻れない。……戻りたくないの」

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